奥様は、旦那様のお役に立ちたい(2)
アーリーシャ王女殿下は、白磁人形のように美しく可愛らしい方。
王陛下の特徴を受けつがれた容姿で、きらびやかな金髪というより春苺を溶かしたような金髪が緩やかに波打っていて、瞳は若々しく萌える若葉色。
お兄様方も大変な美貌ですが、王女殿下も童話のお姫様のように透明感のある美しさをお持ちです。また13歳という年齢が幼さを残して、愛らしくも見せています。
私は、王女殿下とはきちんと話したことはありません。
日中の式典に参加される姿を近くで拝見したことはありますが、ご挨拶をしたくらいです。
お兄様方と仲がよろしくて、けれど私の存在を認識しているとは思えない様子でした。しかも公の場では髪も顔も隠すようにと言われていた私を、今になって気にかけるというのは。
憶えていたのではなく、誰かから知らされたのだとしたら。
「エレナ嬢。いえ、辺境伯夫人ですわね」
「はい。イングレイス辺境伯夫人が王女殿下に挨拶申し上げます」
「ねえ、お姉様と呼んでもよろしい?」
大変親しい様子でそう言われて正直困惑しました。
未婚の、成人前の、いたいけな令嬢たちが内輪で呼び合う分にはまったく問題ありませんが。
今はエストラダ公爵が主催する狩猟会、紳士たちが狩りに出発した後に家ないし派閥に分かれて立てた天幕のお茶会という、公の場です。さらにここは小公爵夫人が用意した天幕です。集まっているご婦人方はマッサーナ家と親しい方々、つまり王族に近しい方ばかりです。
だから許されるかと言えば、余計にダメです。……私が。
私自身を知る方はほとんどいなくても、かつてのエレナ・モンテスが殿下のお側に控えていた事実は大勢の方が知るところです。婚約者候補だった私が辺境伯に嫁いだ理由も。それらの噂が大きくなりすぎて王城を離れたようなものですから。
そんな私を、王女殿下が「お姉様」と呼ぶのは。
今度は嫁いだ身でありながら殿下と親しくしていると言われかねません。どちらの方とは言及しませんけれど。
王女殿下にそんな意図はない、…ことはないでしょうね。今まで話したこともなく突然のお言葉ですから。
「素敵な提案でございますが、私では身に余ります」
「わたくしがそうしたいの。いいでしょう?」
「……重ねて、申し上げますが」
「では、わたくしのことは名前で呼んで。愛称でもよくてよ?お兄様にしか呼んでもらえなくて淋しいの」
お断りの前に、明言されてしまいました。お兄様だけがお呼びする愛称を私が呼んでしまったら、それは、関係性の肯定というより主張と見られるでしょう。
これが、彼女個人の考えなのか誰かからの思惑を含むのか、まだわかりません。
わかりませんが辞退できる空気ではなさそうです。うがった見方をしなければ、期待をするキラキラした目が新緑のように輝いていてとても可愛いです。
「恐縮です。アーリーシャ様」
お呼びして礼をして、とりあえず着席願おうとしたのですが。お人形のように可愛らしい顔が年相応にほころびました。
「わたくしの愛称はね、異国の言葉なんですって。お兄様がつけてくれたの。お姉様はご存知でしょう?」
心の中できゃーっと叫んでしまいました。
その愛らしさと、言葉の内容に。
知っていますけど、エステバン殿下からお聞きしてますけども。私が知っていることを本当にご存知なのか試されているのか、どちらでしょうか。とりあえず周囲からの視線が痛いです。
小公爵夫人の顔をチラリと見ると、微笑みの表情ではありましたがどう嗜めたものかと迷っているように見えました。
ここが夫人の天幕とはいえ、相手は王女殿下ですからこの国で二番目に高貴な淑女です。彼女が席につかないと皆が着席できませんしお茶会そのものが始まりません。
はい、これらのやり取りは王女殿下がいらしてすぐの出来事なんです。
「アーリーシャ様。お時間はございます、楽しいお話はお茶を頂きながらにしましょう」
「そうね。ではお姉様はわたくしの隣よ」
予感はしていましたけど、やはり言われましたか。
私は辺境伯夫人という立場ですので侯爵家とさほど変わらぬ身分です。でも王女殿下のお隣にいられる立場ではありません、決して。
個人的に親しい何かがなければ。
なのでこのやり取りは、他の方から見て「何か」あるように見えると思います。
今までのように好奇や侮蔑の視線や言葉をもらうくらいなら、どうということはありません。そのつもりで大丈夫だと旦那様に答えました。
でも今までと違うのは、私への評価がすべて旦那様につながってしまうこと。
しっかりしないと。
エステバン殿下が間に合っていれば、すっぱり否定してくださって楽だったのにな、とちょっと考えましたが。……してくれるでしょうか。余計ややこしくなるかもしれないですね。
「今年はやはり、バニュエラス公が一番の成績でしょうね」
「東方のアロンソ伯もいらっしゃるからわかりませんわ」
「まあ、でもイングレイス辺境伯はどうです?」
どうにかお茶会が始まって、向けられる視線は好奇。だけどまず、ご婦人方が私の顔を見て私の言葉を聞いているというのが不思議な感覚です。
今まで紳士方と事業や外交に関わるお話をしてきましたが、淑女の皆様とこうして話すことはなかったのだなと改めて思います。相手にされていなかったんですけど。
本当なら殿下のために努力するべきでした、でもしなかった、本来なら社交界での女性の牽引は妃の仕事なのに。殿下の補佐が優先だと関わらなかったのは、したく、なかったのが正直な心です。
だけど今は。私の言動が旦那様の評価になるなら。
がんばろうと、努めようと思えるから私はひどいですね。殿下にはそんなふうに思えませんでした。
にこりと笑って見せると、話を向けてくださった夫人が少しだけ驚いたように瞬いていました。
「成果を捧げてくださると約束しましたので、期待しております。でも正直なところを申しますと、無事にお戻りいただければそれで」
「辺境伯のことですもの、魔物の相手よりよほど楽ではなくて?」
「そうかもしれません。それでも、皆様と変わらず夫の身を案じております」
胸に手をあてて微笑むとそれ以上の言葉はありませんでした。空気が冷えた様子はなかったので、何とか及第点だったでしょうか。
マナーを守ることと会話を展開していくのは違いますね、いくら勉強しても口から出る決して取り消せない言葉は難しいです。
「一等の獲物を狩ってきた者は、自身の姫に捧げるのでしょう?」
まだ成人前のアーリーシャ様に許される無邪気さというのはありますけども。それにしても可愛いです。私が王城にいた頃はまだまだ幼い子供といった感じでしたが、少女らしい可愛らしさと生来お持ちの美しさが素敵です。
「そうですよ。年若い子息たちは皆が王女殿下に捧げることでしょうね」
「バニュエラス公も奥方はいませんし、今年の狩猟の女神は殿下に決まりですわ」
「あら、でも辺境伯が狩ってきたら捧げるのはお姉様ではなくて?」
無邪気とは。ああ視線が痛いです。
確かにヴァレンティンの剣を捧げる誓いは頂きましたが、さすがに旦那様だって王女殿下がいらっしゃる場でそれをないことに、しようとは、……するかも?
でも王家に好感がなくても立場が、あっても気になさらないでしょうね……わあ自信がないです。
「公はお祖父様の弟君でいらっしゃるけど、わたくしを女神にしてくれるなら美しい男性のが良いわ」
確かに旦那様は端正な顔立ちですが、ん?あれ?
「ねえお姉様、いいでしょう?辺境伯の獲物はわたくしにくださいな」
あら?そちら?
思いもよらぬ言葉に瞬いていると、皆様の言葉が引いてただ私の答えを待つ状態になってしまいました。こういう時に擁護してくださるお友達がいないって大変なんですね。
殿下はこの国で二番目に高貴な女性。狩猟会の成果を捧げるのにふさわしくまた当然という考えが貴族にはあります。
ただこの場合。私が了承すると、王女殿下の親しげな態度が示す意味が「私と王太子殿下」の話ではなく「王女殿下と辺境伯」の話になってしまいます。
私がこっそり「王女殿下の顔を立ててあげてくださいな」と頼んで捧げるのと、本人から公然と口にされて捧げるのでは周囲の見る目が違います。
短絡的な解釈の噂が出るかはわかりませんが、王女殿下に意図的に近づいたと言われかねません。今まで王都に近づかずにいた旦那様だからこそ、そこだけ際立って見えてしまいます。
だったら、まだ、奔放な妻を押しつけられた夫という方が同情の余地がありそうです。
「アーリーシャ様。狩りはまだ何日もございます。夫が成果をあげられるかもわかりませんので、まずは今日の帰りを待ってもよろしいですか?あまりにお恥ずかしい成果ではアーリーシャ様に捧げるのもおこがましいことですから」
「辺境伯は腕が立つと聞いていてよ」
「皆様にお聞かせするのも心苦しい、魔物退治での話です。殿下のお兄様のような優美でご立派な姿とは違います」
「あら、今の言葉はお兄様に聞かせてあげたいわ」
今度は間違いなくご婦人方の温度が下がりましたね。でもなんとか返事はぼやかせたでしょうか。
王女殿下のご機嫌を損ねることもなかったようで、明日の午後には外の天幕ではなく殿下のところでのお茶会に誘われました。
私だけですか。そうですか。……が、がんばりましょう。
「エレナ様、お疲れ様です。……本当に」
紳士方がちらほらと戻り始めたのでお茶会はお開きになりまして、天幕を出てすぐにホセが声をかけてくれました。
護衛として私についてくれてますが、彼の今の身分的に天幕の中には入れません。他の家の護衛の方がいらっしゃいますし近くで待機してくれていたようです。
「中のお話って、そんなに聞こえるものですか?」
「いいえ。僕は風の術式が得意なんです。索敵とか防護とかご婦人方の噂話を聞いたりとか。辺境伯のような化け物みたいなおっと圧倒的な術式は使えませんが、必ずあなたを守りますよ」
「ありがとうございます」
そういえば旦那様がホセは器用だと言っていたことがあります。きっとご本人のように細やかで優しい魔力なんですね。
どうしてか、「んんんっ!」と唸ってましたけど。
旦那様のお戻りは、おそらくアーロンさんが先行して知らせてくれると思うのですが。その前に。とっても気になることがあったので、待っている間にホセに聞いてみました。
「あの、旦那様は大丈夫でしょうか」
「辺境伯のどこに心配する要素が?王女殿下のあれですか?」
「いえ、旦那様が剣や槍を扱うとは聞いていますけど、弓のお話は聞かないなあと。でも私は現場は知りませんから、ホセは知っているかなと聞いてみました」
あ、と思い当たった様子でホセが視線を泳がせました。ええ泳いでました。
「僕の浅い経験で、辺境伯が弓に触ったことはないです。遠距離攻撃は術式で充分ですから。ただ狩猟会において、術式で仕留めた獲物が紳士のルールに適用されるかといえば……無粋でしょうねえ」
「銃も一部の部隊では実戦で持ってますよね」
「火薬と術師はですね、相性は悪いようなこれから研究の余地がありすぎるというか」
「いっそ獲物が仕留められなければ、王女殿下に言い訳できるかなって思ってしまいました。でもそれは男性的にはよろしくないですよね」
「かなり格好つけて出て行きましたからねえ」
ホセが言うのは、狩りの前に旦那様が私にしてくださった誓いのことです。
『ヴァレンティの剣と私の心臓を君に捧げる。
君のすべてを守る剣となる誓いと、私のすべてを握る貴婦人に永劫の敬愛を』
剣と心臓を捧げる口上は、騎士叙任の儀式の名残りだそうです。昔の話ですが。
ヴァレンティン家は何代も辺境を守る武芸に秀でた家で、婚姻式にはそれらを妻に捧げるのが慣例だと習いましたので旦那様から聞いた時は嬉しかったです。
聞いた時と場所は、その、教会ではありませんでした……から、思い出したらいけません。昼間に思い出したらいけません。
「エレナ様?大丈夫ですか?顔色が」
「だだだだ大丈夫です!思い出してません!」
「え、ナニを」
ヴァレンティンの剣を頂いて初めてエレナ・ヴァレンティンと名乗れる。夫の心臓を預かって初めて妻となれる。初めて、の、夜を。
「思い出してませんから…!」
「ちょ、待っ、エレナ様いったん部屋に戻りましょう!その顔で辺境伯をお迎えしたら食べられちゃいます!」
「え、どんな顔してますか……」
「僕からは言えませんよ!!」
なぜだか泣きそうなホセに連れられて部屋に戻ると、リサたちメイドが氷点下の笑顔で迎えてくれました。ホセが「僕じゃないです何もしてないです!」と弁解してましたが、私はそんなに情けない顔をしていたでしょうか。
旦那様に会って話さなければいけないことがあるのに。
アーリーシャ様の興味が私にあるのか、旦那様にあるのか。
王太子殿下を慮っているのか、「お兄様」を案じているのか。
アーリーシャ様はとても可愛らしく美しく、私とは比べものにならないと。狩りの成果を捧げる姫として充分すぎる方だと。
お伝えして、明日のお茶会で交わされるだろう会話を考えなければ。
なのに、殿下のような年若い令嬢の目にも、旦那様は格好よく映るんだなあと。
思ったらリサにも「そんなんじゃ食べられちゃいますよ」と叱られました。いったい私はどれだけ情けない顔をしているんでしょう。
エストラダ公爵の領主館はとても立派で広くて、狩猟会に参加される多くの方がこちらに泊まられていますが中には領内の宿に宿泊の方もいらっしゃいます。主に爵位の低い方々でしょうか。
明日の夜会はほぼ全員が出席するので皆が集まります。けれど以外の晩餐に関してはご希望で正餐室に出られない方もいて、こういった心遣いが必要なおもてなしは本当に大変です。こんな規模でなさるなんてすごいな社交をされない旦那様に甘えているなと、私はベッドに潜って落ち込んでいました。
「エレナ。具合が悪いか?」
寝台の端がぎしりと鳴いたので、上掛けからちょっとだけ顔を出します。
「お迎えもせず申し訳ありません……」
「晩餐は断ってきたから大丈夫だ。後で軽い食事だけ頼んだから」
「体調がすぐれないわけでは、ないんです」
「断るいい口実だった」
顔を出した私の頭を、旦那様の大きな手が撫でてくれました。そうして少しだけ強く光る私の灰色の髪が、何も隠してくれません。
お話を、しないと。
お話を聞かないと。
閣下がなさろうとする事を邪魔しないよう、王女殿下の言動をきちんと把握しないと。そう思うのに。
『ねえお姉様、いいでしょう?辺境伯の獲物はわたくしにくださいな』
嫌です。……嫌です。
王女殿下に捧げてそれだけで収まるなら、私からお願いしようと思ったのに。請われて、嫌だと思ってしまえばベッドで丸くなるしかできなくて。
頭を撫でていてくれた手が目の前に置かれて、私の名前を呼ぶ声が耳の中にぽとりと落ちました。
「エレナ。触れても?」
公爵の領主館でお借りした客間は、もちろん夫婦の部屋です。私だけが寝台を占拠しているわけにはいきません。
「…………」
「ホセの隣で二日間我慢した。その前も巡視の予定を詰めたから、二十日くらいかな?」
そして旦那様の仰る意味はわかります。
でも、ここは客間です。お、終えた後のことを考えると居た堪れないでは済まないです。
旦那様の顔が近くにあって、息がかかって、でも触れない距離は、許可がないといけないという約束ではなくて私が焦れるのを待っているみたい。
ずるいです。その通りです。
「エレナ」
だってこの方は私の旦那様なんです。
「全部、下さるなら」
他の人に少しもあげたくないのです。




