奥様は、旦那様のお役に立ちたい(1)
その後の話を少し
春に拾った雛鳥は、ころっとまるっと成長して。
もう大丈夫と籠の扉を開けてやり、高い空に飛び出して昼間は庭でさえずっているのに夜になるとちゃっかり戻ってきて籠で寝ていました。
ここがいいのねと話しかけるとピュルピュルと鳴くので、名前をつけそこねたままロビンと呼んでいる。
「狩猟会ですか」
確認すると、向かいに腰掛けている旦那様は難しそうな顔をして眉を寄せていました。
旦那様は端正なお顔立ちですが、よくこういった難しい顔をされます。それは照れ隠しであったり、魔物の被害であったり、隠したいことがあると眉間にシワが寄るみたいです。
イングレイス領は国の最南端でまだ暖かい日も多いですが、広い国土の北の方はもう冬がそこまで来ているという季節。
届いた手紙を前にお知らせくださるということは、私にも伝える内容だと思うのですが。眉間のシワすごいですね。指でぎゅっとほどいてあげたいです。
「王室か三大公爵家が主催する恒例行事ではあるが、再三の招待を無視していたから近年では音沙汰もなかったんだが」
「今年は頂いたんですね」
「……バニュエラス公からな」
あら、と小首を傾げると旦那様は深い溜息を落としました。
バニュエラス公爵閣下は身分こそ公爵でいらっしゃいますが、先王陛下の弟君という立場で一代限りの爵位を賜った方です。王室と近しい関係を保って続く、俗に三大公爵家と呼ばれる方々とは違います。
軍事を統括する方ですし、御年でも野外の活動的なご趣味をお持ちのようですから狩猟会の参加も納得です。
その方から旦那様にご招待ですか。主催される公爵家ではなく。
「今年の主催がエストラダ公爵で、そちらには了承をとったからと」
「エストラダ公、マッサーナ家ですね」
あらあら、と反対側に首を倒すと旦那様は立ち上がってのろのろとテーブルを回りこんで来ました。「隣に腰掛けてもいいですか奥さん」なんて言うので、ちょっと笑ってソファの端に詰めました。
「寄りすぎだ」
「そうですか?旦那様大きいからこれくらいかなって」
「膝の上でもかまわないんだが」
「お隣って言いました」
仕方ないと腰掛けた旦那様の、腕がにゅっと伸びて膝に乗せられることはありませんでしたが体の半分が密着しました。それだけでもドキドキするのに、腰というかお腹というか回された腕がそのままです。
旦那様のお側はあったかくて安心して大好きです。でも同じくらい心臓がばくばくするので、お話を聞く体勢としてはちょっと、その、頭に入らないと言いますか。
「マッサーナ家からのご招待ではないのですか?」
我ながら声がうわずったなと思っていましたから、笑わないでください。でも、旦那様の眉間のシワがちょっと穏やかになりました。
「了承を得たのは偽りでないだろうが、それを先方がどう思っているのか閣下からの手紙では計りかねる。エストラダ公からの書状では私は出向かないだろうから」
エストラダ公が旦那様を招きたいのでバニュエラス閣下に打診したのか、閣下の純然な好意で旦那様の参加許可を得たのか。
貴族の手紙だけではわかりません。
ただ、閣下から旦那様に宛てたものなら招待状だけでなくもっと砕けた私信を添えてくださるような気もしますが。それはあくまで私の印象です。春の建国祭で少しお話させてもらったバニュエラス公は、友人の子息を我が子のように面白がるいいえ可愛がっていると感じました。
けれど王の子として生まれ育ち、人の生死に直面する軍事の只中にずっと身を置いていらした方です。
穏やかな大きな熊さんみたいなお優しい面だけではないでしょう。だから旦那様も難しい顔をされてるのでしょうし。
「旦那様は、参加されるのですか?」
「……閣下が仰るには『奥方を連れてこい』と」
王室主催の年もあるので、秋の狩猟会は行事として把握はしていました。男性が狩りに勤しむ間、女性はお茶会などの社交をします。数日に渡る日程で夜会もありますので、それなりに大規模な社交場です。
既婚男性が参加されるなら夫人も同行する会ではありますが。
「行った方がよろしいですよね。きっと」
「体面的には。今さらマッサーナの伯父にどう思われようと構わないが、バニュエラス公からの誘いとなっているからな。閣下への不義理は辺境軍への影響もなくはない」
「それでどうして難しい顔をされてるんですか?」
「王族に近い連中の社交場に、君を、放り込むことになる」
そうですね。そうなります。
「私なら大丈夫ですよ。旦那様」
「そう言うだろうと思った」
心配してくださってるんですね。あ、顔が緩みますね。確かに三大公爵家にはとても貴族らしいお考えの方も多いですけど。
お腹にあった大きな手に自分の手を重ねると、む、と声をもらした旦那様が私を簡単に持ち上げて脚の間に下ろしました。お尻はかろうじてソファの座面に触れてますが、両腕で抱きかかえられて旦那様の胸の中にすっぽり収まった状態です。
旦那様は手の平を合わせて指を絡めてつなぐことの次に、この体勢がお好きです。なので慣れました、慣れましたけど、私の心臓は大忙しになります。
「エレナ」
話が頭に入らないどころか、旦那様のことで頭がいっぱいになってしまうのでダメなんですけど。嫌ではないし、離れたくないし、……困ります。
「日中の茶会は男共では手出しできないから。……飢えた獣の中に子兎を投げこむ気分だ」
「淑女たちに対してのお言葉ではありませんよ。私なら大丈夫です。それより旦那様、あの、手」
「エストラダ公爵夫人がどんな方なのか、興味がないのでさっぱりわからず申し訳ないが」
「お会いしたことはありませんが……旦那様、や、そこで喋らないで……」
「うまく立ち回ろうとしなくていい、野蛮人だなんだ言われても放っておけ、ただ自分の身を守るんだ。……いいね?」
「ひゃ、」
変な声が出そうになったのを、口に手の甲をあててどうにか塞いだのに。声だけでなく舌まで耳の中に入ってきたので徒労に終わりました。変な声が出ました。
「すまない、思わず。可愛い耳が傍にあったから」
「ゆ、許しますけど。もう、もうダメです」
「駄目?キスは?」
嫌じゃないですけどダメです…!旦那様の声は背中がゾクゾクするのでダメなんです!
どうしてとか聞かないでください。昼間なんです。
「エレナ。……キスは?」
「いっ一回だけ……」
昼間だったんですけど。あの。ええと。
キス一回って、どこまでを定義するのか明確にしておかないといけないなって学習しました。
そうして、バニュエラス公への返信を書くのと同時に旅支度を始めました。
慌ただしいのは旦那様が私へのお伝えを渋ったからだそうで、とにかく間に合いそうでよかったです。お約束している商談がないのも幸いで、旦那様の予定を調節する程度で済みました。
邸の中のことは、旦那様が夜行性だった時の手順がありますからセサルさんたちが大丈夫と自信を持って言ってくれたので安心です。
出発の日、私の護衛だとやって来たのは、
「エレナ様!これから道中も狩猟会の間もいえいえずっと末長くお願いいたします!あなたのホセが御身に寄り添ってふふ寄り添って!お守りいたしますのでどうぞご安心して無防備なお姿をぜひ熱い!熱いです辺境伯!!」
息継ぎ大丈夫でしょうかと心配したところで旦那様に引きずられて行ってしまい、馬車の向こうで何か相談されていたみたいですが。ええと、大丈夫でしょうか。
「退屈しなさそうで何よりだ」
アーロンさんが笑っていたのでたぶん大丈夫だと思いますけど。
「奥様。基本的に俺とホセがつきますが、狩りの間は俺はライムンドと出てしまうんで。お茶会だろうとお花摘みだろうと、俺やライムンドがいない場合は必ずホセを視界に置いておいてください。一人にならないでくださいよ。いいですね?」
「はい、ありがとうございます」
お礼は言いましたが、私なんかに旦那様の副官であるアーロンさんや塔の術師だったホセがついてくださるなんて贅沢です。まるで危険地帯に赴くようです。
それを尋ねると、「危険かどうかは閣下に確かめてみないとわからない」と返されました。
イングレイス領からほとんど出られなかった旦那様に届いた招待状。春の建国祭で顔を合わせたバニュエラス公が親しく思って招いてくださっただけなら、何の問題もありません。
けれどそれだけではないかもしれないと、アーロンさんは言いました。だから旦那様も私に伝えるのをためらったようですし。
何もなければそれに越したことはありません。
「ではエレナ様。馬車にどうぞ」
「旦那様と相談は終わりました?」
「はい問題ありません僕も同乗しますので」
「いやだからお前は」
「いちゃいちゃ防止です。辺境伯まさか、いいえまさか僕の前でエレナ様にご無体を…………それは、それで、ありか…?」
「ない断じてないホセ想像するな」
「すみません妄想は呼吸と同義なので」
「ええと……?」
「さ、エレナ様は奥へどうぞ。辺境伯は僕の隣ですからね」
「なぜ男の隣で道中過ごさないといけないんだ」
「えーそれはあなたの腕がエレナ様の腰に回ろうものならそれでスープおかわりだからです」
「妄想、するな」
エストラダ公爵の飛び領に到着するまでとても賑やかでした。
公爵領で出迎えてくださったのは大きな熊さん、バニュエラス公爵閣下です。
閣下から招待いただいた形ですので、主催であるエストラダ公爵夫妻には公からの紹介で挨拶します。
マッサーナ家のご当主は旦那様の伯父様なのですが。先代辺境伯であるお義父様とご当主は、険悪だったわけではないのですが疎遠だったそうで、旦那様もほとんど顔を合わせたことはないと言ってました。
「父と母の葬儀にはイングレイス領までご足労くださったが、母の時などこっちは生まれたてだ。どうということはないが、親しくは思えないな」
その言葉通り、ご挨拶した時の夫妻は他の方に対するものと変わらぬ平静な様子でした。
でも実は、それは珍しいことです。
辺境の地に多く出没する魔物と戦う辺境軍、旦那様がお持ちの星詠みの魔力、イングレイス以外の場所ではたいがいの方が畏怖や蔑視の態度をとります。
そういったものは、親族だからやわらぐというものではありません。むしろ身内だからこそ相容れないものを忌避することが多いのに、夫妻はさらりとごく普通に挨拶を返してくださいました。
エストラダ公爵は六十も過ぎた、銀狐色の髪をした貴族らしい静かな威圧感をお持ちの方。夫人も同年代だそうです。
辺境に嫁いだばかりの頃、夜行性な旦那様の補佐ないし代行で領地運営してくださる縁者の方はいないかと調べたのでマッサーナ家のことも少し知っていますが。
資料として知るより物静かな印象を受けました。
ご子息たちはなかなかに華々しい方々でしたけど。あの美貌の王妃殿下の弟君ですから端正な容貌なのはもちろん、何と言いましょうか、…眩しい? 金髪は妃殿下の方が明るい色なのに派手というか。
その場に立っているだけで華やぐ空気をお持ちの方って、いらっしゃいます。羨ましい、のかな。どうでしょう、そうなりたいとは思いませんが、そうだったら何か変わったかなとは考えます。
でも、もし、そうだったら私はイングレイス領に行くことはなかったので。
やっぱり羨ましいとは違うのかもしれません。
「エレナ?どうした?」
旦那様の肘あたりに手を添えたら、不自然でないようエスコートの形にしてくれました。
「ライムンド様が大好きだなあと思ってました」
本当は手をつないでぎゅーってしたいです、と伝えたら旦那様の足が止まってしまいました。挨拶を終えて部屋に案内してもらっている途中だったんですけど。
眉間にシワがぎゅぎゅっと寄っていました。
「おいホセしっかりしろ護衛が流れ弾で死ぬな」
「……ありがとうございますおかわりください」
流れ弾?
「はは、仲睦まじいようで結構だ」
大きな熊さん、バニュエラス公は自身の顎髭を撫でながら楽しそうに笑います。話があるだろうとお泊まりの客間にお呼びくださいました。私も一緒に。
本当は旦那様だけで伺うという話だったのですが、狩りが始まると旦那様と私は別行動ですから何かあって邪魔をしてはいけません。さしつかえなければちゃんと聞きたいという私の申し出を、閣下は快く受けてくださいました。
部屋には閣下と王都の公爵邸でお世話になったメイドたち、運悪く付き合わされましたと肩をすくめた閣下の部下の方が四名ほど。リサたちヴァレンティンのメイドは私たちがお借りする客間で荷解き中ですので、こちらは私の護衛という名目のアーロンさんとホセです。
「前置きは結構です。ーーー私を呼んだのは誰です?」
なぜか不機嫌顔の旦那様は出された紅茶に手もつけず、硬い声で仰いました。公爵邸で頂いたのと同じ紅茶、とても美味しいですよ。
閣下は顎を撫でていた手をお腹に置いて組むと、笑顔をくずさず声をひそめることなく答えてくれました。
「誰でもない。お前は奥方のオマケだな」
思わぬ方向でしたが。
「とある方が辺境伯夫人に会いたいと言っていてなあ。まともに招くわけにもいかないので、今回の狩猟会で出会いを演出したわけだ」
「エレナ。帰るぞ」
「せめて最後までお話聞きましょう?」
「短気は治らんなライムンド。お前が『誰が呼んだのか』と問うから答えただけだぞ。そのついでにちょっと片付けたいことがあったんで、お前ならちょうどいいと」
「ちょっとではないでしょう。おそらく絶対」
「些細なことだ。春に王太子が決まったんで色々動くようになってな、陛下が見送っていた東西方面軍の縮小が決まった。国境線が変わるぞ」
さらりと、この雲だと明日は雨かなあと世間話をする調子で閣下は仰いました。
この国は四方を他国に囲まれた内陸にあります。南のイングレイス領と隣国は広い荒野を挟んでいるので他三方と違って特殊なのです。
私の世代で、国をあげて何千何万の人がぶつかり合うような戦争はありません。それでも広い国土には治安の悪い場所も国境付近での諍いもありますから、軍備は必要なのです。
ただ、争った末に奪われるのではなく、話し合いで領分を決めたというのが今回のお話。
「まったく益を上げない土地を守ってどうする、居住区域はとっくの昔に後ろに下げているわけだしな。私にしてみれば、あんな伸び切った戦線に補給するだけ無駄金だと思っているが」
「それはまあ、兵士の士気や遠い昔の矜持や軍事予算を有効活用しない貴族にとっては良い話ではないでしょう」
戦争では国も人も何も疲弊します。なのに、戦ってきた兵士の自負や、広い国土が強国の証と信じる方の誇りではなく、ごく一部の誰かは戦争で得をするという、お話。…なのでしょう。
「エステバンは、王太子殿下は合理的だな。国を量り売りする気かと言われていたが、平然と損得勘定した具体的な数値を出してさっさとそれで交渉してきた。今回の狩猟会に辺境伯夫妻を招いたと言ったら猛然と仕事していたが、そんな調子だったから間に合わなかったようだ」
残念だったなと、私に視線を下さったので、その言葉が殿下に対してなのか私に向けているのか判断しづらいです。エステバン殿下、立太子されてからなお忙しいでしょうに。無理してないといいんですけど。
旦那様は愛想のいい、とは決して言えない表情のままなぜか乾いた笑い声を上げました。
「そうですか、殿下がいらっしゃらなくて、非常に残念です」
「今年は『あれ』がいないから、周囲も変に気遣う必要なくのびのびと狩りができるだろう。『あれ』はなあ、どうにも」
「ようやく吐きましたね閣下。この飛び領、『あれ』の所に近くありませんか」
「今回の縮小で王太子に洗われた連中も、予算も身も削られた連中も、『あれ』が矢面にいる方が良かったのだろう」
「『あの馬鹿』の金色頭は旗頭としてさぞ目立つでしょうね。で、掃除を手伝えと?王太子殿下は間に合わないのに?」
「お前ならちょうどいいと思ってな」
ええと。
あれ、とか。最後には旦那様があの馬鹿、などと言いましたけど。
それって殿下のことですよね。お兄様の方。
王領の一つに下がったと聞きましたが、私はそこがどこなのか知りません。旦那様が「知らなくていい」と教えてくださいませんでした。
そうか、近いのですね。蟄居された殿下のお近くに、エステバン王太子殿下の決定で憂目をみた方々が集まっているのですね。
何の目的で?
「それで結局、まともな招待もできない輩というのは誰なんです?」
「お前でも思いつかんか。そうだろうな、私もまったく気にしていなかった。夫人を呼んだのは末姫だ」
「…………はい?」
「王女殿下がな、夫人と会って楽しくおしゃべりしたいんだそうだ」
言葉を失う、という表現がぴったりの様子で旦那様は口を開けたままぽかんとしてました。たぶん私も同じような顔をしていたかと思いますけど。
ええと、王女殿下が、……何の目的で?
本日の格言:
「すみません妄想は呼吸と同義なので」




