奥様と旦那様のやり直し
外は大変いい天気だが狙撃防止のため窓がないここからは、青い空を見ることができない。そんな殺風景な執務室で我らがイングレイス領の領主様は至極真面目な顔で宣った。
「部屋を、訪ねてもいいだろうか」
机に肘をついて組んだ両手が顔の半分を隠しているが、まあ真面目顔だ。声色もやや低めでそこだけ切り取ると重要な作戦の提示に見えるが。
内容はアレだった。
男前な面構えの額がやや赤くなっているのを見ながら、俺は「あー」と言って持っていた書類で自分の肩をポンポン叩いた。
「良いか悪いかで言ったら、いいんだろうなあ。正式に夫婦なわけだし。一応」
「わざと最後に『一応』とつけたな」
「そりゃまあ、……いちおう」
誰が誰の部屋を訪ねるのか。
目の前で真面目な顔をしている俺の主ライムンド・ヴァレンティンが、自分の奥様の部屋を、である。
それはいつなのか。
おそらく今日の、夜の話だ。
つまり夫婦の正しい営みをヤっちゃっていいかどうかと、俺に聞いているわけだ。
どこの童貞だ。
「むしろな、奥様が来た当初ならとにかく、お前が真っ当な生活になったあたりには済ませたと思ってたんだが」
「できたらこうなっていない、……と言いたいところだが。謝罪をせずに事に及ばなくて良かった。その状態でも恐らくエレナは拒まなかったろうから」
「あーうん、あーうん。想像した。それダメだな。手を出してたら奥様が今ほど慕ってくれたか怪しいな」
ライムンドが奥方を迎えたのは一年と少々前。
母親不在の辺境の地で女性と正しい交流もない上に面倒な魔力特性があったんで、婚姻とか後継者作りとかを心底面倒臭いと思っていた男に、王妃様はなんでだか大変可愛らしいお嬢さんをよこして来たのだ。
だいたいの経緯は聞いてるけど、誰かの胸を掻っ捌いて心情を見たわけでないから知らん。
とにかくライムンドは拒否権がないから一応迎えるが放っておけと言うし、ちっさい奥様は優秀な上に頑張ってるしで、ああこれどうにかなんねーかなと思っていたら。まあどうにかなった。
今日の話だが、我らが領主様の土下座で謝罪がなされた。
奥様に土下座しに行くなら連れていけみたいなことは言ったけど、いや本気で見られるとは思わなかった。俺の人生はしばらく楽しいに違いない。
その場には俺だけでなく邸の使用人の多くが集まっていて、謝罪と和解だけならとにかく、あのちっさい奥様にちゅーまでかますとは思わなかった。根本的なところで自分優先かこの男は。知ってるけど。
真っ赤になって恥ずかし泣きをする奥様をかばったメイド一同や番犬に追い立てられ、砦の執務室に逃げ帰って来たわけだが。
その男が、もう一度言おう、今夜ヤってもいいよね?と俺に確認しているのである。
そんなの奥様に聞け。
貴族の婚姻は、平民の惚れた腫れたヤったデキたとかで構成されてないので、婚約式で初めて顔合わせして次に会うのは婚姻式みたいなのもある。
そうでなくても未婚のお嬢さんは貞淑を求められるので(ぶっちゃけると後継にするのに誰の子かわからないと困るよねって話で)婚姻後の初夜で処女喪失がいたって一般的だ。
「一年越しかあ……」
最初がどうあれ和解した上で愛情が生まれたんなら良いことだ。
だから今日の今夜で、俺としてはいや男としては改めまして初夜でいいよね?とは思うが。
「あー…考えたけど、これはもう奥様に聞け。俺じゃわからん」
「……駄目だろうか」
「しょげるないい歳したおっさんが。気持ち悪ぃ。これはもう男女の差だ、その上で個人の性格だ、土下座の前でも後でもあの奥様はお前が言ったら拒まないだろうが。だから、もう直接許可取ってこい」
「…………いったい何と言って許しを乞えば」
「黙れこの素人童貞が。ウチの花たち相手には、それなりに口説いてたんだろう?貴族様お得意のキラキラした台詞を今日、そこで、発揮しろ」
「エレナ可愛いしか出てこない……」
ポンコツか。
組んでいた手を解いたかと思えば机に顔面を突っ伏して撃沈する姿は、とにかく情けない。顔も体格も魔力も剣術もいいのに本当に残念な男である。
アレだな。恋愛童貞だな。ライムンドとは二十年以上の付き合いになるが、それは確かだ。
俺は両親が病気でさくっと死んでしまったらしく、物心ついた時には教会で育てられていた。
このまま司祭になるのかな面倒臭いなどうせなら砦で兵士として雇ってもらおうかと考えていたところ、セサルの親父に拾われた。ヴァレンティン家に仕えるために養子にしてくれた。
三つ下のお坊ちゃん、ライムンドにお仕えしなさいと連れてこられたのだ。
それに不満はない。執事になるための教育や礼儀作法を叩き込まれたがお坊ちゃんと一緒に剣術の稽古もしてもらったし、何より衣食住の確保にそれらに見合う給金も貰っていた。むしろ手厚かったと思う。
お坊ちゃんも傍若無人な主でもなかったしな。
邸の仕事でなく、辺境軍の仕事を中心にすると言った時には親父と大喧嘩したが。ライムンドが昼夜逆転生活を始めてしまったので、結果としては良かったのだろう。
それまで対価を貰う主従として情のわいた友人として接していたが。
ライムンドの親父さんが、先代が亡くなったところに出征命令が来たアレだな。あの時に決定的にこいつダメだと思ったんだ。
ウチの親父の説得も振り切って一人で行こうとするから、こっそり募っておいた志願兵と待ち伏せしてやった。人がいないと領地は成り立たないけど、お前がいないと回らないんだと。先代が亡くなった直後に死なせるわけにはいかないと。そのつもりでついて行った。
だが冗談でなくライムンド一人で焼き払っていく姿を見て。
こいつは本当に一人なんだなあと。理解した。
王都や他領の連中がどう言おうと、イングレイス領にはライムンドの味方はいる。だが誰も隣にいないんだと理解したので、俺くらいはずっと背中にいようと思ったもんだ。
その隣に、奥様がいられるっていうなら大歓迎だ。
だが。
「エレナが小さいのはわかっていたが…手もな、こう小さいんだ。薄くてやわらかくて指が細くて爪まで可愛い。細身なのに頬もやわらかくて、……いやあれは肌だ、肌がしっとり吸いつくようで滑らせるとさらりとしてな。耳も小さい。まるごと食べられそうだ。そして唇のやわらかさが尋常じゃなかった、触れただけで気持ちいい、押しつけるとまるで私の唇に合わせるように形を変えるやわらかさが」
気持ち悪いわ。
口説けと言ったんであって感想を聞かせろとは言ってねえ。
猥談は酒と夜のお供だが、主と奥様のアレソレを聞きたくはない。
しかもキスひとつでこれだ(いや今までイチャイチャしてたから手とか耳とか言い出すんだが)致したら何を聞かされるかわかったもんじゃない。
惚気というか感想というかを、机に伏したままぶつぶつとしかしはっきり口にするものだから書類で頭叩いてやろうかと思った。
が、ふと思いついてしまい、俺は書類の角で黒髪をつついてやった。
「いつするかどうするかはお前らの問題だ。しかし、その、大丈夫なのか?」
「何がだ」
「だいぶな体格差だろう?お前の本気戦闘態勢がどれほどか知らないが、……最後まで」
「…………できなかったことは、ない」
「手練手管の玄人と一緒にするな。17歳、処女、小柄、キスもさっきが初めての子相手に最後までヤる気だったのか?」
「…………」
やる気だったんかーい。
いやまあ致すまではいい、こいつどうにかなると思ってたのか。女体は神秘だからどうにかなるかもしれないが、最初は無理だろう。知らんけど。
「よし。ーーー今日はやめろ」
「何の根拠で」
「奥様が来てから花にも行ってないだろう。それで恋愛童貞の初恋が実っちゃったテンションで臨んでみろ。その年で、奥様の前で、暴発したら情けないどころか次がないぞ」
「無理だここまで我慢した…エレナに触りたい……」
「貴族的な婉曲どこいった」
「嫌がることはしたくない、許してくれないなら耐える、だが慣らさないとまったくのお預けだ」
「まあ…一理あるが」
「そこらの若造みたいにがっつかずに根気よく接する覚悟はある」
「年齢的な衰えも言いようだな」
「しかし、しかしだ。途中?何の途中だ?お前だったらそんな半ばでいいのか?」
「言いたくも聞きたくもねえ」
奥様も可愛い嫉妬みたいな発言してたから、やぶさかでないとは思うが。それ故の勢いで出た言葉だった、て可能性は充分にある。もしくは深く考えてないか。
貴族令嬢の閨知識がどんなものか知るわけもないが、…具体的に想像はしてないだろうなあと。
あ、ダメだ。ライムンドに無茶される奥様とか想像したらもう犯罪でしかない。
「想像するな」
俺の心読むなよ。奥様の心を慮ってよ。
「もう好きにしろ」
「あの邸は古いからな、寝室に続き扉があるんだが。いやきちんと正面から訪ねた方がいいか?」
「続き扉に鍵かかってたりしてな」
「普段はかけておくようにと言ってあるから、本当にかかっているぞ」
「マジか」
「いや待て、鍵を開けておくようにという合図もいいかもしれない」
「むしろ最中のアレよりそういう隠語を披露しないでくれ。そんなん聞いたら吹き出して笑うわ」
「どうしてお前は笑うんだ」
「そりゃあお前」
主が愉快で楽しい人生送ってくれれば、俺が生きてる甲斐があるってものだ。
なので奥様には申し訳ないが、この男のために頑張っていただきたい。イロイロと。
「奥様磨き隊!参上しました!!」
元気よく名乗ると、わたしの可愛い奥様は大きな目をぱちぱち瞬かせて驚いていた。
「本当にあったんですね」
「ありますよ。というかランドリーメイドもハウスメイドもみんな本当は奥様を磨きたいんですけど、技術的に信頼できるこのメンバーになりました」
「そ、そうですか。よろしくお願いします…?」
「はい!お任せください!」
元気よく返事をすると、わたしの可愛い奥様は不思議そうに小首を傾げていた。
わたしが勤めるヴァレンティンのお邸には、顔はいいけれど残念な旦那様と、とってもとっても可愛い素敵な奥様がいる。
このお邸の使用人たちはほとんどが領内の平民で、諸先輩方から厳しく細かく指導を受けて認めてもらえれば色々な仕事を任せてもらえるようになる。
朝に帰ってきて日中には姿を見せない旦那様。
そんな生活だったから副官のアーロンさん以外にお邸に従僕もいなくて、もちろん旦那様の専任メイドもいない。ご結婚されないのかな〜貴族様のお世話とかメイド的には憧れなのにな〜って思ってた。
そうしたら一年くらい前に、急に奥様を迎えることになったと家令のセサルさんに聞かされた時は使用人一同ぽかんとした。え、貴族の結婚てこんな急なの?普通なの?
準備が間に合うはずがない、それともすべて婚家が用意しているのかとメイド長が尋ねると、すべてしなくて良いとのお答えだった。部屋を整えるだけでいいと。
貴族様の婚姻式見たかった!婚礼衣装だって絶対豪華なのにそれを着せてお化粧してってやりたかった!
残念だと思っていたら、なんとわたしが奥様の専任メイドに選ばれた。やったね!理由としては真面目に働いていたのとお世話欲にかける情熱を買ってもらったんだけど、奥様と同じ歳っていうのが大きい。
わたしと同じ歳の奥様。旦那様っておいくつだっけ?と思い出せないままお迎えした日。
『これから奥様のお世話をさせて頂きます、リサと申します』
わたしより小さくて、貴族令嬢は細い腰が魅力だといっても不健康に見えるほど細くて、お人形のように整ったお顔の可愛らしい、そして美しい髪の女の子がやってきた。
お嬢様、とお呼びしたい儚げな雰囲気の小さな女の子は、自分の頬に手を当ててちょっと驚いていた。
『私の?』
『はい。何でもおっしゃってください』
『私のためにもったいない事ですが、……一緒にいることが多くなりますね。お友達みたい。嬉しいです』
そう言って、奥様はメイドなんかにぎゅっと抱きついてもう一度「嬉しい」と言った。
ああーもうーめっちゃいい匂いした!
なにこの方、妖精かな?!
後から聞いた話だと、王城では専任メイドなどいなかったそう。
はあ?なにそれ?この国の一番偉い人たちがいる所だよ?そこで奥様は仮にも(仮にも!)王子の婚約者候補として住んでたんだよ?普通だったらメイドどころか貴族令嬢の侍女が何人もいておかしくないでしょ?!
こんな可愛くて使用人にも優しく声をかけてくれて、さらにセサルさんも驚くくらいにお仕事をこなしてお邸の状況も把握してメイド長がうっとりするくらい的確に仕事を振り分けてくれる方に。
なにしてくれたんだこの国は。
でもそれはウチの旦那様も一緒。
婚姻式は行わないし、昼夜逆転生活も改善しないから奥様と顔も合わせないし、だったらご挨拶だけでもと奥様が早起きしてお迎えしてるのに「ああ」とか言ってさっさと寝室に篭るし。
あげくには、可愛くして振り向かせてやりましょうと張り切っても「離縁される予定だから大丈夫です。それまでだけどよろしくね」とか奥様に言わせるなんて。
くっ、雇い主とはいえ旦那様許すまじ!
だけどこう、色々あったけど、こんな可愛らしい奥様ががんばったんだもの。悔しいけど旦那様だってオチるよね。悔しいけど。
それに何より奥様があの旦那様がいいって言うんだからしょうがない。……悔しいけど。
全部忘れるわけにはいかない、奥様が許してもわたしは根に持つよ、それでもスライディング土下座をかまして許しを乞うた旦那様の本気度は伝わったので。
まだ旦那様に対しては怒っていようが憧れのお仕事はまっとうします!
奥様の、初夜の準備です!!
奥様磨き隊のみんなで念入りに素敵な奥様をお風呂でさらにピカピカに磨いて、王都のバニュエラス公爵邸から紹介してもらったうるうる香油をふんだんに使って、今日も淡くやんわりと光っている綺麗な髪を拭いているあたりで奥様はようやくこれが何の準備か理解したらしい。
なぜなら磨き隊の一員ミーナがとっておきの夜着を並べたからだ。
「さ、奥様。どちらにしましょう」
「……どちら、ええ、…………この中から選ぶんですか?」
「今後のご希望はもちろん仰ってください。ですが、今夜はこの中からです」
わたしは奥様の背中から髪に触れている位置にいるからお顔は見えないけど、むしろミーナの楽しそうな表情でばっちり伝わった。うなじも真っ赤だしね!
「生地ってこんなに薄く仕上げられるものなんですね……」
近くにあった一枚に触れて、奥様は他を見るどころかうつむいてしまった。可愛い。それにかまわず磨き隊は盛り上がっていく。
「これもオススメですよ。生地はこんなですがフリルがとても綺麗に仕上がってるでしょう、リボンも可愛いですよね」
「でも旦那様はこういう可愛らしいのお好きかしら?」
「経験を重ねた方ですから、やりすぎくらいのがいいかもね」
「いやいや、だって奥様よ?わたしたちの素敵可愛い奥様よ?この可愛さを前面に押し出していいと思うの」
「その奥様が官能的なお姿だったら直撃だと思うんだけど」
「それはお二人になってからで。お迎えする時は奥様の上品さである意味悩殺しておいて」
「旦那様も、贈り物の包装とかリボンはゆっくりほどきたいんじゃない?そういうタイプな気がする」
こらこらこら君たち。会話が使用人室でのそれになってるから、奥様に聞かせる会話じゃないから。
本来こういう話をしてたらお咎めがあるのが普通なんだろうけど、奥様はわたしたちのちょっとくらい自由なおしゃべりは笑って聞いている。今回はそれどころじゃないんだろうけど。
赤くなったうなじに触れないよう、そっと耳の上あたりの髪を少しすくって緩く編みこんでいく。下ろしたままでもいいんだけど可愛さの追求ね。お作法も習ったけど奥様には薄化粧もしない。だってそのままでお人形だもの、妖精だもの、あと旦那様ねちっこそうだもの。
「……あの」
湯上がりに着ている長衣の身ごろをぎゅっと握った奥様が、おずおずと声をこぼしたのでみんなは口を閉じた。目で「どちらにしましょう?」とキラキラ訴えている。
「私ではわからないので、選んでください」
「いいのですか?ひとつもご希望に叶いませんでした?」
「みんなの意見の方が確かだと思いますので。どれも恥ずかしいですけど……」
でも、と奥様は両手を頬に移動させて、
「旦那様が、少しでも喜んでくださるように……して欲しいです」
わたしたちの心臓に矢を射ってくれた。
お、奥様のご希望とは真逆に旦那様という野獣からこの天使を守りたい気持ちでいっぱいになってしまった。くそう旦那様っていうか男なんかに渡したくない…!!
全員が心中で悶絶していることは、恥ずかしさで顔を隠している奥様には知られなかったと思うけど。
ああもう。
もしまた奥様を悲しませたら本当にほんっとーに許さないんだから。
悔しいけど、旦那様が好きだって泣いてた奥様のために、わたしはこれと提案した。
夜がきた。きてしまった。
アーロンに相談したものの「落ち着くまでやめとけ」という結論に達したにもかかわらず、晩餐の時間までに戻れなかった私にセサルは「奥様の支度が済むまでお待ちください」と告げた。
……そうか、準備をしてくれているのか。
…………これは部屋に入る許可を得たという事なのか。
自室に備えた浴室で頭から水をかぶってみたが悶々とした考えはまとまらず、少々酒を入れてみたが酔えるわけもなく、文字通り頭を抱えていると知らせに来たのはリサだった。
「旦那様。奥様の支度が整いました」
呼ばれたのだから、続きの扉でなく彼女の部屋を訪問するのがいいのだろう。
いや、いいのか?本当に許可されたのか?
湯浴みをして支度を終えたエレナを前にしたら、止まれる自信はない。一切ない。落ち着かないがこのまま書類仕事でもして夜を越す事はできるだろう。
しかし支度を終えた女性を訪れないのもまた、恥をかかせる行動である。
もう率直に尋ねて彼女が嫌だと言うなら何としても止まろう。無理強いはしない。望んでくれるなら、どこまでも優しくしよう。
決意をして隣の部屋を訪れると、続き間にいたメイドが頭を下げた。
「奥様。旦那様がお越しです」
通された彼女の部屋は、扉近くと応接テーブルの上と寝台脇に明かりが灯されていた。夜の気配が満ちているのに淡く、やわらかく感じるのはエレナがそこに立っているからだ。
「こんばんは。旦那様」
清廉の白。
たっぷりと布を使っているが日中の装いのように膨らむ形ではなく、彼女の華奢な肩から足元までストンと落ちている。袖はないが同じような白の合わせを重ね、腰より高い位置で留めて可愛らしくリボンが結んである。
そして白と彼女を包むようにやわらかく光る髪に、レースなのか薄く透けるヴェールをつけていた。後ろに流すように、顔を隠すように。
美しい。とても美しく可憐だが。
黒くおおわれた夜のしじまに迷い降りた妖精のような花を、摘めるものなら手折ってみろというメイドたちからの圧を感じる。ものすごく感じる。
「では奥様、旦那様。何かございましたら申し付けください」
淡々とした表情と言葉だが、圧力がすごい。リサなどは私の背中にいるのに「気づいただけ上出来ですね!」と言われた気がした。
つまりこれは。
「エレナ」
彼女たちが出て行った後で、名前を呼ぶと白いヴェールの向こうから涼やかな声で返事をくれた。
「何か飲まれますか?少し用意してもらいましたが」
「エレナ。すまない、……まだ謝る事柄があった」
「ありましたか?」
癖なのか不思議そうに小首を傾げる仕草がとても愛らしい。着ている光沢ある絹も、彼女にとても似合っていて夜着なのに品がある。私はその前までゆっくり歩き、そして跪いた。
「だ、旦那様?」
「私は信心深い方ではないので、神に誓うくらいなら君自身に誓いを立てたい」
私たちは婚姻式をしていない。
彼女が携えてきた王都教会の婚姻届に私が署名して送り返した。それだけだ。王妃殿下の書も合わせて持たされていたから許可も何もなく決定事項だった。
幾度も思う。あの時の自分を殴りたい。白い結婚だなんだと言わず、彼女と向き合ってせめて体裁を整えるだけでも違っただろうに。
「ヴァレンティの剣と私の心臓を君に捧げる。君のすべてを守る剣となる誓いと、私のすべてを握る貴婦人に永劫の敬愛を。ーーーエレナ、愛してる。どうか私を君の夫にしてくれないか」
婚礼衣装をまとった彼女はさぞ美しかっただろうに。
ヴェール越しなので薄暗い室内で表情ははっきり見えたわけではない。ただ驚いた様子で深呼吸をしていて、それからさし出されたエレナの手を取る。
足元を照らすような淡い光が、彼女の髪が魔力を帯びて夜に降る星のように輝いた。
「お受けします。今から私はエレナ・ヴァレンティンとしてあなたの心と愛を守りましょう」
銀とも金とも見える輝きを絹の白が照り返し、彼女自身が煌めいているように見えた。もう私の目にはいつでも輝いて見えるが。
指の根本に近い位置に、唇が触れるだけの口づけをする。
これを彼女に似合いの陽の光がさす教会の中でしてやれば良かった。
「本当に申し訳なかった。その、……式を挙げたいと思うか?」
「いいえ。いまさらですから」
端的な返答が胸に刺さる。わ、わかっている。私が顔をしかめたのを見て、領民にも顔を覚えられているし呼ぶ付き合いの者もないしその予算があるなら今年の冬の備蓄分に回せるからと説明されたが、……胸に刺さる。
エレナは自己肯定感が非常に低い。
生家の侯爵家では「いないもの」として扱われ、塔では利用価値がないと判定され、婚約者には容姿も身につけた知識などもすべて否定されてきた。
だから、他者の利のために結果を出すという事だけが存在理由なのだろう。
エレナにとって夫が自分を顧みないという状況は、暴言を吐かれるより暴力を振るわれるより傷ついただろうに。彼女は決して要求をしない。ただただ自分を削って自分でないものに尽くす。
『ここにいていいですか?』
この小さな体が消えてなくなってしまわないよう、ひたすらに甘やかして与えてやりたい。
「エレナ。顔が見たい」
小さな返事をすくうように立ち上がってヴェールを上げる。やわらかい光が彼女を包んでいるので、わずかに頬染めた色もよく見えた。
「キスをしても?」
「は、はい……」
ほんのり色づいていた頬から耳までがぶわと赤くなった。なんだそれは可愛いか。可愛いな。小さくけれどふっくらした艶やかな唇もその奥に隠されている歯も舌も貪って何もかも奪いたい衝動がわく、だがそうじゃない、落ち着け。
唇を押しつけて離すと、エレナは思わずといった風に小さな笑い声をこぼした。
「嬉しいです。……口づけってこんなにふわふわ気持ちいいんですね」
理性を試されている。
私の、妻が、かわいい。暴力的に可愛い。
ふわふわと言わずドロドロのぐずぐずに蕩けさせて乱して可愛いの権化を淫らな姿にしてやりたい。
よし落ち着け。
大きく息を吐いた姿をどう見たのか、エレナは少々慌てた様子でごめんなさいと言った。謝りたいのはこちらだ、大丈夫違うエレナが可愛いからだと弁明したが、落ちていた片手を持ち上げられた。
「申し訳ございません。こんなことを言うから子供みたいだって……呆れないでくださいね」
持ち上げた手に、剣を握るような無骨な指の節に、小さな唇が触れた。そこに全神経が集中した。年甲斐もなく鼓動が鳴ったとかある意味官能的だとか思うところはあったが。
やわらかい。うん、唇やわらかい。
「閨の、け、経験というか実技は行っていないので…その…旦那様に満足いただけるはずない、ですが。あのがんばります。どうか教えてくださいませ」
理性を試されている、わけではなかった。壊しにかかって来ている。
私の妻が怖いほど可愛い。
「エレナ」
「はい……」
「寝台へ行こうか。抱き上げてもいいか?」
「ふぁい?」
理性がぐわんぐわん揺れていたせいか正面から向き合っていたからか、彼女の腰と膝裏に腕を回してしまったのでそのまま持ち上げて自分の腕に腰掛けさせた。子供を持ち上げるような体勢に、重くないですか旦那様すごいです高いですとちょっと喜んでくれた。おかげでわずかに落ち着いた。
私の腕から下ろして寝台の端に腰掛けさせると、もう一度エレナの前に膝をついた。
両手を私の両手で包んで、彼女の膝に置く。
「君の努力する姿勢は素晴らしい、そのおかげで私もイングレイス領もこの邸も充分に助けられている。けれどエレナ、この時間だけは何もしなくていい」
「なにも…ですか…?」
「ただ君に与えたい。嫌なら言って欲しい、必ずやめるから。だから、許しをくれないか」
「旦那様がなさることに否はありません」
「男はそれを免罪符にするよ。でも違う。これから指で手で唇で私の全部で君に触れる、君のすべてどこも余すところなく触れる、それを少しでも苦痛だと辛いと感じたら拒否してくれ。与えたい、甘やかしたい、エレナに気持ちいいことを覚えて欲しい」
「き、気持ちいい…こと…」
「その悦びを求めるようになってくれるのが理想だな。エレナ。優しくする、大事にするからーーー…君に触れたい」
包んで閉じこめていた手がもぞと動いたので開くと、細い指が探すように求めるように私の指に絡まった。手の平を合わせて指の間に指をさしこんで、膝を伸ばした私と腰を曲げたエレナの距離が近づいた。
唇が触れて、触れるだけでなく重なって、慣れずに呼吸を求める小さな唇を上も下も挟むように食む。
「旦那様。…ひとつ、んっ…約束を」
「は、何でも」
「嫌なこと、なんて…ぅんん、……ないです。本当です。今も、こんなくらくらするから、あ、先に約束を…っ」
どうか、ぜんぶください。
すべてどこも余すところなくと言うなら、必ず、すべてが欲しいとエレナは言った。
私の魔力を吸い上げて輝く光に変えてしまう美しい髪が乱れて寝台に広がれば、明かりを落としても帷を下ろしても一つも隠すことはできなかった。
それを恥ずかしいと言ってもエレナは本当に最後まで嫌だともやめろとも口にしなかった。
「ライムンド様。……私の旦那様」
愛してると伝えたら、しあわせだと返された。
翌朝、というかお昼近くに湯を持って来てもらいましたが。一人では立てず手を貸すと仰る旦那様を追い出してリサたちが体を洗ってくれました。
「やっぱり、旦那様ねちっこい……」
ピカピカ光る髪のせいで自分でもわかっていましたが、改めて明るい場所で見ると、その。
「奥様、嫌なら嫌と言っていいんですよ!こんな、もう、本っ当に全身…!」
うう、言わないでください……恥ずかしいけど嫌じゃないから困ってるんです……
「いいんです。奥様がしあわせならいいんですけどね!」
そうなんです。困りました。
ライムンド様は私の旦那様なんですって。どうしましょう。
とっても幸せで、どうしたらいいかわからないです。
まずは、おはようございますって、いつものようにご挨拶するべきですか。
いえもうお昼でした。困りましたね。




