夜行性な旦那様は、もう夜行性ではありません(3)
「エレナ」
名前を呼ばれることは、あまりありませんでした。
王城を出ることになる前、数年の間くらいはエステバン殿下がお呼びくださいましたが。それも殿下の代わりにお会いする茶会の時だったので、数ヶ月に一度くらいでしょうか。
お父様には一、二度呼んでもらったような。でもお母様とお姉様方には呼ばれた記憶がありません。
ご挨拶する時に名乗る自分の名前を、ただの記号のように感じていました。
私が亡霊と言われていたからか、それは墓標に刻まれたものだろうと表現された事があります。その時には納得してしまいました。そうかもしれないと、本当にそう、思いました。
「ーーーエレナ!」
名前を呼ばれたことよりも、近い場所で出された大きめの声に驚いてペン先が跳ねてしまいました。インク壷を倒さなくてよかったです。
瞬きをしてから改めて手元を見ると、ほんの数行書いただけでまったく進んでいないのに紙をダメにしてしまいました。もったいないです。
「エレナ。大丈夫か?」
壁に向かって置かれた文机から顔を上げると、すぐ横の、でも高い位置に旦那様のお顔がありました。
いつの間に帰られたのでしょう、というか今は何時でしょうか、窓を見ると薄い青色でまだ早い時間だと思いますが。夜が明けたのに、予定していた作業は全然終わっていないことになります。
私は何をしていたのでしょうか。
「顔色があまり良くない。……まさか夜通しここにいたのか?」
「いいえ。大丈夫です」
私が椅子を引いて立ち上がったので、旦那様は一歩だけ下がってくれました。
「おはようございます。旦那様」
「ああ、……おはよう」
朝のご挨拶に、旦那様が「おやすみ」と返されることは、もうほとんどありません。
夜の警護や討伐で数日出られたなど、理由がない限り朝に起きて夜に寝る生活をされています。たまに聞く朝の「おやすみ」にはちょっと嬉しくなってしまうくらいです。
どんな言葉をかけたらいいか、あんなに、考えていたのに。
考えないように仕事をしていたのに。
大丈夫です。妃教育を受けていて良かったです。
「旦那様、食事はされますか?」
「仮眠を取ろうかと思っていたが、そうだな、少し食べようか」
「かしこまりました」
私の返事にちょっと眉を寄せていましたが、旦那様はすぐに扉に向かって声をかけていました。見ると、セサルさんが朝からぱりっとした礼をしていて、その向こうにアーロンさんがいました。
「そういうわけだから、砦の方は頼んだ。各人の体調、装備の検査が終わったら休息日の調整までしてくれ」
「はいよ。眠いならいつもみたいに奥様をぎゅーっとしとけばいいんじゃね?」
「……本当にお前は」
軽い調子で言い合うお二人が書庫から出て行かれたので、私もその後に続きます。出たところで、待っていたリサがショールを肩に掛けてくれました。
「エレナも一緒に。食べたら君も少し眠りなさい」
旦那様の声は低くて優しくてぽかぽかします。とても心地良いと思っています。
私は旦那様に、名前を呼ばれるのが、とても気持ちいいです。
だけどお二人の話から、瘴気を取り込みすぎてないか眠くないかと心配になり、私で良ければ使ってくださっていいのにと思って。
ああ、今は、私なんかは要らないのかなと思って。
「エレナ?」
だけど、旦那様の上着、軍服の背中あたりをつまんでしまったのは無意識でした。
足を止めて振り返ってくれた旦那様から、その服から、瑞々しい樹の香りのようないい匂いがしました。
それは漂う香が服に移った、わずかなものでしたが。この香りが染みるまでそちらにいらしたんだなと、すぐに理解しました。
触れてはいけないような。
離してはいけないような。
旦那様がこちらに向き直ってくれたので、弱々しい力でつまんだ指は放してしまいましたが。それがとても。とても悲しく感じてしまって。
息が、いいえ胸がつまって、……痛いです。
「やはり寝ていないな?食べずに、すぐ寝るか?」
「あの、旦那様」
旦那様は背が高いので、私はぴんと背筋を伸ばしても肩まで届きません。だから目線を合わせようと屈んでくれます、これではまるで、迷子の子供をあやすようです。
それでは、ダメです。それは、嫌です。
「私は、至らないばかりで、……お役に立てないかもしれませんが。でも、努力します。がんばります。だから」
何を言うつもりなのか、自分のことなのにわかりません。
でも口にしてはいけない気がして、ダメだと思って口をふさいでしまおうと。顔に手をやったら。どうしてか指先が濡れてしまいました。
どうして、私は、泣いてるんでしょうか。
「だから、……妻の役目も、させてください」
旦那様のような大人の方が、こんな痩せっぽっちの子供みたいな私を望まれるとは思いません。
でも、嫌だって、思ってしまうんです。
旦那様が美しい女性に触れて、私にしてくれたみたいに抱きしめて、熱くて蕩けそうな声で名前を呼ぶのは嫌です。
「私以外の、他の方を…お迎えしないで……」
涙って胸の奥からしぼるように出てくるものなんですね。知りませんでした。ぎゅうぎゅう締め付けられてあふれてきます。
あふれて止められなくて自分の手では受け止めきれなくて、いっそ口にした言葉よりそのことに混乱していた私は、屈んでいた旦那様の頭が高い位置に戻ってしまったことでまたぼろぼろ泣いてしまいました。
「エレナ、」
「はいマズイ!その手はヤバイ!」
けれど、アーロンさんの手が遠慮なく、それはもう思いっきり旦那様の頭を叩いたのでびっくりしすぎてちょっと止まりました。
「わかるわかるよ今のはさすがにクるな男としてわかるだがしかしライムンドお前は貴族様だろここはキラキラしい言葉で砂糖漬けにして誤魔化すべきであって朝から奥様を寝室に連れ込むのはナシだ」
「その通りだが奥様の前で口にするでないこの愚息が!」
さらに、セサルさんの拳が、ええ拳がアーロンさんの頭を叩いたのでかなり止まりました。
冷静になったというより違う驚きにすり替わったと言いますか。両手で口許を押さえていた私は、こぼれた分の涙を隠すのも忘れていました。おまけに息をするのも忘れていたようです。
「ひっく」
息をしろと言わんばかりに、喉からしゃっくりが出てきました。
旦那様方がぴたりと動きを止めて静まり返った廊下に、ひっくひっくと私の喉から滑稽な音がするばかり。すごく居た堪れないのですが、涙以上に自分では止められなくて、どうしようと途方に暮れていると。
「申し訳ありません!奥様失礼します!」
リサに、ぎゅっと抱きしめられました。私と違って胸がふかふかでした。
「リサぁ」
緊張がとけた私はリサにぎゅーっとしがみついて、そうしたらまた涙がぼろぼろ出てきました。こんなに泣いたのは初めてです、体の中の水が全部なくなってしまいそうです。
「くうっ役得…!じゃない違います! 主人にこんな態度は無礼と承知していますが、奥様を放っておけません。わたしが部屋にお連れしますので、セサルさん、いいですよね?」
どうして許可を求めるのがセサルさんなのかわかりませんでしたが、すぐに「行きましょう」と連れ出してくれたので是となったのでしょう。
旦那様のお顔なんて、見れませんでした。
リサに連れられて自分の部屋に戻ると、他にもメイドが三人ほど来てくれて、泣いてくしゃくしゃになってしまった私に優しくしてくれました。
「ああ奥様、泣いてるお顔も可愛いですけど、そんなに泣いたら目が腫れてしまいますよ」
「濡れた手巾をあてますからね、ちょっと冷たいですよ」
「冷やしている間は膝掛けもどうぞ」
「温めたミルクです。蜂蜜も入ってます。飲まなくても手に持つだけで温まりますからね」
かいがいしくお世話されて、嬉しいけれどそれほど情けなく見えるのかと悲しくもなります。温かいミルクを一口飲むと、胸のあたりまでゆっくりとぽかぽかが広がりました。
ほうっと息をついたら、また、涙が落ちてきます。
我ながら枯れてしまいそうです。
「そんなにお辛いですか…?」
ミルクのカップを持った私の手を、リサが両手で包んでくれました。心配そうな顔がありましたが、横から「冷やしますよ」と手巾を瞼にあててもらったので何も見えなくなりました。
「ごめんなさい。ひっく。私…こんなに泣いたの初めてで、……止め方がわからないんです」
「じゃあ仕方ないですね。初めてですから。思いっきり泣いておきましょうか」
リサが明るく言うので、私は口の端っこを上げて笑ってしまいました。変わらず涙は次から次へと出てくるのに、笑ってしまいました。
「ありがとう。大丈夫、……大丈夫です」
「ダメですよ奥様。大丈夫じゃないからこうなってるんでしょう」
リサが鋭いです。だけど本当に大丈夫にならないといけませんから、口にしてがんばるのは大事です。
「奥様はもっと我儘を言っていいんです」
「言ってますよ。雛鳥、元気ですか?」
「ええ元気です。もう少ししたら、籠に入れて奥様の部屋にお持ちできます」
「籠に入れないで、いつでも、飛んでいけるようにしたいです」
「それはダメなんですって。奥様の部屋にはロペとルナも入りますし、ちゃんと大きくなるまでは、外に出ても危ないだけだからって」
「そう、ひっく、そうですね。大人になるまでは、守ってあげないといけませんね」
「はい。だから奥様は、旦那様にもっと我儘を言いましょう」
私の話でしたっけ?首を傾げると、目元をおおってくれていた手巾が離れて、私の前に膝をついているリサの顔が見えました。
持っていたミルクのカップを取り上げて、テーブルに置いてくれます。
「わたしは単純なので、お仕えする奥様が可愛くて素敵で優しくて良かったなあと思ってます。もっと可愛くしてあげたいし、誰より素敵に仕上げてみたいし、頼ってもらえたらいいなって思うんです。何でも言ってください。わたしだけでなくメイドみんな、いいえヴァレンティン家の使用人み〜んな!奥様の味方ですから!旦那様だって敵いませんよ!」
邸の主人と使用人の関係は、単純で難しいです。
仕事として給金が発生していますから雇用関係には違いありませんが、大きな邸の管理やそこでの生活に関するすべては彼女たちの手を借りなければ立ち行きません。
王侯貴族の中には、使用人は道具だと考えている極端な方もいます。なので王城にいた時の私は、自身の立場はどうあれ殿下の傍に控える身でしたから、使用人とは本当に必要なやり取りしかしないよう言われていました。彼女たちも仕事だからと割り切っている雰囲気でした。
雇用関係の立場を利用しない、互いに不当がないように節度を持つ、その点は大事ですが。
彼女たちは嬉しいとか楽しいとかを感じるごく普通の人で、私も人なのです。
ホセ様は「僕たちはものではない」と仰いました。あの「僕たち」はきっと私を含んでくださっています。
塔には、魔力の調査や術式の研究のために連れてこられた、親に捨てられた子供たちがいます。いいえ「家」に不要とされた子でしょうか。
そのほとんどが貴族の子女です。せめて平民をところかまわず拐かす状況でないのを救いというべきか、私には判断できません。私だって、不要だ役立たずだと言われるのが、悲しくないわけではありません。
もの、のように扱われる。それがどういう事か、「私たち」は少し、知っています。
だから働いてもらったお金で生活をする、ごく普通の人たちが優しいのは仕事だからだ、なんて。そんな事ばかりではないと、私は思っています。
私はリサたちが大好きです。大事です。でも、ああしゃっくりが止まりません。
「私、旦那様に、……嫌われたでしょうか」
旦那様の事を考えると、苦しいです。胸が詰まってお腹が重いです。
「奥様それは絶っっっ…………対!に!!ないですけど。どうしてそう思うんですか?」
「だって私、はしたない事を…言いました。こんな子供、旦那様が興味をもたれるはず、ないのに…恥ずかしいです……」
だって、だって口が勝手に。涙が勝手に。言おうと思っていたわけじゃないです、泣きたいと思ったわけじゃないです。
「わたしは今、とっても動揺してます。あれ?今までのイチャイチャは何だったのか?と。奥様もしかして、旦那様がぎゅうぎゅうベタベタしてくるの、本当に、魔力循環のためだけだと思ってます?」
「……他に、理由が?」
「わたしの奥様が純粋すぎてツライ。初めて旦那様に同情しました」
「だって、リサ、だってね。ぎゅうっとされると、恥ずかしくて、私が子供みたいな反応をするから。だから旦那様は子供扱いされるんです、いつも楽しそう、ひっく……私は手をつなぐ方が、安心して好きなのに」
「こんな優しい惚気話初めて聞くわ……」
「私がそんなだから、その、女性として…見られてないだろうと……わかっているんですけど。でも旦那様に後継となる御子を、別の方が授けられると思ったら、ひっく、…とても嫌だったんです…」
「一気に最後まですっ飛ばしましたがだいたい把握しました。はい。旦那様にちょっと同情しましたけど、結局何も伝わってないっていうか伝えてないって事ですね!これセサルさんに言いつける案件ですね!」
どうしてセサルさん、と思っていると優しいメイドたちが勢いよく立ち上がりました。それはそれは勢いよく。
「ミーアはセサルさんに告げぐ、報告!メイド長にも伝えようチタよろしくね!旦那様は、アーロンさんがまだいればそっちがいいよねダリア頼んだわ!」
「リサは?」
「わたしには奥様を慰めるっていう大役があるから」
ずるい!が三人分重なりましたが、私がくたくただからリサに手間をかけさせてるんですよね。本当にごめんなさい。
「奥様の専任メイドを増やしてもらうよう、ついでにセサルさんに頼んでみようかな」
「ちょ、ミーアそれは!わたしの奥様なのに!」
「この邸の奥様です。リサのじゃないわよ。メイド長に配置換えを進言してみましょ」
「チタまで!」
「今まで必要なかったけど、これからは旦那様付きもいるかもね。あのいつでも眠い旦那様に『妻はゆっくり寝かせてやってくれ』とか言われてみたいわ」
「それわたしの夢だから!ぼんやり色っぽ可愛い奥様のお世話するの夢だから!」
ええと。
勢いよく立ち上がった時は怖いほどの笑顔だったみんなが、ちょっと楽しそうに部屋を出て行きました。楽しいのは何よりですが、ええと、これは私の恥ずかしい話が伝播するということでしょうか?
旦那様に顔向けできない以前に、邸内を歩けなくなりました。
「もちろん、ちゃんと奥様と旦那様の話ですよ。でもわたしたちは奥様が大好きなので、ここで気持ちよく過ごしてもらいたいんです」
恥ずかしいですが、リサたちの、痛くない優しい感情がまっすぐぶつかってきてくれるのは嬉しいです。
私はここへ来られて本当に良かったです。
「私も、リサが大好きです」
「うふふ。そうです、そうやって旦那様にも言いましょうね。きっところっと転がってくれますよ!」
「旦那様に?」
「はい旦那様に」
「……え?」
「え?」
旦那様に何をお伝えするのかと、思考が止まってしまった私の表情を見て、リサも止まっていました。
あんな自分本位の言葉を口にしてしまって。改めて何を言えばいいのでしょう。そうです謝罪です。それから旦那様がご必要とされる、ご希望される方を望んでくださるように。
ああ、それが、嫌だと思ってしまう私は。
そもそも、どうして、嫌だと思うのでしょう。
「…………すき?」
思わずこぼれてしまった言葉をすくい上げたら、お腹の底にあった重いものがなくなりました。ストン、と腑に落ちた感じでしょうか。
同時に、しゃっくりが止まるくらいの驚きです。
好きだから。
私の居場所を許して欲しい。私を望んで欲しい。私でない方に触れないで欲しい。
相手の事を考慮しない私ばっかりの希望を抱いてしまうのは。それを叶えて欲しいと願うのは。
私が、ライムンド様をお慕いしているから。
すごく納得できたのに、考えれば考えるほど、体温が上がっていきます。
どう、どうしましょう。理解してしまったら今までの事が恥ずかしいでは表現できないほど恥ずかしいです。こんな状態で旦那様の手に触れたりしたら、泣いてしまうかもしれません。
あの声で名前を呼ばれたら、それだけで、
「いっ…いやあああああ!」
「嫌なの?え、嫌なんですか?!」




