いざなった声
先輩は運命というものを信じない人だけれど、僕はそんな先輩に会えたことを、運命だと信じている。
昼休みの図書室で、先輩…小向 静は、僕たちに図書室内の仕事を押し付け、共有スペースの中央に座り、周りに本を積みつつ、黙々と読んでいる。時々生徒に声をかけられると、露骨に嫌な顔をしながら読書を中断し、額にずらしていた丸眼鏡をかけ直す。決して長いとは言えない髪をいじりながら小声で言葉を交わすと、生徒は満足そうに本を探しに行く。僕以外の図書委員が教室に戻り、昼休み終了5分前のチャイムが鳴る頃になると、先輩は積んであった本をいつの間にか元に戻していて、一冊、本を僕に向かって差し出す。
「今日の本。覚えておいてくださいね。」
ぶっきらぼうな物言いも、横暴な態度も、どうでもよくなるほど綺麗な声で、先輩は僕に部活で使う本を教えた。
僕が先輩と会ったのは、特別授業の時だった。何の変哲もない、昼休みから放課後までの2時間分の授業で、新入生に委員会や部活、生徒会のことを紹介する授業だ。金のかからない部活に入ろう。委員会や生徒会を任されそうになったら押し付けよう…そんなことを考えていた気がする。
「図書委員会と図書管理部。図書室で行う活動を紹介します。」
当時女性の綺麗な声を表す言葉を知らなかった僕でさえ、風鈴のような、ずっと聞いていたい声だと感じた。僕は、気づいた時には図書委員会に立候補していた。同じように図書委員会に立候補していた人はいたが、幸いにも図書部まで希望していた人は僕一人だけだったので、そのまま図書委員会に入会することができた。放課後になり、僕は入部届を渡すこともあり、図書室へ向かった。
放課後の図書室は、程よく暗く、静かだった。保健室並みに眠れそうだな、と少しズレたことを考えていた。
「図書室の利用時間は過ぎましたよ。」
あの時と同じ、心地よい声が貸出受付から聞こえる。声の余韻に浸る誘惑を振り切り、僕は口を開いた。
「い、いえ、図書館部に入部したくて…」
貸出受付から露骨に大きなため息が聞こえた。
「ここは図書管理部です。図書館部って何ですか?」
明らかに棘を含んだ言葉であった。丸眼鏡をクイと上げながら、受付から声の主がこちらへ近づいた。
「まぁ、入部はご自由に。人手はいくらあってもいいですし。」
「あ、ありがとうございます。」
僕は初めて彼女の姿を間近で見た。
「私は小向 静。あなたは?」
僕も名乗る。
「僕は伊波 信垣です。よろしくお願します、えっと…小向先輩。」
指で髪をクルクルといじりながら、そう、と素っ気ない返事をした。が、先輩と呼ばれたことが嬉しかったのか、口角が上がっていた。
小向先輩は指を髪から離し、丸眼鏡をクイと上げ、少し背筋を伸ばした。図書委員会と図書管理部の違いをまず話しておきましょうか。と、初歩的ではあるが大事なことを伝えるべく、口を開いた。
「図書委員会は、図書室の管理を行う。単純に言うと、図書室を綺麗にしたり、昼休みに生徒に本を貸したり…理解、できてますよね?」
僕がうなずくのを確認してから、続ける。
「図書管理部の活動は、本をより理解していく。ま、帰宅部っぽくなってる一面もあるけど。すなわち、読書感想文を書いたり、図書室用の本を買ったりします。そこで…」
もう一度眼鏡に手をかけ、僕に向かってビシっと指を指した。声が心なしか熱くなっている気がする。
「最初の活動として、この本を読んで、感想を書いてもらうからな!」
僕に向けていた指が今度はある本を指した。
「大人でも読まないような分厚きこの『FBIプロファイラーが教える「危ない人」の見分け方』さて、新入生。一週間で読めるか!?」
先輩の声は、ここが図書室であることを忘れたかのような大声になっていた。大声になってもなお綺麗であった。綺麗な声にうっとりしていたのだが、呆気にとられているとも腰が抜けているともとれる僕を見て、先輩はハっと我に返った。
「落ち着け落ち着け…申し訳ない…。熱くなるとつい大声になってしまうんです。」
だんだんと先輩の印象が、変わりつつあった。だが、声の良さで、欠点が全てどうでもよくなり、美点に見えてしまう…。
先輩はフー…と息をついた。しばらく沈黙が流れる。落ち着いたのだろう、先輩が後輩に初めて部活を教える口ぶりで、僕に優しく声をかけた。
「ええと、伊波さん。本は、好き?」
一瞬、僕は完全に固まった。先輩の「好き?」が脳内に響く。先輩が好きなわけではない。だが、好きな人に言われるそれより、心を刺激される気がした。
「…好…ぃぇ……あまり…興味なくて……。」
うっかり好きと返しそうになったが、とっさに理性が仕事をしてくれた。好きと言ってしまいあんな分厚い本を渡されたら最後、本は枕としての役割しか果たさなくなるだろう。
正直、僕は本を全然読まない。国語の教科書ですら、「やまなし」以上の字を読むと眠くなる程だ。先輩は何か早口でぶつぶつ呟きながら僕のもとを離れた。「短……いき…イし、……?なら…も…」全く聞き取れなかったが、僕ではなく本棚を見て何か言っているようなので、ひとりごとだと思うことにした。
「短編集を一冊、読んでみましょうか?」
戻ってきた先輩は、僕に聞き取れる言葉で、尋ねた。全く同じタイトルの本を2冊、机の上に置く。
「気になった話を1話、音読してあげる。」
僕と先輩の部活動は、こうして始まった。