子爵令嬢は絶対に卒業したくない
卒業したくない。
どんよりとした私の心とは裏腹に今日は夏の気配も感じるカラッとした晴天だ。
明日からここの学生ではなくなると思うと、見慣れた廊下を立ち去るのが惜しくなる。最後の記念にと一人で校舎を歩き回っていた。
「……オリバー? 一人か? 婚約者の彼はどうした?」
「メイスン先生」
声をかけてきたのは相変わらず不機嫌そうな顔の魔術教師だ。彼は教鞭を取っているのが最大の謎と言われている魔術の天才らしい。確かに授業内容は(教科書通りにしか進めないので)可も不可もなく、性格も教師に向いているとは言い難い。本人も教師になるつもりは無かったと証言してるし、陰でこっそり「人生どう転ぶかわからない見本」と言われている。
ただ教師陣の中では唯一の独身20代・一代限りだけど爵位持ち・見た目がすこぶる良いので御令嬢方達からは大人気なんだけど、今はこの話は置いておこう。
そんな先生と私の仲は、実は悪くない。
「婚約が決まったから君は卒業するというのに、それを放っておくなんて」
こんな話が出来るくらいには気安い関係だ。
先生はよく取っ付きにくいと周りから言われているけど、私はそう感じた事がない。流石に機嫌が悪かったり忙しいときに話しかけると素っ気無くされるが、それは先生でなくともあることだ。礼を尽くせば例で返す、そんな大人の男性だと思っている。
「一人で見て回りたい気分だったんです。今日で最後だから」
「そう、か……浮かない顔をしているが、何か心配事か?」
思いがけない先生の言葉に、どうも不機嫌そうに見えた顔は心配していたんだと思い至った。
取り繕って微笑んで見せたけど、ああ、失敗してるみたい。やっぱり先生は誤魔化せなかったかと正直に答える。
「卒業したくないなって、思ってしまって」
「……訳を聞いても?」
「んー。先生、座りません?」
まだ人が残っている近くの中庭まで移動してベンチに腰掛けた。
学び舎の中とはいえ、未婚の男女が二人きりの状況はよろしくない。気安くても私達はそんな関係だ。
「わたくし、この学園には婚約者を探すために来ましたの。幼馴染と婚約させられそうになって」
「そうか」
「別に彼に問題があったわけではありませんのよ? でも一生のことですもの、納得がいくまで探してみたかっただけなんです」
「そうか」
「それなのに何故か幼馴染が張り切って私の相手を探すようになってしまいまして」
「……うん?」
「結局、彼から紹介された方の中から選びましたの。もちろんお人柄も申し分ない方なんですけど、私が探した訳ではないのでこれで良いのかって」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
相槌を打ってただけの先生が急に慌てだす。
「『幼馴染が探した相手』? そんなこと聞くのは初めてだ」
「? ええ、このことを誰かに話すのは今日が初めてですわ」
私の声は届いているのかいないのか、先生は急に難しい顔で考え込んでしまった。何やらブツブツ言っているようだけど声が小さすぎて聞こえない。
「先生?」
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
「はぁ」
いつもは冷静な先生も慌てることがあるのかと驚いた。そりゃ人間なんだからそんなこともあるはずなんだけど、無意識に先生を感情のない完璧超人だと思ってた節がある。3年間も教わっていて初めての発見だ。
ここにきて失敗した、と思った。もっと先生といろんな話をしておけばよかった。婚約者がいる身で何を考えているのだろうと自分でも思うけど、でもどうせ今日で卒業だし、最後くらい良いでしょう?
いつもならしないことをしたくなったのは、たぶん幼馴染の影響だ。
「そうですわ、先生。一つよろしくて?」
「どうした?」
「わたくし、本当は先生と婚約したかったんですの」
そう告げると先生は固まった。まるで氷漬けのようだ。
おかしいわ、先生がこんなに動揺するなんて。先生はよく令嬢達から愛の告白を受けると聞いていたので、てっきり流されるとばかり思っていましたのに。
どうしましょう。自分の発言がここまで迷惑になるなんて思っていなかったからどうすれば良いのか分からない。
「俺は君より10歳以上年上だぞ?」
再始動した先生の第一声がこれだった。
戸惑ったような顔は、それでも嫌がっているようには見えなくてそっと胸をなでおろす。
「あら、男性の魅力は30歳を過ぎてからですわよ?」
からかうような口調で言えば、先生もいつもの気難しい顔に戻る。
「わたくし、年上の方に惹かれますの。一つ二つ離れているくらいじゃ子供のようにしか思えなくて」
そのせいか年上の幼馴染に姉と呼ばれるようになり、同級生からもたまにそう呼ばれる事があったことは……そうね、ここで言わなくても良いでしょう。
「そうだったのか……はは、参ったな」
「困らせてしまって、ごめんなさい?」
初めて見る先生の困った微笑みにこっちの頬も緩む。
さて、と私はベンチから立ち上がった。この学園で私が私の為に出来ることは、これでお終い。これで見納めになるかもしれないと中庭を眺めていたら、ロイヤルカップルと噂の男爵令嬢がいたことに気づいた。それとこっちに気づいていないのか、その3人の後ろを幼馴染のケネス・ギャリソンが通り過ぎていく。
「ケ――」
彼の名を呼ぼうとしたけれど、ガクンと後ろに引っ張られて失敗した。
横を見ると先生が私の手首を掴んでいる。
「理論上、限定的な時間の巻き戻しは魔術で可能なんだ」
突然の魔術講義に首を傾げていると先生の視線が私からそれた。誰か見ているのかと視線を追うとその先にいたのは、……ケネス?
「肉体ごと過去に戻すのは不可能でも、精神体なら時間を越えられる。それを過去の自分の肉体に上書きすれば良い。ただ何度も繰り返すとどうなるかは分からなかったんだ。そんなこと誰もしたこと無かったからね」
「……メイスン先生?」
「次は彼からも話を聞く必要がありそうだな。何、世界はまだ終わらんよ」
先生が何を言いたいのかまだ理解が及ばない。ただ捕まれたままの手首が異様に熱くなっていくのだけは分かった。たぶんこれは、先生の魔力が、私の中に、流れ込んでいるから……!
「せ、先生?!」
「ああそうだ。まだ言ってなかったな。卒業おめでとう。それじゃ、──」
何を伝えようとしていたのか、先生の最後の言葉は光に溶けて聞こえなかった。
「──入学の日にまた会おう、パルセット」