死にたがり少女は夢をみる
高さ三〇メートルのビルから落ちた猫は、奇跡的に無事だったそうだ。
テレビのワイドショーでたまたま流れていただけ。たったそれだけなのに、
興味をひかれたのはなぜだろう。
私がこの選択をしたのは、知りたかったのかもしれない。人間も猫のように
奇跡的に生還できるのかどうか。いや、生還するつもりなんて、もとよりなかったけれど。
――
僅かに誰かが談笑する声が耳をかすめた。
部活動を終えた生徒たちがほとんどいなくなり、空が暮れ始めたころ。
屋上の風は冷たかった。上着を着ることを忘れていたせいか肌寒い。
周りは金網で囲まれている。普段は立ち入り禁止の場所に一人で立っている
女は、さぞかし異質だろうとため息を漏らす。
屋上から落ちれば、人は死ぬ。猫であれば高さ約三〇メートルのビルの
屋上から落ちてもほぼ無傷だった例があるらしいが、
人間であればそれはもう無残な姿で、即死だったであろう。
顔は誰と判別がつかないほどぐちゃりと潰れ、ありえない方向に手足が折れ曲がるに違いない。
そんな人間はたった十数メートルしかない学校の屋上から飛び降りても死ねるのだ。可哀そうなことに、人間はいとも簡単に死ぬ。飛び降りてしまてばわずか数秒。碌な走馬灯が流れないまま最低の気分のままでこの世を去る。
猫のほうが長生きのはずなのに、身体は意外と人間のほうが簡単につぶれるようだ。
私はあいにく猫ではない。そのことにとても感謝している。神様ありがとう。
今から私はくそったれな現世とさよならをする。
思えば私の人生は散々だった。
豪邸に生まれいつも綺麗なな衣服を着せてもらい、豊かな食事をして優しい使用人に囲まれて。
はたから見たら金持ちの私はさぞ幸せに見えただろう。
何せそもそも使用人がいること自体が珍しい日本で、使用人が十数人もいるのだ。
運転手にコック、メイド、庭師。ほしいものは望めば何でも手に入る。
最近ではライブや旅行、洒落たレストランでの食事、体験型の遊びなど、物として残らない、「思い出」を買う人間が増えているという。私もお金を払えば買えるだろうが、反吐が出る。
誰もその「思い出」を共有する相手がいない人間にとっては、全く関係のないことだ。
SNSで幸せに見せたいがためにお金で友達を雇って写真を撮る?
なんて悲しいご時世だろう。最近では恋人のふりまで頼む人間がいる始末。
社畜という言葉が蔓延する昨今、退職代行サービス成るものまで
現れ、どんどん世界は可笑しな方向に走り出している。
私は幸せを買えなかった。
友達を買う?恋人もお金で手に入る?
冗談じゃない。そんなことをするくらいなら、死んだほうがましだ。
私はこの完璧なコンディションのなか、自殺をすると決めているのだ。
わざわざ苦労して屋上までばれないように運んだ脚立、
こっそり作った屋上の合い鍵、ほんのりと橙色に染まった美しい空。
この申し訳程度に取り付けられた金網を超えて私は飛ぶ。
お城のように綺麗な家に生まれた醜い私。
ニキビ面で可愛げがなくて不愛想。目つきが悪く普通にしていても
睨んでいるといわれる。
妹にはよく似合うフリフリしたいかにもお嬢様なワンピースも脅威的に似合わない。
同じ服を着せられたときは、あまりの違いに服を破り捨てたくなったくらいだ。
家にももう居場所がない。
全ての愛情が妹に向けられ、父母も使用人も、私を見る目はいつも冷たい。
「どうしてこんなに、妹さんに似てないのかしら」
「気の毒なくらい似てないわねぇ。それであんなに性格もひねくれたのかしら」
「にこりともしないのよ。せめて可愛げがあればねぇ」
愛想が良くて可愛らしく、素直で可憐な妹。
あの子さえいなければと、何度思ったことだろう。
両親の愛情を独り占めにしたあの子は、私に憐みの目を向ける。
「お姉さまも一緒にいかが」
微笑みながら私に声をかける妹。冷たい両親の目。心配そうに見つめてくる妹を無視し、私は自室へと戻る。誘われても一緒に食べることはなく、最近では自室にこもることが増えた。
週に二、三回自室まで夕食を運んでくる妹の声はひどく耳障りで、聞いてるだけで苛立ち、結局は「そっとしておいて」と喚く。
その繰り返し。全ての愛情を注がれた妹と全て奪われた姉。一度信頼していた人に裏切られた身としては、血縁だろうがもう信じることはできない。
それに存在していること自体が異質であるかのような扱いにいつしか慣れてしまった。
きっと私が死んだ方が、全てが円満に進むのだ。誰も悲しむ人はいない。私にはない全ての愛情をもった妹を妬むことしかできない哀れな姉は、愛されることもなく死ぬのだ。
きっと妹も清々とするだろう。そうに違いない。学校でも友達はいない。仲の良い者同士ですっかりグループが固まってきている今、今更友達を作りたいとも思えなかった。
「ねえ、そこで何してるの?」
突然聞こえた低い声に、思わず肩がびくりと跳ねた。
心臓が破裂しそうに脈打っている。
恐る恐る振り返ると、見知った男が立っていた。
どこかで聞いたことがある声だと思ったら、一生かかわることはないと思っていたクラスメートの一人だった。陰キャラを貫いている身としては、もはや赤の他人といってもよいほどかかわりのない人間。
クラスにはスクールカーストという見えない順位付けがあるもので、もしも目に見える身分があるとしたら貴族と奴隷並みの身分差があるであろう。
「楠木さん…だよね?」
「そう……です、が」
驚いたことに、私の存在は認識されていたらしい。ほぼクラスで空気と化しているせいか、「誰だっけ」と(クスクスと嘲笑されながら)名前を聞かれることもままあるにもかかわらず、である。
そして彼は知らない人間はいないのではないかと思われるほど有名人だ。
何せ生まれながらにして真白い髪に青い瞳。目立つなというほうが無理である。
おまけにそのルックスで、転校してきたころには、クラスの前に見物のために集まった
女子たちが群がり騒がしかった。
たしかに世界中探してもここまで整った外見を持つ人間はそういないであろう。
そもそも人間ではないのではないかというバカな噂もたつほど人間離れしているのだ。
そんな男が一体屋上に何の用があるというのか……お願いだからこの不自然に用意された脚立や今まさに脚立に足をかけようとしていた私に突っ込まないでほしい。せっかくここまで苦労したのにすべてが水の泡になってしまうではないか。
「楠木さんはここに何しに来たの?ここって立ち入り禁止だよね?」
「そ、それは……」
立ち入り禁止というのはよくわかっている。だからこその合い鍵だ。
「僕は先生から鍵を借りてきたんだ。誰もいないはずの場所に人影が見えたから気になって……。その脚立、体育の佐藤先生が探してたよ?体育倉庫の備品からとったでしょう?」
淡々とした口調で追い詰められ、脚立の足を持つ手に力が入った。何も知らないくせに、勝手なことを言う。あまり使われていない奥のほうにある階段を使い、人目を気にしつつ運んできたのだ。曜日も考えて最も人が通りにくい時間帯を選んで慎重に運んだ。屋上まで運ぶのは骨が折れたが、人には生きる権利もあれば死ぬ権利もあると主張するのはそんなに悪いことであろうか。
「仕方…ない、じゃ、ない。こんな金網があるせいで飛び降りたくても死ねないし、少しぐらい借りたって……!!」
「そういう問題じゃないでしょ。そんなところで死のうなんて、学校にも迷惑がかかるし、家族にだって……」
「家族なんて……!私にはいないようなものよ!!!」
悲鳴のような甲高い声で、彼の声が遮られた。自分でも驚くほどひどい金切り声だった。家族に迷惑がかかるなんて、一ミリも考えていなかったのだと気づいて、自分の醜さを思い知る。あれでも家族、家族なのだ。たとえ誰もが自分に微塵も興味がなく、誰からも相手にされなくとも、大嫌いでも、家族。
……それでも、家族のために生きようなんて、まったく思えないけれど。
柏木ルイは人気者だが少し、いやかなり変わり者だ。日本の常識というより学校の常識をあまり知らないのか、午前中は先生にいくら怒られても寝ていることが多いし、お弁当はいつもフォークとスプーンで食べている。たまにクラスメートと話しているときも、話がかみ合わず揶揄われているところもよく見かけた。ハーフだというが、彼は家族の話をあまりしたがらないらしく、よく突っ込まれては笑ってごまかしているように思う。私が柏木ルイのことで知っているのはそれくらいで、今初めて言葉を交わしたくらいだ。
だからもう、かかわることはないであろう。
取り乱してしまいバツが悪かったが、今から仕切り直して死のうという気にはなれなかった。やはり学校は目立ちすぎたのだ。柏木ルイにバレたことは大いに予想外の展開だったが、死のうと思えば部屋の中でも死ねるのだ。なぜ私は苦労してわざわざ脚立を運んだりしたのだろうか。
最後に空を飛びだかった…なんて、スカイダイビングでもあるまいし。深いため息が漏れ、ちらりと彼のほうを伺ってみた。それ以上何も言う気がないのだろうか。
「あなたが何のつもりで来たか知らないけど、たしかに今ここで死ぬのはあまり得策ではなかったわ。まさかばれるとは思っていなかったけど、わざわざこんなところで死なれても迷惑だものね。あなたの忠告通り場所を変えるとするわ。それじゃあ、さようなら」
脚立を折りたたみ、両手で持ち上げると、やはり結構重かった。これをまた運ぶのかと思うとかなり気が重い。無言で彼の横を通り過ぎようとしたが、不意に脚立が軽くなり、驚いて見上げると彼が脚立を持ち上げてくれていた。
思っていたよりも至近距離で、青い目がじっとこちらを見ていた。近くで見るとやはりサファイアか何かのようで、日の光に反射して、息をのむほど綺麗だった。
「……持つよ。よくこんなの運んでこられたね」
「悪かったわね。こんなバカな方法しか思いつかなかったのよ」
呆れたような目で言われ、反射的にお礼を言いそびれた。彼は思いのほか軽々と持ち上げると、脚立を壁に立てかけた。何か言ったようだが聞こえなくて首をかしげると、いきなり手首を掴まれてぎょっとした。
「脚立持つついでに聞きたいのだけど、君は本当に死ぬつもりなの?」
「それがなに?あなたには関係ないでしょう」
「あるよ。だってクラスメートでしょ?」
「そんなの…赤の他人と同じよ。だって私、あなたと話したの初めてだもの。席が近くになったこともないし、私にとっては他人だわ」
振り払おうとしても払えず、何を考えているかわからない。なぜか責めるような口調で尋問されている気分になり、正直気分はよくなかった。正義感が強いのか知らないが、しょせん他人の事なのだから放っておいてくれればようものを。
「……きみは、このままで悔しくないの?何もかもがうまくいかなくて死にたくなって、それで何一つ残らないまま死んでもいいの?」
「あなたにそんなこと言われる筋合いなっ」
「きみはそれでいいの?来世も天国も霊界もなくて、自分の存在が消えて無くなるかもしれないのに、きみはそれが怖くないの?」
「だからそんなのっ……!!」
あなたに言われる筋合いがないと、そう言いたかったのに言葉が詰まった。なぜほとんど話したこともないクラスメートのためにここまで言うのか、訳がわからないまま正論を言われて耳を塞ぎたくなる。
けれど片手が掴まれていて塞ぐことも逃げることもできない。掴まれた手首が軋むように痛んだ。
「どう、して……」
どうして私に構うの?その言葉がうまく出てこなかった。どうせ同情か正義感か安っぽい偽善なのに、わざわざ聞くなど無意味ではないか。手を差し伸べて簡単に放すくせに、中途半端に構われても痛いだけなのだ。
ただ、彼から出たのは意外な言葉だった。偽善でも同情でもなく、もっと嘘っぽくて信じられない、現実味のない言葉だ。
「好きだから」
柏木ルイはたしかにそういった。アメリカンジョークとか冗談だとか、そういって笑い飛ばすようなテンションでもなく、射るように真っ直ぐな目をして真顔で言った。私は思わず目を逸らして、一瞬手が緩んだ隙に逃げ出した。
背中にかけられた言葉が鼓膜に焼き付いて離れなかった。信じられるはずもなかった。ただ、家に帰りつくまでの記憶がないくらい、言葉が何度もこだまして離れなかった。
柏木ルイは有名人だ。接点なんて全くなかった。無関係の他人だったのに、なぜこうも振り回されねばならないのか。首をつって死ぬこともできたのにそうできないのは、彼の言葉が頭から離れないからだ。
なぜ彼は私を好きだといったのだろう。最後にかけられた言葉が頭のなかをぐるぐると回っている。
「待ってるから」
たしかに彼はそう言った。いつどこで何を待つのか。明日なのか明後日なのか、いつまで彼は待つのだろうか。本当に告白なら返事を待つのか。全くもって意味がわからなかった。
眠ろうとしても寝付けず、その日は嫌な夢を見た。信じていた人に裏切られる夢。その人だけは信じてくれていると思っていたのに、いとも簡単に裏切り、目の前からいなくなってしまった。
――信じようとして裏切られるなら、私はもう何も信じない。
必ず化けの皮を剥いで、その魂胆を暴いてやろうと心に誓い、もう行くことはないと思っていた学校へと向かった。思えばあの男は謎だらけだ。騙される前に騙してやろう。そう心に誓い、私はいつも通るなんの変哲もない薄汚れた校門をくぐった。
私はあの男のことを何も知らない。それなのにいきなり告白とは何事なのか。一晩経つとあれは夢だったのかとさえ思うほど奇妙で奇怪な出来事だった。しかしそれは夢ではないのだと、あの男に掴まれた手首に残る痣が生々しく訴えかけていた。
それほど痛みはないが、柏木ルイのことを思い出すと、シクシクと痛み出すような気がした。この忌々しい痣にかけて、あの男の真意を突き止めて弱みを握り、私の心を弄んだ罪を償わせなければならない。
だって、私は柏木ルイのことを何も知らないし、彼も私のことを何も知らない。それなのに好きだなんて、信じられるはずがないではないか。ただ、真意を確かめられればそれで良い。金か同情か正義感か。たとえどんな理由でも、軽はずみに言っていいセリフではないはずだから。
ただ私は、知らなくても良いことがあるのだと。知らない方が幸せのままでいられたのだと知ることになる。