15 十二年
電気ランプの柔らかい光が、食堂をぼんやりと明るくしている。
大きな丸時計がカシャリと針を進めた。時刻は午後九時だ。
フランツとリンテは並んで立っていた。
食後の後片付けは、いつも二人でやる約束になっている。いつもどおり、フランツが冷たい水で食器をすすぎ、リンテがそれを拭いて戸棚にしまう。
いつもなら、どうでもいい話で盛り上がる時間だ。
ハンスのハゲが進行したとかしてないとか、マットが誰かにフられたとか。話すべき話題に困ったことは、今まで一度もなかった。
ところが今日に限っては、二人とも、ひと言も口を聞かない。淡々とフランツがすすぎ、うつむいたリンテがしまう。
(話すべき事がないわけじゃない。ただ、どう話して良いのかわからない)
フランツはお腹に泥水が溜まったような、もどかしくも煮え切らない、そんな気持ちを抱えていた。
二人分の無言。
その原因を作ったエドはこの場にいない。
彼は二時間も前に、シュパッツ家を去っていった。
帰り際、エドは二人をふり返りこう言った。
「スカウトのことは、そんなに気にしないでください。あの方も私も、無理強いをする気はありません。ゆっくりと気楽に考えておいてください」
エドの言葉をくり返し思い出すフランツ。その手元がおろそかになった。
「あっ」
滑るラッツの手から、白いお皿が一枚、床に向けて落ちていく。
床のモルタルにぶつかって粉々になるかと思われたが、その寸前でリンテがすばやくキャッチした。
「ふぅぅぅっ……ラッツ?」
額の汗を手でぬぐいながら、リンテが上目づかいにフランツをにらむ。
「ごめん、リン」
リンテからお皿を受け取ると、フランツは桶にくぐらせた。
と、その肩をリンテが後ろからやんわりとつかむ。
「……やっぱ、ラッツも同じなんだ?」
「うん、そうだよ」
つぶやいたリンテに、フランツはふり返らずに答えた。
二人とも同じ事を考えている。それはお互いに、言葉がなくても分かっていた。どちらが先に口に出しても、おそらくその結果はいっしょだろう。フランツはそう思っていた。
「……ヴァスマウロ・シュタットかぁ」
そう言ってフランツから手を離すと、リンテは戸棚の前に立つ。そしてポツリと
「遠いね」と言った。
「そう言おうと思ってた……」
フランツが言葉に詰まる。
そのとき、後ろで扉の開く音がした。
ふり返ると、ガウンを羽織ったブラーヴァが立っている。彼女は電気ストーブに静かに近づくと、電熱線の上に置かれたヤカンを確かめる。
そして二人にふり返った。
「二人とも、それが終わったらいらっしゃいな。お茶を入れておくわ」
「はい」「はいママ」
二人はグラーヴァがお茶を入れる音を聞きながら、洗い物を手早く片付けた。
フランツとリンテが並んでテーブルに着くと、ちょうどのタイミングでブラーヴァがティーポットを傾ける。
琥珀色の紅茶が、三人分のカップに注がれた。湯気と共に漂う香ばしくさわやかな香りを、三人はしばし無言で楽しんだ。
やがて、カップに口を付けたブラーヴァが、二人に顔を上げる。
「ラッツちゃん、リンも、今日はとても静かなのね?」
「え、ええ、まぁ」
あいまいな返事をして、フランツは顔を伏せる。
リンテは、カップを口に付けたまま元気のない声でつぶやく。
「そんな日もあるよ、ママ」
それを聞いたブラーヴァは、おかしそうに眼を細めた。
「そんな日もある……なんて、本当ならこれがきっと最初ね。二人とも、ずいぶんと大きくなったわ」
「そんなに……僕らは、やかましかったですか」
フランツがブラーヴァに問うと、彼女は柔らかく首を振った。
「いいえ、やかましいとか、そんな事じゃないの。でもラッツちゃん、私はリンとあなたが生まれた時からずっと一緒だったけど、お茶の時に静かな二人を見るのは、これが初めてだわ」
「ずっと、だっけ?」
ふいっと目を逸らして、リンテが首をかしげる。
「ええ、リンは覚えてないでしょうけど、赤ちゃんの頃からずっとよ」
昔を懐かしんでいるのか、ブラーヴァはやさしく微笑んで電気ランプを見あげた。
「だって、ラッツちゃんのお母さんは忙しかったでしょう? 二人そろって寝かしつけるの、とても大変だったんだから」
「そうでしたっけ?」
今度はフランツが目を逸らした。
「もう、二人ともとぼけちゃって。グローシュさんが生きてたら、今ごろ怒鳴られてるわよ」
そっと閉じたフランツの目に、今はもういない祖父の顔が浮かぶ。
グローシュ・シュパッツ。
二年前に亡くなったフランツの祖父は、小柄なのに妙な迫力のある人だった。孫だからと溺愛された記憶はないが、孫だからと叱られた記憶なら山ほどある。
とくに〈あの日〉から後は、彼が二人の父親代わりだったから、二人して毎日のように怒鳴られたものだ。
耳を澄ませば、険しい口調で一喝する声が聞こえてくる。
「祖父なら、そうするでしょうね」
ふっと気持ちがゆるんで、フランツは紅茶の香りに懐かしさと寂しさを嗅いだ。
「『チビ共、迷惑をかけたことぐらい覚えとれ!』ぐらいは言うね」
リンテが口を尖らせて、グローシュのマネをする。あんまりそっくりだったので、フランツの耳にはグローシュの声で聞こえたほどだ。
ブラーヴァはすこし寂しそうに笑った。
「あらあら……でもね二人とも、あの人も必死だったのよ。お父さんたちが〈あの日〉に死んでから、あなたたちをなんとか育てようとしてね」
「そうですね。あの人らしい……愛情です」
「グローシュさん、ああ見えて、すっごく不器用だったもんね」
二人はそれぞれ、グローシュの事をしみじみと思い出す。
確かに厳しかった。怒ることも多かった。
でも今にして思えば、あれは不器用なりの必死さだったのだろう。
それに、とフランツは思った。
まだ小さかった二人に機関車に乗ることを許したのも、機関士として二人を鍛え上げたのも、愛情からでなければありえない。
だから二人は十六才で成人すると、すぐに機関士になれた。今も食うに困らないのは、間違いなくグローシュのおかげだ。
祖父は立派に、親代わりを勤めあげた。フランツは胸をはってそう言える。
「もう、二人して立派な事を言っちゃって…………でも、〈あの日〉からもう十二年も経つんだから。立派になるのも当然ね」
もう十二年。
その言葉に、フランツは忘れ得ない日付を思って顔をかげらせた。
クライス歴一五0年、六月十五日。
この日付は三人はもちろん、エルザブリュックに住む全ての人たちにとって特別なものだ。
その日、工場区にある製鋼工場で、大規模な爆発事故が起こった。
どこかから引火したガスタンクが吹き飛び、工員からは多数の即死者が出た。しかも爆発によってエルザ河の堤防が崩れ、泥流が市街地を襲った。死者二五二名、行方不明者百七名の大惨事だ。
フランツの両親は製鋼工場の従業員で、三五九人の犠牲者に含まれていた。リンテの父も機関士として勤めていて、爆発で即死した。
そしてリンテも、ひどい怪我を負った。
その日、偶然にも誕生日だった彼女は、お祝いに父親の機関車に乗っていた。幸い一命は取り留めたものの、胸に破片が深々と刺さり、虫の息で助け出された。
その時の傷跡は、今も彼女の胸に残っている。
一度に両親を失ったフランツ。
そして父を奪われて、死の淵に追い込まれたリンテ。
二人の人生は〈あの日〉を境に大きく変わった。
「そういえば、二人にあの話をしたことはなかったわね」
そう言ってブラーヴァがカップの縁を撫でる。
「リンが怪我して、ベートが、夫が逝ってしまったあとの事よ。
責任がベートにある、なんて会社が訴えてきたの。私は機関車も貯金も、何もかも取り上げられたの。苦しむリンを抱えて、路頭に迷った私はあっちこっちを転々としたわ」
ブラーヴァがぽつりぽつりと語る言葉を、二人は黙って聞いた。
その当時は二人ともまだ四歳で、詳しい話は何一つ覚えていない。
「そしてとうとう、どうにもならなくなって…………私はリンと一緒に、ベートの所へ行こうと思ったの」
横でリンテがぴっと小さく跳ねる。
ブラーヴァは、リンテと一緒に死ぬつもりだったらしい。フランツにとっても衝撃的な話だが、リンテにはさらに辛い話だ。
「今なら、どうしてそんな馬鹿なことを、と思うけど、あのときはそれしかないって、そう思い詰めていたのね」
そこでブラーヴァはリンテの様子に気がつき「大丈夫よ、もう二度としないわ」とリンテの手を握った。
「私はエルズの橋に、リンを連れて身投げするつもりで行ったの。せめてベートが死んだ場所が見えるようにって」
ブラーヴァがフランツを見る。
「そしたら、ラッツちゃんを連れたグローシュさんが現れてね……」
そのとき、フランツに吹雪の音が聞こえた。
古い記憶の底から、景色が鮮やかによみがえってくる。エルズ大橋の上で、夜の中に佇むブラーヴァと、抱かれて荒い息のリンテ。
雪が降っていた。
フランツの手を引くのはグローシュだ。
グローシュは二人に駆け寄って、そして……
「『ラヴ……死ぬ前に家に来い。トルバートが、倅たちが使っていた部屋がある。ラッツも一緒だ。もう寂しい思いなんて、絶対にさせん』」
記憶からこぼれ出る言葉を、気がつけば、フランツはそのまま口に出していた。
ブラーヴァとリンテが、目を丸くして彼を見る。
「あらラッツちゃん、おぼえてたの?」
「いえ…………今ふっと思い出したんです」
「なんていうか、後半はラブコールにも聞こえるよね、それ」
リンテのツッコミに、ブラーヴァはクスッと苦笑いした。
「ええ、不器用な、彼らしい言葉だったわ。でも、それで思い直して、リンテと
いっしょにこの家に来たのよ? グローシュさんが、私たちを助けてくれたの」
ブラーヴァの言葉にうなずいたフランツ。
だが、たぐられた記憶の糸が、急に別の所でほつれて、頭の中に引っかかった。
雪の光景が再びちらつく。
ひどく弱々しい様子のグローシュ。
彼に手を引かれるフランツ。
降り始めた雪。
グローシュがふり返ってこう言う。
「トルバートたちの所へ……」
跳ねたフランツの肩を、リンテがそっとつかんだ。
「どうしたのラッツ?」
「ん、や……何でもない」
フランツは首を振ってリンテに答えた。
(あのとき、祖父もブラーヴァと同じ気持ちだったのか)
息子夫婦の突然の死が、祖父から生きる希望を奪っていたのかも知れない。だとしたら、ブラーヴァを祖父が助けたのではなく、逆に祖父がブラーヴァに助けられた事になる。
何という偶然か。あの日、あの場所に、同じ気持ちの人間が揃うなんて。
「グローシュさんと会わなかったら、リンもこんなに立派になることはなかったわ。だから私は、今が嬉しいの。こうして、この家で大人になった二人と話せることが、ほんとうに嬉しいのよ」
ブラーヴァが二人の手をそっと取る。
紅茶のおかげなのか、手はほんのりと温かだった。
「そしてね……そう、こんな体で言えた事じゃないんだけど、二人には私のことを、気にして欲しくないの」
「ママ?」首をかしげるリンテ。
ブラーヴァはそっと首を横に振る。その顔は優しげで、どこかちょっと寂しそうだ。
「さっきのお客さん。二人をスカウトしに来たのでしょう?
ごめんなさい、壁が薄くて聞こえていたの。
いい話だわ。車団に入れば、今よりもっといい暮らしができる。それに、もっと大きな世界を見ることができる」
ブラーヴァの顔が窓を向く。庭を透かして、塀を透かして、彼女の目にはエルザブリュックの夜景が映っていた。
「こんな街だけが、世界の全部じゃないの」
ブラーヴァの手にきゅっと力がかかる。
「二人が、もし誘いを受けたいなら、私のことは気にしないで。自分たちの人生なんだから、自分たちのために使いなさい」
フランツは黙って下を見た。
カップの中で、残った紅茶が薄く揺れている。底には澱が溜まって、まるでフランツ自身の心のようだ。
(ブラーヴァさんのためには、ここに残るしかないじゃないか)
フランツの考えは、おそらくリンテの考えでもある。
環境を変えるな。
それはブラーヴァの主治医からの忠告だ。ブラーヴァの病、恐ろしい肺病は、体力が衰えると全身を一気にむしばむ。いま彼女はかろうじて、この暮らしで命をつなぎ止めている。
おそらく街が変われば、容態は悪化するだろう。首都に連れて行くのは難しい。
かといって、たとえ仕送りできたとしても、ここに一人残していくわけにはいかない。彼女の面倒を見る誰かが必要になる。
(おばさんの心遣いは、とてもありがたい。でも、だからといって、見捨てるような事はできないよ。僕にとってたった一人残った……)
押し黙る二人。
丸時計が時を進める。
「あら、もう十一時よ」
ブラーヴァが声を上げた。
「二人とも、明日は仕事なんでしょう? そろそろ寝ないと体が持たないわよ」
立ち上がって、ブラーヴァが二人を促す。
二人は共に席を立つと、順にブラーヴァにお休みのハグをしてから、それぞれの部屋の扉を開けた。
カシャンと閉まった扉の前で、フランツはしばらく立ちつくしていた。
「どうしたら、いいんだろう……」
答えが出ない。
今日一日、いろんな事がありすぎて、頭がうまく働かない。
フランツはフラフラとベッドに寄ると、着替えもせずに横になった。




