表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/31

15 十二年


 電気ランプの柔らかい光が、食堂をぼんやりと明るくしている。

 大きな丸時計がカシャリと針を進めた。時刻は午後九時だ。


 フランツとリンテは並んで立っていた。

 食後の後片付けは、いつも二人でやる約束になっている。いつもどおり、フランツが冷たい水で食器をすすぎ、リンテがそれを拭いて戸棚にしまう。


 いつもなら、どうでもいい話で盛り上がる時間だ。

 ハンスのハゲが進行したとかしてないとか、マットが誰かにフられたとか。話すべき話題に困ったことは、今まで一度もなかった。


 ところが今日に限っては、二人とも、ひと言も口を聞かない。淡々とフランツがすすぎ、うつむいたリンテがしまう。


 (話すべき事がないわけじゃない。ただ、どう話して良いのかわからない)

 フランツはお腹に泥水が溜まったような、もどかしくも煮え切らない、そんな気持ちを抱えていた。



 二人分の無言。

 その原因を作ったエドはこの場にいない。

 彼は二時間も前に、シュパッツ家を去っていった。


 帰り際、エドは二人をふり返りこう言った。

 「スカウトのことは、そんなに気にしないでください。あの方も私も、無理強いをする気はありません。ゆっくりと気楽に考えておいてください」



 エドの言葉をくり返し思い出すフランツ。その手元がおろそかになった。

 「あっ」


 滑るラッツの手から、白いお皿が一枚、床に向けて落ちていく。

 床のモルタルにぶつかって粉々になるかと思われたが、その寸前でリンテがすばやくキャッチした。


 「ふぅぅぅっ……ラッツ?」

 額の汗を手でぬぐいながら、リンテが上目づかいにフランツをにらむ。


 「ごめん、リン」

 リンテからお皿を受け取ると、フランツは桶にくぐらせた。


 と、その肩をリンテが後ろからやんわりとつかむ。

 「……やっぱ、ラッツも同じなんだ?」


 「うん、そうだよ」


 つぶやいたリンテに、フランツはふり返らずに答えた。


 二人とも同じ事を考えている。それはお互いに、言葉がなくても分かっていた。どちらが先に口に出しても、おそらくその結果はいっしょだろう。フランツはそう思っていた。


 「……ヴァスマウロ・シュタットかぁ」

 そう言ってフランツから手を離すと、リンテは戸棚の前に立つ。そしてポツリと

 「遠いね」と言った。


 「そう言おうと思ってた……」


 フランツが言葉に詰まる。


 そのとき、後ろで扉の開く音がした。

 ふり返ると、ガウンを羽織ったブラーヴァが立っている。彼女は電気ストーブに静かに近づくと、電熱線の上に置かれたヤカンを確かめる。


 そして二人にふり返った。

 「二人とも、それが終わったらいらっしゃいな。お茶を入れておくわ」


 「はい」「はいママ」

 二人はグラーヴァがお茶を入れる音を聞きながら、洗い物を手早く片付けた。



 フランツとリンテが並んでテーブルに着くと、ちょうどのタイミングでブラーヴァがティーポットを傾ける。

 琥珀色の紅茶が、三人分のカップに注がれた。湯気と共に漂う香ばしくさわやかな香りを、三人はしばし無言で楽しんだ。


 やがて、カップに口を付けたブラーヴァが、二人に顔を上げる。

 「ラッツちゃん、リンも、今日はとても静かなのね?」


 「え、ええ、まぁ」

 あいまいな返事をして、フランツは顔を伏せる。


 リンテは、カップを口に付けたまま元気のない声でつぶやく。

 「そんな日もあるよ、ママ」


 それを聞いたブラーヴァは、おかしそうに眼を細めた。

 「そんな日もある……なんて、本当ならこれがきっと最初ね。二人とも、ずいぶんと大きくなったわ」


 「そんなに……僕らは、やかましかったですか」


 フランツがブラーヴァに問うと、彼女は柔らかく首を振った。

 「いいえ、やかましいとか、そんな事じゃないの。でもラッツちゃん、私はリンとあなたが生まれた時からずっと一緒だったけど、お茶の時に静かな二人を見るのは、これが初めてだわ」


 「ずっと、だっけ?」

 ふいっと目を逸らして、リンテが首をかしげる。


 「ええ、リンは覚えてないでしょうけど、赤ちゃんの頃からずっとよ」

 昔を懐かしんでいるのか、ブラーヴァはやさしく微笑んで電気ランプを見あげた。


 「だって、ラッツちゃんのお母さんは忙しかったでしょう? 二人そろって寝かしつけるの、とても大変だったんだから」


 「そうでしたっけ?」

 今度はフランツが目を逸らした。


 「もう、二人ともとぼけちゃって。グローシュさんが生きてたら、今ごろ怒鳴られてるわよ」


 そっと閉じたフランツの目に、今はもういない祖父の顔が浮かぶ。


 グローシュ・シュパッツ。

 二年前に亡くなったフランツの祖父は、小柄なのに妙な迫力のある人だった。孫だからと溺愛された記憶はないが、孫だからと叱られた記憶なら山ほどある。

 とくに〈あの日〉から後は、彼が二人の父親代わりだったから、二人して毎日のように怒鳴られたものだ。

 耳を澄ませば、険しい口調で一喝する声が聞こえてくる。


 「祖父なら、そうするでしょうね」


 ふっと気持ちがゆるんで、フランツは紅茶の香りに懐かしさと寂しさを嗅いだ。


 「『チビ共、迷惑をかけたことぐらい覚えとれ!』ぐらいは言うね」

 リンテが口を尖らせて、グローシュのマネをする。あんまりそっくりだったので、フランツの耳にはグローシュの声で聞こえたほどだ。


 ブラーヴァはすこし寂しそうに笑った。

 「あらあら……でもね二人とも、あの人も必死だったのよ。お父さんたちが〈あの日〉に死んでから、あなたたちをなんとか育てようとしてね」


 「そうですね。あの人らしい……愛情です」


 「グローシュさん、ああ見えて、すっごく不器用だったもんね」


 二人はそれぞれ、グローシュの事をしみじみと思い出す。


 確かに厳しかった。怒ることも多かった。

 でも今にして思えば、あれは不器用なりの必死さだったのだろう。

 それに、とフランツは思った。

 まだ小さかった二人に機関車に乗ることを許したのも、機関士として二人を鍛え上げたのも、愛情からでなければありえない。

 だから二人は十六才で成人すると、すぐに機関士になれた。今も食うに困らないのは、間違いなくグローシュのおかげだ。


 祖父は立派に、親代わりを勤めあげた。フランツは胸をはってそう言える。


 「もう、二人して立派な事を言っちゃって…………でも、〈あの日〉からもう十二年も経つんだから。立派になるのも当然ね」


 もう十二年。

 その言葉に、フランツは忘れ得ない日付を思って顔をかげらせた。



 クライス歴一五0年、六月十五日。

 この日付は三人はもちろん、エルザブリュックに住む全ての人たちにとって特別なものだ。


 その日、工場区にある製鋼工場で、大規模な爆発事故が起こった。

 どこかから引火したガスタンクが吹き飛び、工員からは多数の即死者が出た。しかも爆発によってエルザ河の堤防が崩れ、泥流が市街地を襲った。死者二五二名、行方不明者百七名の大惨事だ。


 フランツの両親は製鋼工場の従業員で、三五九人の犠牲者に含まれていた。リンテの父も機関士として勤めていて、爆発で即死した。


 そしてリンテも、ひどい怪我を負った。

 その日、偶然にも誕生日だった彼女は、お祝いに父親の機関車に乗っていた。幸い一命は取り留めたものの、胸に破片が深々と刺さり、虫の息で助け出された。

 その時の傷跡は、今も彼女の胸に残っている。


 一度に両親を失ったフランツ。

 そして父を奪われて、死の淵に追い込まれたリンテ。

 二人の人生は〈あの日〉を境に大きく変わった。


 「そういえば、二人にあの話をしたことはなかったわね」

 そう言ってブラーヴァがカップの縁を撫でる。


 「リンが怪我して、ベートが、夫が逝ってしまったあとの事よ。

 責任がベートにある、なんて会社が訴えてきたの。私は機関車も貯金も、何もかも取り上げられたの。苦しむリンを抱えて、路頭に迷った私はあっちこっちを転々としたわ」

 ブラーヴァがぽつりぽつりと語る言葉を、二人は黙って聞いた。

 その当時は二人ともまだ四歳で、詳しい話は何一つ覚えていない。


 「そしてとうとう、どうにもならなくなって…………私はリンと一緒に、ベートの所へ行こうと思ったの」

 横でリンテがぴっと小さく跳ねる。


 ブラーヴァは、リンテと一緒に死ぬつもりだったらしい。フランツにとっても衝撃的な話だが、リンテにはさらに辛い話だ。


 「今なら、どうしてそんな馬鹿なことを、と思うけど、あのときはそれしかないって、そう思い詰めていたのね」


 そこでブラーヴァはリンテの様子に気がつき「大丈夫よ、もう二度としないわ」とリンテの手を握った。


 「私はエルズの橋に、リンを連れて身投げするつもりで行ったの。せめてベートが死んだ場所が見えるようにって」


 ブラーヴァがフランツを見る。

 「そしたら、ラッツちゃんを連れたグローシュさんが現れてね……」



 そのとき、フランツに吹雪の音が聞こえた。

 古い記憶の底から、景色が鮮やかによみがえってくる。エルズ大橋の上で、夜の中に佇むブラーヴァと、抱かれて荒い息のリンテ。

 雪が降っていた。

 フランツの手を引くのはグローシュだ。

 グローシュは二人に駆け寄って、そして……


 「『ラヴ……死ぬ前に家に来い。トルバートが、せがれたちが使っていた部屋がある。ラッツも一緒だ。もう寂しい思いなんて、絶対にさせん』」



 記憶からこぼれ出る言葉を、気がつけば、フランツはそのまま口に出していた。


 ブラーヴァとリンテが、目を丸くして彼を見る。

 「あらラッツちゃん、おぼえてたの?」


 「いえ…………今ふっと思い出したんです」


 「なんていうか、後半はラブコールにも聞こえるよね、それ」


 リンテのツッコミに、ブラーヴァはクスッと苦笑いした。

 「ええ、不器用な、彼らしい言葉だったわ。でも、それで思い直して、リンテと

いっしょにこの家に来たのよ? グローシュさんが、私たちを助けてくれたの」


 ブラーヴァの言葉にうなずいたフランツ。


 だが、たぐられた記憶の糸が、急に別の所でほつれて、頭の中に引っかかった。



 雪の光景が再びちらつく。

 ひどく弱々しい様子のグローシュ。

 彼に手を引かれるフランツ。

 降り始めた雪。

 グローシュがふり返ってこう言う。


 「トルバートたちの所へ……」



 跳ねたフランツの肩を、リンテがそっとつかんだ。

 「どうしたのラッツ?」


 「ん、や……何でもない」

 フランツは首を振ってリンテに答えた。


 (あのとき、祖父もブラーヴァと同じ気持ちだったのか)

 息子夫婦の突然の死が、祖父から生きる希望を奪っていたのかも知れない。だとしたら、ブラーヴァを祖父が助けたのではなく、逆に祖父がブラーヴァに助けられた事になる。


 何という偶然か。あの日、あの場所に、同じ気持ちの人間が揃うなんて。


 「グローシュさんと会わなかったら、リンもこんなに立派になることはなかったわ。だから私は、今が嬉しいの。こうして、この家で大人になった二人と話せることが、ほんとうに嬉しいのよ」


 ブラーヴァが二人の手をそっと取る。

 紅茶のおかげなのか、手はほんのりと温かだった。

 「そしてね……そう、こんな体で言えた事じゃないんだけど、二人には私のことを、気にして欲しくないの」


 「ママ?」首をかしげるリンテ。


 ブラーヴァはそっと首を横に振る。その顔は優しげで、どこかちょっと寂しそうだ。

 「さっきのお客さん。二人をスカウトしに来たのでしょう?

 ごめんなさい、壁が薄くて聞こえていたの。

 いい話だわ。車団に入れば、今よりもっといい暮らしができる。それに、もっと大きな世界を見ることができる」


 ブラーヴァの顔が窓を向く。庭を透かして、塀を透かして、彼女の目にはエルザブリュックの夜景が映っていた。


 「こんな街だけが、世界の全部じゃないの」


 ブラーヴァの手にきゅっと力がかかる。

 「二人が、もし誘いを受けたいなら、私のことは気にしないで。自分たちの人生なんだから、自分たちのために使いなさい」


 フランツは黙って下を見た。

 カップの中で、残った紅茶が薄く揺れている。底には澱が溜まって、まるでフランツ自身の心のようだ。


 (ブラーヴァさんのためには、ここに残るしかないじゃないか)

 フランツの考えは、おそらくリンテの考えでもある。


 環境を変えるな。

 それはブラーヴァの主治医からの忠告だ。ブラーヴァの病、恐ろしい肺病は、体力が衰えると全身を一気にむしばむ。いま彼女はかろうじて、この暮らしで命をつなぎ止めている。


 おそらく街が変われば、容態は悪化するだろう。首都に連れて行くのは難しい。

 かといって、たとえ仕送りできたとしても、ここに一人残していくわけにはいかない。彼女の面倒を見る誰かが必要になる。


 (おばさんの心遣いは、とてもありがたい。でも、だからといって、見捨てるような事はできないよ。僕にとってたった一人残った……)



 押し黙る二人。

 丸時計が時を進める。


 「あら、もう十一時よ」

 ブラーヴァが声を上げた。


 「二人とも、明日は仕事なんでしょう? そろそろ寝ないと体が持たないわよ」

 立ち上がって、ブラーヴァが二人を促す。


 二人は共に席を立つと、順にブラーヴァにお休みのハグをしてから、それぞれの部屋の扉を開けた。



 カシャンと閉まった扉の前で、フランツはしばらく立ちつくしていた。

 「どうしたら、いいんだろう……」


 答えが出ない。


 今日一日、いろんな事がありすぎて、頭がうまく働かない。

 フランツはフラフラとベッドに寄ると、着替えもせずに横になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ