ご利益
ご利益
子ができたことを喜助に伝えた翌日のことです。お茂は喜助に連れられて方々で挨拶廻りに付き合わされました。真っ先に連れて来られたのは検番です。
照れながらも子ができたことを報告すると、いつも喜助に目をかけてくれる小出様が満面の笑みで応えてくれました。しかし、一座のお役人衆が一様に喜んでくれているのに、一人だけそうではない人がいました。検番頭の坂崎様です。
むすっとしたまま書き物を続けるばかりで、いっこうに皆と打ち解けようとしません。まるで、御用に関わりがないのならさっさと帰れといわんばかりの態度です。
「喜助、その方、いまだ傷が癒えておらぬと申すに、子作りは別であるか。まして、小出は女房に面識ありと聞くが、何ゆえ儂に会わそうとせぬのか? なれど……」
筆をおいた坂崎様は、座ったまま顔を喜助に向けました。そして、嫌味なことを口にしておいて一旦言葉を切りました。
日頃からにこりともせぬお顔が、蒼白にさえなっています。それには小出様も穏やかならぬものを感じたようで、喜助などは縮み上がってしまいました。
ついと立ち上がった坂崎様が、上がり框まで出てきました。そして、立ったまま喜助を睨み据えました。
「喜助!」
「へいっ!」
これはただごとではありません。喜助は土間にぺったり座りこみました。
「でかした! でかしたぞ喜助! ひとかどの男になれたのぅ、さぞや町名主も喜んだであろう。親になって初めて人の何たるかを知る入り口に立つのだ。まずはめでたい」
お茂は、喜助の脇に控えたまま、事の成り行きを見つめていました。終始表情をかえず、難しい顔のまま坂崎様が立ったとき、嫌な予感がしました。しかし、坂崎様も人情味のあるお役人だということを知ったのです。きっと喜助も驚かされたろうと思いました。
「それが、町名主さんにはまだでして……。真っ先にこちらにお報せにと」
「たわけ! この慮外者が、何を勘違いいたすか! まずは町名主に報せるが筋であろう。町名主に報せたら隣近所、世話になるのはそちらであろう。筋を外してはならんぞ。以後、よく覚えておけ」
喜助の説明を遮って坂崎様が一喝しました。いかに検番であろうが、奉行所であろうが、それはあくまで役目の間柄です。ふだんの暮らしでもっとも頼るべきは隣近所なのです。その道を外れた行いを坂崎様が厳しく戒めました。喜助が素直に頭を下げて詫びると、坂崎様は得心したように頷きました。
ついで、お茂に向き直りました。首だけ曲げるのではなしに、体全体をお茂に向けています。つまり、坂崎様は、もう喜助とは話さないつもりなのでしょう。
「そこもとが女房か? 小出より聞き及んでおったが、喜助にはもったいない美形である。また、喜助が手傷を負うた際には、見事な手当てであったそうな。それに、盗賊に襲われた旅人の世話をしてやっておるそうな。この世知辛い世に、まことに感心である。この通り、礼を申すぞ。まこと、喜助にはすぎた女房殿である。よいか、子は天からの授かりもの、喜助だけの子ではないと心得よ。大切に育てるがよい。……これはな、番頭として下しおく。祝いと心得るがよい。遠慮のう納めておけ」
見も知らぬ自分のことを気にかけてくださるようなお人です、坂崎様は。お茂は、ただこの一言だけで坂崎様が好きになってしまいました。
「ありがとうございます。また、喜助の勘違いを諌めていただき、重ねてお礼申します。喜助ともども、よろしくお願い申し上げます」
小出様のように垣根を取り払って接してくださることはありがたいことですが、坂崎様のように道理を説いてくださるのもありがたいことです。お茂の周りにはそういうことを教えてくれる人がいなかったのです。
「喜助、女房殿は鉄漿付けをしておらぬが、いったいどうしたことか? もしや喜助、祝言を挙げておらぬとでも……。まぁよい……、が、筋は通しておけよ」
いかにも心のこもったお言葉でした。
「お茂、晴れて夫婦だとよ。いいなぁ、……夫婦。へっ、夢見てるみてぇだ」
喜助がしみじみと呟きました。お茂は、忙しい師走に気のおける人々の立会いで晴れて喜助と所帯をもちました。鉄漿付けをしたのは離縁されて以来のことです。
祝言の翌朝、お茂は誰も起きぬうちからこっそりと鉄漿を注していました。誰が一番に気付くだろうと思うと、おかしくもないのに頬が緩むのです。そして、眉を抜こうとして手を止めました。雪絵が勝手仕事を始めた気配が伝わってきたのです。のんびりと抜いている間などありません。お茂は迷わず剃刀を手にしました。
そしてそれに気付いた時、喜助は小躍りして喜びました。誰もが認めていてはくれました。しかし、鉄漿付けと引眉は格別だったようです。あまりにはしゃぎ、旅人を送り出してすぐ熱田の宮への参詣を言い出したのです。
行き交う旅人に混じって本町通りを歩いています。冷たい北風がふきつけると土埃が舞い、時として小さなつむじ風がおきていることを埃のおかげで知ることができます。渡し場からお城へはほぼ一直線。広い通りを南北に貫いていました。その本町通りでものの十町も歩けば、そこは熱田の宮のご神域です。こんもりした雑木林の奥に、本宮がありました。
岩田帯ではありませんが、少し嘔吐が落ち着いたのを幸いに、行ってみることにしたのです。
渡し場からものの三町も本町通りを北へ行き、一町ほど東に参道の入り口があります。参道の入り口とは妙なことですが、参道の始まりは一町ほど奥。大鳥居から参道なのです。
大鳥居の下は馬や駕籠、それに輿の溜まり場になっています。輿などという時代錯誤の乗り物は、天子様のご勅旨が乗っておいでになるのですが、幸いなことに今日はただの広場になっていました。
大鳥居の下に並んだ三人は、静かに一礼して参道へ歩を進めました。
参道の両脇は森になっています。天を覆う枝により陽射しが遮られますが、冷たい北風が吹き込むことはありません。多くの参詣者が踏み固めた参道が、薄茶の帯となって奥へ続いていました。
「母上! この塀の由来が書かれています。信長公が寄進なされたものとあります。……桶狭間の合戦の際、戦勝祈願なされたのがこのお宮だそうですね。なれば、ここに軍勢が勢揃いしたのでございましょう。……見事今川義元に勝った礼として、寄進されたとあります。なかなかに由緒のあるお宮でございますね」
お茂も喜助も、宮は遊び場でした。ですから、高札に何が書いてあるかなど気にしたことはありません。字を覚えてからでも、参拝に訪れはしますが、勝手知った遊び場ですから、そんなものにはまったく興味がなかったのです。ですから、この塀にしたところで、悪さをしてはいけないと本能的に思うだけなのでした。
「雪絵、あんたよくそんな小難しいものを読む気になるねぇ。いったいどんな育ち方したんだい? あっそうだ! この子が生まれたら、誰より早く字を教えてやっておくれ」
お茂は、雪絵の行儀よさや言葉遣いに感心していたので、ついそう言ってしまいました。
「承知しました。なれば丈夫なお子を産んでいただかねば。まずはそれが先でございます」
「そ、そうだね。……なんか雪絵を相手にすると言い負かされてしまうのが癪だよ」
参拝をすませても雪絵の疑問は次々に沸いて出るようでした。やれ祭神がどなただの、伊勢の神様とはどういう関係だの、神様の中でどんな地位だの。そんなことはお茂にはわかりません。喜助も詳しくは知らないようなので、掃き掃除をしていた禰宜さんに訊ねてみました。
雪絵が繰り出す疑問を丁寧に答えた禰宜さんは、お茂が懐妊していることを知ると、特別にお祓いをしてくれることになりました。
神妙に頭を垂れていると、バサッバサッと音がしました。一般の参詣者がお参りするより奥まった場所に連れられた三人は、そこでまた長い祝詞とともに大きな榊で穢れを祓ってもらったのです。
「では、直来を……」
禰宜さんは社務所に案内しました。小さく切った昆布を一枚。素焼きの杯にほんのちょっぴりのお神酒。お茂など子供の頃から親しんでいるとはいえ、初めての経験でした。
「これは、神前でお祓いした反物だが、腹帯に使ってもらえぬかな?」
禰宜さんが真新しい晒に紙を巻きました。
「そんな、お祓いしていただいた上に……。それで、如何ほど包めばよろしいので? なにせ、こういうことは初めてでして」
いったいいくら請求されるのか、喜助が恐るおそる訊ねましたが、人のよさそうな禰宜さんは、笑って取り合おうとしません。思いがけなくも、お茂は人の優しさに触れ、反物を大切に抱えて帰りました。
今年の冬は殊に厳しい寒さでした。遠く伊吹山から冷たい風がびゅうびゅう吹き降ろし、一尺を越す雪が何度か積もりました。冬の北風を侮ることはできません。厳重に閉ざした表戸が引き剥がされるような風が吹きつけます。年が改まってなお客引きに立っていたお茂は、喜助の猛烈な反対にあって鼻緒屋の仕事に専念していました。日を追うごとに腹がふくらんでいますが、日銭を稼いでおきたいお茂はやりくりのことが心配だったのです。
「きー公、やっぱり立つよぅ。もう少し客引きで稼がないと、ろくでもないものを食べさせることになるよ」
「そうだけどよ、なんとか俺が稼ぐから心配するな。この時期、客が減ってるんだろ? この寒空だぞ、馬鹿なことして授かった子を流したらどうすんだ」
「きー公だって、腕が元通りにならないんだろう? どうやって稼ぎを増やすのさ」
喜助の腕ですが、傷が深かったのか元のように曲がらなくなっていました。動かないから使わない。すると見る間に肉が落ちてしまいました。つまり、どちらも儘にならない体なのです。いつものことですが、最初はおとなしく相談していても、そのうち口喧嘩になってしまうのでした。
「父上、母上、ご相談があります」
なにやら思いつめたように雪絵が声を上げました。
「相談? 言ってごらん、力になるよ。けどさぁ、いいかげんに止めようよ。父上とか母上って呼ばれると誰のこと? だよ」
相も変らぬ言葉遣いにお茂は鼻白んでいます。
「前にも申しましたが、それは私の勝手だったはずです。差し出がましいことを申しますが、私もお役に立ちとうございます」
「なんだよ、あらたまって。雪絵は立派にやってくれてるよ」
「ですが、私は奥向きをしているばかり。少しはお役に立ちとうございます」
考えれば、雪絵は病身の父を介抱しながら旅を続けてきたのです。少々無理なことでもせざるをえないのでした。
「何言ってるんだい? 雪絵がいるから私が外で稼げるんじゃないか。持ちつもたれつっていうだろ?」
でも、お茂には雪絵の気持ちなどわかりません。まずは銭で苦労させたくないという気持のほうが強いのです。
「いえ、私は銭を失わぬことをしているまでのこと。増やさねばいずれ無うなってしまいます」
「そりゃそうだけど、それができないから皆あくせくするんだろう?」
「ですから、一つ思いついたことがあります」
「言っとくけどねぇ、新しい商いするっていっても、お足はないんだからね」
「承知しております」
「そう、わかってるんだ。じゃあ言ってごらん」
商いを始めるにも、そのための余分な銭などないことを雪絵は承知しているようです。それもきっぱりと答えたからにはそれなりの考えがあるのでしょう。ただ銭がないことで堂々巡りをするよりも、その考えとやらを聞いても損はないとお茂は思いました。
「はい。道中安全に結んでいる布で鳥目をいただけないかと……」
「布って、草鞋に括りつけるあれかい? あんなもので商いになるかね」
「それはなんとも……。ですが、皆さん喜んでくださいます」
「そりゃぁ喜ぶさ。だってお足をいただかないんだからね」
「ですから、お祓いを受けた布にすれば……」
「お祓い? わざわざ?」
「はい。お祓いを受けたものでなければいけません。それを道中安全のまじないにすればどうかとぞんじます」
「なるほどねぇ……。でも、そんなものが商いになるかい?」
「鳥目をいただけるようにすればよいのです」
「どうやってさ、どうしたらお客がつくんだい?」
「それは……。言い難うございます」
どういうことか、詳しい説明を求めると急に雪絵がもじもじしました。
「いいよ、遠慮せずに言ってごらん」
「実は……、母上がなされたようにすれば殿方のお客が……」
「えっ? 私が何かしたかい?」
「父上がお怪我をされたおりに……」
「さっぱりわからないんだがねぇ。もっとはっきり言ってごらん」
雪絵の説明は要領を得ません。もっとはっきり言えばよいのに、なにやら言い澱んでいるようです。だんだんいらいらしてきたお茂は、もっと明け透けに言うように迫りました。
「で、では……。こ、腰のものを裂いて見せれば……」
ちらちらと二人の様子をうかがいながら、雪絵がとんでもないことを言いました。
「な、馬鹿なことを言うじゃないよ。商売女じゃないんだからね」
とたんにお茂が顔を赤くしました。無我夢中でしたことですが、落ち着いて考えたらとても恥ずかしいことです。あろうことか、昌吉の悪戯のせいで素足を見られてしまったのです。嫌でも思い出されることに、お茂の顔は熟し柿のようになっています。それに、肌を晒すようなことをさせるつもりはまったくありません。
「いえ、母上のようにするのではなく、裾のほうだけ裂くのです。いかがでしょうか」
「そんなこと急に言われても見当がつかないよ」
「ではご覧にいれましょう。支度をしてまいります」
口ではうまく説明できないと考えたのでしょう。雪絵はそっと奥へさがりました。
「不躾ですが、母上のものを使わせていただきます」
雪絵はお茂が裂いた腰巻を着物の上に巻いて現れました。
「雪絵! あんた何を! いやだよぅ、なんてことするのさ」
細身の雪絵ですらかろうじて合わせが重なるほどに短くなった腰巻です。裂いた後のほつれも残ったままです。またしてもお茂の顔がカーッなりました。
「まず、どちらか旅人の役になってください」
「このように腰掛けて客を待ち、お客があれば裾を裂くのです。このように」
雪絵は、裾ぎりぎりのところを横に裂きました。ものの五寸も裂いたでしょうか、それを千切りました。それを鼻緒に括りつけます。たしかにお茂が想像したのとは全く違うことでした。しかし、誰がそれをするのか考えねばなりません。お茂は身重なので前に屈むことができなくなっています。かといって雪絵はまだ娘。しかも侍の娘なのです。とてもそんなことはさせられません。
「雪絵! 男ってのはね、ろくでもない生き物なんだよ。そんなことしたらただじゃすまないよ」
お茂はなんとか諦めさせようとしました。でも、雪絵は平気な顔をしています。
「ですから、父上の仕事場でやればよろしいかと。なにせ、隣は検番ですから」
「けどさぁ、お腰をおまじないにするのだろう? お祓い受けて? じゃあさ、いちいちお祓い受けるのかい?」
「いえ、何枚も重ね着してお祓いを受ければ、身につけたものすべての穢れは祓われると……」
「なんだって? そんな屁理屈が通るのかぃ? 」
考えてみれば、旅の遊びとして客がつくかもしれません。害になることでもないし、商いの仕入れも必要ありません。案外すてたものではないとも思ったのです。
坂崎様に相談してみよう。お茂はふっとそう思いました。
足朝、お茂は雪絵を連れて坂崎様を訪ねました。雪絵から聞いたことを伝えて意見を求めたのですが、可でも不可でもなく難しい顔をしているだけです。
「うーむ、いくら思案しても合点がまいらぬ。もっと要領よく説明できぬか?」
ようやく口を開いたとおもえば、意味が通じていないということでした。
「では実際にお目にかけましょう。そうすれば一番納得していただけますので」
お茂は、坂崎様を上がり框に腰掛けさせ、雪絵を座らせました。
「雪絵、やってごらん」
軽く会釈をした雪絵が着物の裾に手をしのばせました。と、チーッ、ビリッ。雪絵は赤い布を持っています。それを坂崎様の鼻緒に括りつけました。そして会釈。
ただそれだけでした。
「なるほど……。こういうことであるか……。で? これはお祓いを受けたものだと?」
「いえ、今のはお祓いを受けておりませぬ。父上の手当てに母上が使われたものでございます」
「そうか、語り草になっておる例のあれだな? まあ、そんなことはよいが、女房殿は何を按じておるのかな?」
「ですから、このようなことが人の道に適うかと……」
「どこか不都合か?」
「いえ、そのぅ、足元を晒すことになりますので」
「何を申す。なにも着物をまくるわけではあるまい。いや、よいではないか。道中の無事を祈ってやるのだからな、これはよい思案だ」
「しかし、男というのは助平なので……」
「なに、喜助の仕事場でするがよい。役人に見張られているようなものだ、心配などなにもない」
坂崎様が愉快そうに声を上げて笑いました。雪絵を見つめて何度も頷いています。
「雪絵……殿と申したな。確か山……」
「山脇源三が娘、雪絵にございます。縁あって父上、母上という掛かり親を賜わりました」
「そうそう、したが、武士の娘がこのようなことを……。いや、すまん。嗤うておるのではないぞ。感心しておるのだ。これが旅人にとって何よりの慰めになるやもしれぬ。いや、よいことを思いついたものだ。で? 名をつけたのか? 名無しでは商いにならぬでな」
「はい、まじない結びはどうかとぞんじます」
「まじない結び。ふむ、よい名だ。しっかり励むがよい。ときに、歳はいくつかな?」
「十四になりました」
「おぉそうか。なればあと三年ほどすれば嫁入りせねばのう。よい、こころがけておこう」
まさかと思いながら相談した坂崎様が賛成してくれました。とすれば、どうせ出費がないのなら早速ためしてみようということになりました。
[竹さいく きすけ]
喜助の作業場、戸口にへたくそな字が躍っています。その反対側に新しい紙が貼り付けられました。
]道中ご無事に まぢない結び]
思い立ってすぐですから幟を作る間がありません。でも、ここは船着場の正面。ほぼすべての旅人が必ず通るところでした。
「じゃあ開けるよ。私は客引きをするからさ、なるべく伊勢講をつかまえるからね」
「母上、風が冷とうございますから、無理なさらず」
「なに、風が当たらないから平気だよ。おっと、来たよ、ひのふの……、十人はいるよ。つかまえてくるから、まかしときな」
声高に話しながら歩をゆるめる一団がありました。まだ十分桑名に行くことができる頃合いです。お茂は愛想笑いをうかべると一団の少し手前まで行き、丁寧に頭を下げました。沖合いはるかに桑名をめざす船が浮いているだけで、次の船までにはまだずいぶんな余裕があります。
「お客さん、伊勢参りですか? まだ日が高いから今日は桑名で? そうですか。あいにく船が出たばかりなんですよ、お気の毒に……。ところでね、道中まじないがあるんですが、どうです?」
昼日中ですから如何わしい客引きとは思わないでしょうが、それにしても突然の声賭けに旅人は怪訝な表情をうかべました。ですが、こういうことはお茂の独壇場です。なんのかんのと気を引いて、連れ込むだけ。しかも検番の隣ですから旅人は安心して誘いにのりました。
「なんだい? いってぇどんなまじないをしようってんだぃ?」
元気盛りの一人が興味を示しました。
「熱田の宮でお祓いを受けた布でまじないをいたします」
縁台の脇には雪絵が控えています。年端のゆかぬ娘なのですが幼すぎず、そのくせ凜としたところのある娘です。武家娘然とした言葉遣いも堂に入っています。
「あつた? なんだぃそれ?」
「熱田の宮にお祀りされているのは、伊勢の神様の弟にあたります。ですからご利益はもう……」
「ほうぅ、そんなこたぁ初耳だ。まぁいいや、いくらなんだい?」
「はい、四文でございます」
「四文? なんでぇ、安いじゃねぇか。ならやってもらうか、ものはためしだ」
四文といえば、茶店で団子を食べることもできないような額です。法外なものを要求されるような不安もなさそうでした。
旅人を縁台に腰掛けさせて、その前に雪絵がちょんと腰を下ろしました。立て膝です。しばらく手を握り締めて恥ずかしそうにしていた雪絵ですが、意を決したかのように裾を少しまくりました。
旅人が驚いてその仕草を見つめています。雪絵は、わずかに覗いた緋色の布を指で裂きました。
チーッ、ビリッ。
五寸ほどの長さの布を旅人の草鞋に括り付けます。その間、旅人は目をまん丸にして固まっていました。
「これで道中ご無事でございますよ」
雪絵は腰掛けたまま微笑みました。
「おぅ、俺もやっちくれ」
「俺もだ」
「馬鹿、俺が先だ!」
何が起きるのかと見ていた者が、次々に名乗りを上げました。
どういうことが起きたのか、後ろで見守っていた者には詳しいことがわかりません。しかし、草鞋に括られた布が何であるかは容易に想像できました。想像を裏付けるのは、チーッという音です。誰も彼も、矢も盾もたまらなくなっていました。
最初の客は得意そうに船着場へ歩き出しました。それも、見せびらかすようにです。当然、それに気付く者がいます。次から次へと広まって、作業場の前は人だかりができています。
出船があれば、入船もあります。そうすると新たな鴨が……客が雪絵の前に列をなしました。
結局、そうして旅人が疎らになるまで人に揉まれ続けたのです。
「母上! 鳥目がすごいことになっております!」
物静かな雪絵が興奮しています。お茂にしてから日に五百文が一番の稼ぎでした。それよりはるかに多い銭が集まっているのです。
手拭いでは包みきれないほどの量で、丈夫な竹篭でさえ、底から持たねば抜けそうな目方がありました。
興奮したのは雪絵だけではありません。お茂は体が震えるのを抑えられなかったのです。声など出ません。ただただ目の前の事実に驚いていました。
鼻緒屋へ帰って、旅人の食事をつくりました。自分も夕食を食べました。それはわかっています。でも、何をつくったか、どんな味だったかまったく覚えていません。ましてや何杯食べたかすら覚えていません。お茂にとってそれほどの驚きだったのです。
食事を終えると、障子をぴしりと閉め切りました。そして、三人で数を数えたのです。
「九百八十、九百九十、千……」
雪絵が積み上げた数を読み上げていました。
「千……、せ、千……」
お茂は喜助と目を見合わせていました。その間も読み上げる声が続きます。
「千百二十……と四……」
お茂はただ喜助と見交わすだけでした。
「母上! 母上のお働きなくば、斯様な鳥目は集まらなんだは明白。ご苦労様でした」
雪絵が満面の笑みで頭を下げました。
「い、いや、雪絵が稼いだんだよ。雪絵が思いついたからこうなったんだ。それは間違いないからね。……だけど、夢みたいだよ。たった半日でこれだからね、丸一日やったらどうなるんだろうね。それを考えると怖くなるよ」
今夜ばかりは、気楽な喜助でさえ神妙な顔を崩しません。お茂も同様に何から手をつければよいか考えられないのです。
「母上、丈夫な糸をください。まずは括っておきましょう」
冷静なのは雪絵でした。きっちり五百枚を一括りにし、残った五百文ほどを盆に載せました。
「ここは素性の知れない人が出入りします。誰にもわからぬところに隠してください」
布袋に入れた千枚をお茂に押しやりました。
「これは次の腰巻を求めるのに使いましょう」
同じように盆を滑らせました。
伊吹おろしが間遠になれば
水も温むし花も咲く
旅ゆく人の声賑やかに
白帆の波の七里なり
巡り来たりし尚武のまつり
今年はひときわめでたかれ
大瀬子に山車が牽き出されています。毎年決まって鼻緒屋の目の前がお旅所。山車の上で祭り囃子が賑やかなのも同じです。当然、そこに詰める顔ぶれも恒例の顔ぶれ。蚊に刺される足をペチペチ叩きながら話に興じているのです。ですが、今年の話題はもっぱら雪絵の考えたまじない結びのことばかりでした。
春まだ遠い如月に店開きしたまじない結び。陽気にともない増える旅人に大受けで、雪絵は毎日腰巻を新調しなければならないほどでした。旅人の中には物好きもいて、家へ帰り着くまで大事に結び直した者さえいたようです。伊勢を目指す旅人が赤い布を括りつけた草鞋に気付きます。旅を進めるにつれ赤い布が多くなり、たまたま茶店で同席した人に訊ねます。
じつはこうこうでと謂れをきくものですから、お茂が客を引かなくても集まってくるのです。ことに渡し舟に乗る者は争うように求めてゆきました。
二百人からの客で体が震えたお茂も、毎日増える客に慣れてしまい、四百人にもなろうかという客でさえ驚かなくなっていました。とはいえ、お茂の腹ははちきれんばかりに迫出し、すいずん下がっています。客引きなどを考える場合ではありません。ですから最近は雪絵だけで店を開けるようになっていました。
「きー公、きー公どこだ? いねぇのか?」
昌吉が息せき切ってお旅所へ顔を出しました。
「昌吉か? ここにいるぞ。どうだ、気付けに一杯やらねぇか?」
縁台で片膝組んで酒を注ぎあっていた喜助が応じました。
「馬鹿! お茂が産気づいたんだよ! 早く帰ってやれ!」
「昌吉、おまえは本当に慌て者だなぁ。産気づいたってすぐに産まれるわけじゃねぇ。一杯くらい飲め。あわてると大恥かくぞ」
町名主が応じました。
「爺様、そんなこと言ったのがわかったら、あとで恨まれるぞ。お茂ってのは執念深いんだからな」
「だからお前たちはなさけないんだ。気甲斐性ってやつを持て! 女ってのはなぁ、初めにガツンとやらにゃいかん。すぐにつけあがるからな」
肝心の喜助をそっちのけにして勝手な応酬が始まりました。ただ、産気づいたと聞いた以上、喜助の我侭など付け入る隙はありません。手にした湯呑みを縁台に置いて、喜助は勢いよく立ち上がりました。
なんだかだと理屈を捏ねていた町名主にしたところで、物も言わず雑踏にむかう喜助を満足げに眺めていました。