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野辺送り

 野辺送り


 先にも紹介致しましたが、尚武祭は菖蒲祭と書き換えられるように、梅雨のはしりのお祭りでございます。ジケジケした雨空を呼び込むようなお祭りでございますが、お百姓にとってみれば、恵みの雨をもたらしてくれるお祭りともいえましょう。

 殊にこの年は長雨でございました。多くの旅人に踏み固められた熱田宿とはいえ、方々に大きな水溜りができておりました。熱田宿より二つ江戸寄りに池鯉鮒(ちりう)という宿がございますが、読んで字のごとく、池やら沼地が多い土地でございます。長雨のおかげで旅人も難渋されることでしょうが、それにしては目立って旅人が減るわけではございません。むしろ真夏を避けるかのように、茶色の合羽が行列をなしていました。

 おかげで客引きの稼ぎもそこそこありました。都合が良いことに、雪絵が賄いやら風呂焚きを手伝ってくれますので、かえって稼ぎが良かったくらいでございました。

 そうはいっても、お茂が世話をする旅人は毎日必ずいます。それも佐屋街道からの旅人ばかりでございました。

 鼻緒屋を頼るのは、路銀を失った者ばかりです。ただ、時期が悪い。

 寒さも身に堪えますが、暑さはなお堪えます。むしろ蒸し暑い今の時期が最も厳しのかもしれません。


 山脇親子はあれからすぐに立ち去ろうとしました。ですが、喜助は無理にでも引き留めるようお茂に頼んでいました。というのも、医者から思わしくないことを言われていたからです。

 山脇は、妻は持病で死んだと語っていました。ですが、山脇自身が重い、いや、重篤な病に侵されていたのです。山脇自身それに気付いてはいるのでしょう。ただ、今日の飯に困っている身ですから、医者にかかることなどできません。仮に手当ての方法があったとしても、懐具合がそれを許しません。手元不如意であるがゆえに、命を削っているのでございました。一方で、侍の矜持を捨てきれないのでしょう、他人の世話になり続けることに抵抗があるようです。

 山脇が遠慮しているくらいお茂も察しています。ですが、無一文の上に重い病を患っている親子を、どうして放り出すような真似ができましょうか。山脇が面目を気にすればするほど、お茂は意地になって引きとめていたのです。


「きー公、山脇さんをどうにかしてよ、出て行くってきかないんだから」

 珍しく昼日中に顔をのぞかせた気助に、お茂はついぞ愚痴こぼしでございます。をしました。

「またか……、意地っ張りな侍だなぁ。旅ができるような体じゃないのによ」

「そうだよぅ。お足だって空ッ欠なのにさ、なんで強情張るんだろうねぇ。苛々してくるよ」

 お茂は言いながら片足を三和土に打ちつけてみせました。

 あれやらこれやら、その日の出来事を寝物語にして二人の一日が終わる。深い仲になってかれこれ半年。尚武祭りの宵宮まではそんな穏やかな日々でございました。一日も欠かさぬ営みだったのでございます。ところがこの二タ月というもの、こんな愚痴を言わないで終わる日などありません。元を糺せば、喜助が山脇親子を連れ込んだからだ。決して本心ではありませんが、お茂はそう恨み言をぶつけたりして気を鎮めてきたのでした。そんな時、喜助は決まって床にお茂を引き込みましたが、今は真ッ昼間。二人の仲が世間に知れ渡ってとはいえ、店先でイチャイチャするわけにはいきません。


「おっと、忘れるところだった。わずかだが、山脇さんの食い扶持だ。足りなかったら言ってくれ、都合つけるから」

 実際、喜助は親子を連れ込んだだけで、一切の世話はお茂に任せきりです。毎日のように愚痴を聞くだけのことです。だから、せめてもの罪滅ぼしだったのでしょう。


「きー公、食い扶持って、誰に貰ったんだぃ? お役人なんて、ろくにお手当てなんかくれないんだろぅ? 竹屋だってそんなに儲かるものでもなさそうだし……」

 ひょいと手の平に載せられた紙包み。ほんに小さなもので、饅頭の半分もありません。大きさといい重さといい、まるでウズラの卵を包んで上を捻ったようなものです。食い扶持だと言ったことからすると銭なのでしょう。

 中を検めてみますと、白銀の小粒が入っております。一の二の三……数えてみますと一分銀が五枚で一両と一分。喜助が持つにしてはずいぶんな額です。竹細工なんかで稼ぐには多すぎるし、御用聞きの報酬などということはありえません。お茂はポカンとして喜助の顔を見たのでございます。


「それか? そりゃあなんだ、あちこちの旅籠に事情を話してな、気持ちよく出してもらったんだ。何も心配するような金じゃねぇよ」

 都合が悪いのか、眼を忙しなく彷徨わせる喜助。その様子に、お茂の顔色がすうっと青ざめます。

「もらった? きー公、まさか乞食みたいな真似してはいないだろうね。ま、まさか、地回りの真似事なんかしていないだろうね!」

 柳眉を逆立てると申しますが、このときのお茂は眉をこれでもかというくらい逆立てていました。

「当たり前ぇじゃねぇか、そこまで落ちぶれちゃぁいねぇ」

 威勢よく言い切ったとはいえ、まともにお茂の目を見ようとはいたしません。

 般若のような形相をしたお茂は、つと手をのばして喜助の耳を捻りあげ、二度ほど深く息を吸って口を開きました。


「もう一回聞く。私の目を見て答えるんだよ。……疾しいことはしていないんだね?」

「してねぇって。ただよ、ちょっと泣きついただけだ」


「ばか!」

 お茂は、咄嗟に喜助の頬を張り飛ばしていました。


「なにするんだよ! 痛ぇなぁ。落ち着いて考えろ、お茂。なんだかんだ言ったところで半分は踏み倒されてる。それに、素泊まりだから儲けなんて微々たるもんだ。その儲けだって、飯代に足りねぇんだろ? 本当なら他の旅籠もかぶらにゃならん損のはずだ。なにもお前一人が背負いこむことじゃねぇ。いや、背負いこんじゃいけねぇんだよ。全部の旅籠が僅かづつでも出し合うのが筋じゃないのか? だから、その分を少し……」

「ばかっ! それが嫌なら店なんか開けないよ! あんたが教えたんだよ、ちゃんと真心をわかってくれる人がいるってことを……。あんなに想いのこもった礼を言われることを……」

 どうしてもっと稼げと言わない。どうして金がかからない方法を相談しない。あまりにも水臭いじゃないか。こみ上げてくる想いが大きな塊となって、恨み言すら絞り出すことができないようです。

「そりゃぁそうだけど、だからってお前ばかりが損しちゃあだめだ。そんなことしてたら、それこそ店をたたむことになっちまう。違うかぃ?」

「だからってねぇ……、私にだって誇りってもんがあるんだ!」

 胸の中で渦巻いていた塊が一つに合わさり、一気に口を衝いて飛び出しました。それと同時に、渡された金包みを通りに投げ捨ててしまいました。真夏のこと、戸はすべて開け放たれています。強い陽射しを跳ね返して、中身がキラキラと散らばりました。

「かえれ! いいから帰れ! なんだい、人の気も知らないで……。さあ、さっさと帰れ!」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、お茂は金切り声を上げています。そして懇親の力をふりしぼって喜助を表へ押し出そうとしました。

 言葉を失ってすごすごと表へ出た喜助は、しょんぼりとして飛び散った銭を拾い集めました。頭を下げてかき集めてきた銭でしょう。自分を喜ばせよう、安心させようと、お世辞をならべてかき集めた銭でしょう。しかしお茂にとっては、銭集めに走り回るよりも、自分に相談してほしかったのです。銭をもらったばっかりに頭が上がらなくなってしまう。そんな男になってほしくはないとお茂は心底思いました。


 その夜、とうとう喜助は現れませんでした。翌朝も、その夜も……。



 鼻緒屋から喜助の姿が消えて十日ほどたちました。

「ごめんなさいよ、どなたかいませんか?」

 店先で案内を請う声がしました。歳の頃なら二十と五か六、うす汚れてはいるけれど案外こざっぱりした身なりの旅人です。


「おいでなさい、なんでしょうかね?」

 お茂はその旅人に違和感を感じていました。たとえば、同じ船には絶対に乗り合わせたくないような、いくら施しをするといっても、決して貰いたくはないような……。


「実は、弥富で盗賊にやられてしまって、ここなら後払いで泊めてもらえると聞きましてね」

 弱ったように見せかけていますが、それにしては口調が滑らかです。


「あれまぁ、弥富でですか……。いったいいつ?」

 盗賊に奪われた人ばかりが集まる旅籠ではありますが、それは検番からの口添えによるもので、自分から店先に願い出る人など初めてです。ここにも後ろ暗いものを感じたのです。体よく断ろうと考えながらお茂は相槌をうちました。


「はい、昨日の昼前に弥富に上がったのですが、そのすぐあとで……」

 その答え方も気に入りません。まるで商人が強引に品を薦めるような話し方です。更にいえば弥富から熱田までならせいぜい三里の道のり、いくら気落ちしたといっても夜までには熱田まで来れるはずです。見たところ足腰も達者な様子。もしかすると誰から店のことを聞きつけて、文無しで寝泊りする魂胆ではないか。客引きで鍛えた勘がはたらきました。


「そりゃあ大変でしたねぇ。ゆうべはどうしたのですか?」

「百姓家がありましたのでね、納屋の裏で野宿しました」

 その科白が決定的でした。というのも、野宿をしたというなら泥やクソがこびりついていて当たり前。こんなに身綺麗なはずがないからです。

「あれまぁ……。食べることは?」

「だから、昨日の昼から何も……」

「そうですか、それはお困りでしょう。ところで、うちのことをどこで? いえね、一旦は看板を下ろしましたのでねえ、頼まれて店を開けているだけで、振りのお客を引くこともしておりませんのでね。そもそも鼻緒屋ですから……」

「そうなんですか? ここなら泊めてもらえると……」

 誰から教えてもらったかを答えるでもなく、旅人はなんだか話を誤魔化そうとしました。

「そりゃあ、困った旅人をお世話しますが、それを頼みにくるのはお役人ですからねぇ。直におこしになるというのは初めてで……」

 なんとか口実をつくってでも関わりたくない相手でした。見た目だけではなく、話すにつれ拒もうとする気持が強くなります。着物の汚れは一般の旅人と大差ありません。髷はきれいに結われています。草鞋なんかは減りが早く、じきに踵のところが薄くなって千切れてしまうのに、そんな様子もありません。それに、声に力がありました。


「お役人を通さないと泊めてはもらえないと?」

「そういうわけではないけど……。わかりました、一晩だけお泊めしましょう。ですが、後払いをいいことに踏み倒されることが多くて、それで……、というわけではないですが、いくつかお答えしていただきます。いえ、これが決まりになっていますので……」


 お茂は、さりげなく帳場に座り、筆をとりました。さらさらと何行か書いて端を折ると、可愛らしい舌で湿り気を与えます。濡らしたところから切り離してくるくる丸め、台の上でそっと押さえました。

「雪絵さん、ちょっと使いをお願い。船着場の前に竹細工屋があるから、喜助さんにこれを。注文した篭ができているはずだからもらってきてよ」

 所在無げに土間の掃き掃除を始めた雪絵に今書いたばかりの文を持たせ、旅人に向かい合いました。


「すみませんね、早くしないと竹屋が閉まってしまうのでね。ではお訊ねしますが、道中手形は? あぁ、巾着といっしょに奪われた……。それはお困りですね。ですが、こうして書き留めたものを検番に差し出せば、優先して仮の手形をこさえてくれますからね」

 お茂は、半紙を一枚取り出すと、筆を湿らせました。

「なんか、面倒なんですね。ただ単に泊めてもらえるのではないのですか?」

 旅人は少し苛ついた様子をみせました。

「以前はそうしていたのですよ。でもねぇ、せっかくの好意を踏みにじる人が多くて、しかたなしにこうさせてもらっているのです。それに、こうして書付をこさえておくと、仮の手形をいただくときに路銀を貸してもらえるのですよ」

 それとなく路銀を貸してくれることをにおわせて、名前を訊ねました。


「武平といいます」

「ぶへいさん、とっ。生国はどちらで?」

「近江」

「おや、偶然ですね。私も近江の生まれなんですよ。久しぶりに近江訛りを聞かせてもらえるのですね。それで、近江のどちらですか?」

「……長浜で」

「あらぁ、長浜ですか? 私、木之本で生まれたんですよ。奉公でこっちに来ましてね、そのまま縁づいて。なつかしいわぁ」

 客引きを始めたおかげで、お茂にはもっともらしく言い抜ける話術が身に付いています。普通なら、生まれにせよ方言にせよ、何某の縁があれば親近感が湧くものです。しかしこの旅人は、あからさまに眉をひそめました。


「住んでいるのは、生まれた所と同じで? えぇっと、生まれは何齢ですね?」

「……かのえ、うま……」

 何食わぬ顔で住まいを書きつけ、筆をしめらせながら訊ねると、旅人の口が重くなりました。


「庚午……。ちょいとお客さん、いくつにおなりですね? 見たとこ二十歳過ぎて何年もたっていないようですが」

「……」

「まぁ、歳はいいとして、あとは……」

 お茂は、書付を調べるふりをしながら時間稼ぎをしていました。庚午というのは、自分の生まれた年。自分と旅人が同い年だなんて、馬鹿馬鹿しい嘘です。きっと名前も生国も出鱈目なのでしょう。では次を訊ねたらどう出るか、怖くもあり、面白くもありましたた。


「では……、行き先と用件を……」

「あきな……し、仕入れで……あ、有松まで」

「商いの仕入れで有松まで行きなさると、なるほど……。お客さん、有松だったら二里かそこいら先です。今のうちに発てば夜までには着けますよ」

「いや、……は、腹が減って」

「なんだ! それならそうと言えばいいのに。安くて旨い飯屋がありますからね、すぐ連れて行ってあげますよ」

「だから、その飯代がねぇんだよ!」

 お茂もタヌキでございますな。次の有松宿まで行くと聞いたとたんに厄介払いを始めました。盗賊に奪われたと承知しているはずなのに、自前で食べてくれと突き放します。その手の平反しがあからさまでしたので、旅人の口調が険しくなりました。

「あぁ、そうでした、路銀を奪われたのでしたね。だったら、検番で路銀を借りればいい。どっちにしても仮の手形を作ってもらわねばいけないですから、申し出れば都合してくれます。それに、うちは素泊まりですから。皆さん、そうやって路銀を借りて食べてもらってます。そうそう、請け寺は何というお寺ですか?」

 うっかりしていたとばかりに相槌をうち、検番で借りられることを教えてやります。そのためにも必要なことを聞き書きせねば。あらためて筆を湿らせると請け寺の名を訊ねたのです。どこのどんな寺で、宗旨は何かということも必ず訊ねられることですし、こうして聞き書きを作っておけば手続きが簡単に済むのも事実です。ところが、あまりに根掘り葉掘り訊ねるものですから旅人が苛立ってしまいました。

「なんでぇ! いちいち小うるさいこと言いやがって、ただ一晩泊めてくれって言ってるだけじゃねぇか! どうして小うるさいこと言われなきゃいけねぇんだよ!」

「そんなに声を荒げないで……。何度も言いましたよ、詳しいことをうかがってからでなけりゃってね。お上からの決まり事ですし、こっちも商いですからねぇ」

「だからどうなんでぇ! 泊めるのか泊めねぇのか、はっきりしろい!」

 昨日から何も食べていないとは思えぬような声が響き渡りました。


「ですからね、こっちは好意でお泊めするんですから、ある程度のことは聞かせていただかないと。……それがお嫌なら、よその旅籠へ行っていただいてかまいませんよ」

「なんだとぉ? こっちは困ってるって言ってるだろうが!」

「困ったお人がそんな口ききますか? こっちだって、お上からの決まり事をおろそかにして後々お咎めを受けるのは勘弁してもらいたいですから。気に入らないならかまいません。遠慮しなくていいから、さっ、よそへ行ってくださいな。それだけの声が出るんだ、まだ二日やそこいらは食べなくっても大丈夫。うちに来るお客は、声すら出ないお人ばかりでしてね」


 帳場の声が大きかったのでしょう、山脇が刀を提げて出てきました。

「騒々しいが、なんとしたことかの?」

 刀を持ってはいても一歩ごとに足をよろめかせていることがわかると、始めこそ怯む様子そみせましたが、すぐに横柄になりました。


「ここは困った旅人を泊めてくれるって聞いてきたんだが、御託ばっかり並べやがって泊めようとしねぇのよ!」

「左様か。仔細は間違いござらぬか?」

 山脇は、旅人の言い分をお茂に確かめました。

「いえね、道中手形を奪われたそうだから、まずは名前を訊ねて、生国や生まれ年を訊ねましたよ。ところが、生まれ年を聞いたら全部大嘘だってわかったのですよ」

「どういうことかな?」

「庚午の生まれだそうですが、庚午は私の生まれ年なんです。どうみても三十すぎには見えません。あげくに、請け寺のことを訊ねたら声を大きくしましてねぇ。この元気です。有松へ行くそうだけど、今からでも夜までには着きます。なにも無理して熱田で泊まらなくたって」 

「なるほど、左様なればお茂殿に理がある。何を思うてかは問わぬゆえ、早々に立ち去るがよい」

「けっ、病人が何こきやがる。すっこんでねぇと痛ぇめ見るぜ」


「聞きわけがないか。ならば、かなわぬまでも相手致そう。断っておくが、拙者、帳簿つけばかりしておったゆえ腕におぼえなどない。よって峰打ちなどまったくできぬ。それだけは申しておく」

 山脇が一歩踏み出し、腰に刀をゆっくり挿しました。


「ちょっと待ちゃぁ! 店先で刃傷沙汰は迷惑だ。あとは俺が引き受けるから心配いらねぇよ」

 暖簾を分けて喜助が姿を現しました。


「外で聞いてたんだがよぅ、お前ぇ、いってぇ何者だ? 目当てはなんだ?」

 鼻を突き合わせるほどの距離で、喜助と旅人が対峙しました。


「誰でぇ、手前ぇ」

「俺か? 俺はここの亭主だが、何か文句あるか?」

「亭主?」

「おうょ、亭主の喜助だ。世間じゃあ御用聞きの喜助とも呼ばれてるがな」


「そうか、なら話が早ぇや。道中で盗賊に奪われて文無しなんだ、泊めてくれんだろう?」

「だめだ。ほかを当たりな」

 木で鼻を括るような返事でございます。しかも即答です。

「どうしてだめなんだ」

「嘘つく奴はだめだ。それに、光物を呑んでるような奴は絶対にだめだ」

 喜助は相手の目をじっと見つめたまま、ポンポンと探るように相手の懐を叩きました。そして無造作に手を差し入れました。

 旅人の懐を軽く叩くと、相手の懐に腕を挿し込みました。


「ほら、こういうこった……。これは奪われなかったんだな。まぁ、手前ぇの行いを恨むこった」

 冷たい目で相手を見据えた喜助は、掴み出した匕首を土間に放り捨てました。


「くそぅ、おぼえてやがれ!」

 悔しそうに捨て台詞を吐いた旅人が外に出ました。

「どけっ! 見世物じゃねえっ!」

 騒ぎを聞きつけた者が取り巻く中、悪態をつきながら去って行きます。

 喜助はその行方を確かめるべく、外に出てきょろきょろ見回していました。


 そのまま残ってくれるとばかり思っていたお茂は、慌てて喜助を追って外に出、喜助の後ろからそっと袖を掴んのです。

「きー公……」

 お茂は、一気に緊張が解けてしまいました。しかも、気まずい関係になりつつあった喜助が、当たり前のようにとんできてくれたことが嬉しかったのです。

 ぶすっとした喜助は、懐から紙を出すとお茂に突き出しました。

 ーーきすけ たすけてーー。それは、雪絵に持たせたお茂の悲鳴でした。


「……きー公」

 握る手に力がこもりました。娘に戻ったかのように、甘えた声になっています。

「莫ぁ迦」

 ニカッと笑みをこぼした喜助が旅人の後を追う素振りをみせます。

「寄っていかない?」

 全てを言うことができず、お茂は不安そうな表情をみせていました。

「そうしたいがなぁ、奴を見張らねぇと……。きっと何か企んでやがる」

「今夜は?」

「家を空けるわけにゃいかねぇ。何かあったら使いを寄越せ、すぐに来るからよ」

 掴んだ手をそっと外し、喜助は背伸びを繰り返しながら足早に旅人を追いました。


「きー公、きー公いないの?」

 家を空けられないと言っていた喜助のために、お茂はあり合せの食事を配んできたのです。

 開けっ放しの仕事場には人影がありません。部屋と仕事場の仕切りも開いたまま。一目で誰もいないことがわかります。厠だろうかと、お茂は待つことにしました。ところが、ずいぶん待ったのに喜助は戻ってきません。

 諦めたお茂は食事を箱膳に盛り付け、布巾代わりに手ぬぐいを掛けて帰ることにしました。


 喜助の仕事場の正面には常夜灯があります。そしてその脇には時鐘櫓が建っています。そこからいくらも行くかないうちに、もう船着場でした。

 今夜は糸をひいたような月でございますが、僅かな月明かりが波にキラキラしております。旅籠が建ち並ぶ一角から離れておりますので、闇に沈んでいるといってもよさそうですが、淡い月明かりだけでも足元がぼぉっと明るいもの。特に不安を感じることはありません。なんと言って謝ろうか、そればかりをお茂は考えていたのに、どうやら一人でやきもきしていたようです。

 ……馬鹿だねぇ、私。お茂は娘に戻ったように照れていました。


 言い争うような声が流れてきました。あまりに微かで何を言ったのか定かではございませんが、穏やかな様子でないことは確かです。


「……あっ、野郎、待ちやがれ!」

 今度ははっきり聞こえました。ちょっと甲高い声ですが、聞き覚えがあります。

「きー公! きー公!」


「野郎、待たねぇか! ……アッ……」

 喜助の声に違いありません。誰かと言い争っているようでしたが、短い悲鳴を一つ残したきり、ふっつり途絶えてしまいました。


「きー公! ねぇきー公! どこなの? だいじょうぶ?」

 お茂は心配でたまらず、何度も何度も喜助を呼びました。そして、時鐘櫓の陰から現れた喜助を見つけたのです。


 常夜灯の灯りに人形の影がしみ出たのです。それが誰かを見分けるには、常夜灯がかえって邪魔というもの。どうしても明るい方に目が吸い寄せられて、暗がりに目が追いつきません。誰だか見分けるまでは迂闊に近寄ることもできず、お茂は、手で明かりを遮るようにして影を見つめました。

 櫓にもたれているのは、どうやら喜助のようです。そして、左の腕をおさえてじっとしています。駆け寄ったお茂は、顔を歪める喜助に驚きました。


「きー公、大丈夫? 怪我してない?」

 顔を歪める喜助を見て、どういうわけかお茂は鼻の奥がツーンとなりました。その表情でただごとでないことを察すると、妙に腹が据わってきたのです。

 ぼんやりした灯りを頼りに腕を見ると、だらんと垂れた指先からポタポタ何かが落ちています。はっとして触れてみると、ヌルヌルしたものが指にまとわりつきました。

「きー公、怪我したね?」

 何かで傷口を縛ろうとしてお茂は困りました。適当な布がないのです。


 お茂は咄嗟に裾をまくりました。そして、腰巻に手をかけると、指先に力をこめました。

 ブッブッブッツ。腰のところで糸が千切れ、チィーッ……っと布が裂ける音がしました。


 裂いた布で、肩口をきつく縛りました。こうすれば血が止まることをお茂は子供の頃に習っておりました。


「我慢するんだよ」

 お茂は囁きながら、おさえている喜助の手をのけさせました。

 チィーッ……。

 今度は、裂いた布を唾で濡らし、そっと傷口を拭います。


 チィーッ……。

 腕の、細い方から太い方にむけ、裂いた布を巻きつけてゆきます。足りなくなったらまたチィーッ。さらに巻いてまたチィーッ……。

 裂いて、裂いて、右にあるべき合わせが正面になり、ついには合わせがなくなって素肌が丸見えになっても、お茂はかまうことなく裂きました。

 何度チィーッという音をさせたか、お茂はそんなことを覚えてはいません。

 そんなもの、浴衣で隠れて人にわかるものではないから気にも留めていません。


「大丈夫だよきー公、こんなの怪我のうちに入らないよ……」

 傷を手当する間中、お茂は囁き続けました。喜助を元気付けるためではなく、己を鼓舞するため。黙ることが不安で仕方なかったのです。


「おい、ちょっとキツイぞ。もうちょっと優しく扱えよ」

 つぶれた蛙のような声で喜助が抗議します。クゥーっと息を詰めながら、しきりと咽の奥で呻いています。

「男だろ? こんくらいで泣き言かね。それが私のきー公かね。わあわあ泣いたって言いふらしてやろうか、体裁悪くて表に出られなくなるよ」

 勇ましいようですが、お茂は夢中です。怖いとか痛いなど、綺麗さっぱり忘れていたのです。常夜灯が暗くて、血の色がよく見えなかったことが幸いしたのかもしれませんね。喜助の手当。お茂の意識を支配していたのは、ただそれだけでした。


 一応の手当てをすませたお茂は喜助を鼻緒屋へ連れ帰ることにしたのですが、喜助は検番に報告せねばと首を横にしました。

 検番は喜助の仕事場の隣です。灯りこそ絶やさずに燈ってはいますが、人の気配はなく、どうも奥で休んでいたようでした。


 お茂が箱膳を抱えて検番をのぞくと、喜助が当番の役人に事情を説明しているところでした。

「あい判った。すぐに手配りいたす。まずは養生せよ」

 役人は、痛ましそうに喜助を労ってくれました。ここ何年もこのような乱暴騒ぎがおきていないのが熱田宿の自慢です。役人が声高に叫ぶまでなく、治安が保たれていたのです。気の荒い人夫や、街道を行き来するやくざ者が多いというのに、平穏に日々が過ぎていました。しかし、繁盛している宿場なら稼ぎになると企む盗賊がいてもおかしくはありません。嫌な世の中になったものです。


「すみませんが、きー公……、いえ、うちの人を鼻緒屋に連れ帰りますので、なにか御用がありましたら……」

 報告が一段落するのを見届けて、お茂は役人に言いました。

「おお、そうするがよい。恋女房の手当てに勝るものはあるまい」

 役人はそう言って快くお茂の申し出を受け入れてくれました。

「小出様ぁ、勘弁してくださいよ。からかわれたら傷が疼きます」

 そう反論する喜助だって、満更ではなさそうです。


 血まみれの袖を隠せずに歩いたものだから、喜助が怪我をしたことがすぐに知れ渡ってしまいました。泊り客も道中薬を持って集まってきます。

「すみません。ご心配かけましたが、それは皆さんの大切な道中薬です。なに、こんな傷くらいすぐに治りますから」

 泊り客の親切に応えながら、お茂は近所の者に必要なものを集めてもらっていました。


 喜助の幼馴染の昌吉も噂を聞きつけてとんできました。昌吉は、お茂が甲斐甲斐しく手当てするのを間近で見守っています。お茂の手際のよさにも感心すれば、喜助に寄せる心配りが細やかなことにも感心していました。

 お茂は子供の頃から男勝りでした。たびたび泣かされた昌吉にとって苦手な女です。正直にいうと、今でも苦手な部類なのです。喜助もお茂に泣かされた口ですが、その二人がこんなに細やかな情を交わしていることが不思議そうでした。その苦手意識のために、器量よしにもかかわらず、近在の男が嫁にしたがらなかったのも事実です。


「喜助よぅ、やけに色っぽい布を巻いてもらったなぁ。なんともご利益がありそうな……。なんなら拍手の一つも打ってやろうか?」

 包帯代わりの布を見て喜助に囁きました。それが何なのか、昌吉にはおよその見当がついています。

「昌吉! これは血の色なんだよ! 血が滲みて赤くなったんだ。おかしな想像されたら迷惑だよ!」

 瞬時にお茂は言い返しました。そ知らぬふりで布を解きながらも、お茂は赤い顔をしておどおどしています。

「ふぅん。俺ぁ、血ってのは黒くなると思ってたんだが、そうか、俺だけか?」

「そ、そうだよ。……お前は腹黒いってことさ。きー公は男気があるからねぇ、真っ赤で熱い血が流れてるんだ。よく覚えておくんだね!」

 応えながら、お茂は次々に布を解いていきました。ところどころ血の跡が薄くなっているのは、お茂が唾で拭ったところでしょう。貼り付いている最後の一巻きを解くとき、さすがに喜助は悲鳴をあげました。


 届けてもらった(よもぎ)を何枚か口に含んだお茂は、濡らした手拭いで腕全体を優しく拭きました。わずかに乾き始めていた瘡蓋が取れ、赤い血が流れてきます。

 クチャクチャ噛んでいた蓬を手に受けて傷口に貼りつけます。そしてまた蓬を口にしました。

 そうしてお茂は、二の腕の半分ほどもある傷口を蓬で覆い、真新しい晒でしっかり巻きました。


「お茂、お前ぇ、鮮やかなもんだなぁ。俺の嫁ぁだったら目ぇ回してるぞ。たいしたもんだ。やいっ! 喜助! お前ぇ、果報者だぞ」

 昌吉は腕組みをしながらしきりと唸っていました。


 手桶を片付けようとお茂が立ち上がったその瞬間です。目の前にいた昌吉が、いきなりお茂の裾を捲ってしまいました。昌吉としては自分の勘が当たっているか確かめたかっただけなのですが、無残に短くなった腰巻と、めいっぱい顕わになった太股が目の前に、皆が見ている前に顕れたのでびっくりし、手を離すことすら忘れていました。

 突然の出来事に驚いたお茂は、手桶を持っているので払いのけることもできません。ましてやそんな悪戯をされるなんて考えもしなかったので、びっくりして固まってしまいました。


「……こ、この、助平!」

 一瞬の呪縛が解けたお茂は、叫ぶなり手桶の水を昌吉にぶちまけました。それでも足りぬとばかり、手桶で昌吉を殴りつけます。いくら分厚いとはいえ、板が一枚外れるとわけなくばらばらになってしまいました。


「悪い! すまん! まさかここまでとは思わなかったから……」

 昌吉が詫びる声をも聞かず、お茂はタガだけを握り締めて寝間に逃げ込み、障子をピシャリと閉じました。

 恥ずかしいのはもちろんですが、本当の理由はそんなことではありません。

 ただただ夢中で手当てをしたのですが、ただの怪我ではありません。スカッと斬られたところから、黄色いブツブツや赤い肉が見えました。肩で括った紐を緩めるとドロッとした血が湧きあがってきました。かといって血止めをしたままでは腕が腐ってしまうかもしれません。とにかく傷口をふさぎ、血止めになるものを貼りつけることしかできなかった。

 夢中でし終えて、だんだん体が震えてきたのです。

 床にぺったりへたりこんだお茂は、ブルブルガタガタ震えていました。見なきゃよかったと後悔しながら。



 こんな日くらいはと、お茂は寝床を離して延べています。

 へたに寝返りをうって傷口が開きでもしたらどうしよう。傷が膿んだらどうしよう、腕が動かなくなったらどうしよう。悪いことばかりが胸をよぎり、気が休まりません。身は横にしていてもうつらうつらするだけ。喜助の呻き声ではっと飛び起きます。そして冷や汗を拭ってやるうちに朝を迎えたのでございました。


 それにしても、まったく、なんという厄日なのでしょう。妙な客が来たと思えば、喜助が酷い怪我を負いました。思いもかけず昌吉に、太股の付け根まで見られてしまいました。でも、喜助は助けを求めたらすぐに駆けつけてくれました。亭主だと言い放ってくれました。検番の小出様でさえ、お茂のことを喜助の恋女房と認めてくださっています。これが仮に、昌吉が怪我をしたのなら、お茂は腰巻を裂くようなことはしなかった。そんなことをしんみり考えていました。


 そんな出来事があって六日目、山脇さんが血を吐いたのです。それも泡混じりの、妙に鮮やかな血でした。急いでお医者を呼んだのですが、一通りの診察を済ませた医者は、薬を処方するとだけ言い残して帰ってしまいました。なんの病だともどのくらい重篤かも一切言わずにです。

 父親のときがそうでした。母親のときも弟のときも、お医者は気の毒そうな顔で帰ってゆきました。その表情がなにを意味するかぐらいピンときます。

 お医者には、怪我で休んでいる喜助が行ってくれることになったのですが、お茂は雪絵にも同行させることにしました。

 あんな血を吐く病といえば、労咳ではないかと誰しもが思うでしょう。しかも血の量が多いことが気がかりです。もしかすると命の灯火が消えかかっているのかもしれません。

 親一人娘一人、寄る辺なき旅の空。なればこそ、どんな辛いことを言われるにしても雪絵に聞かせなければいけないと思いました。

 二人が出かけた間に、お茂にはしておかねばならない用事がありました。



 人様の運命をどうこうする力など自分にあるわけがない。だけど、みすみす悪い巡り合せにはまったときは、誰だって足掻くものです。周囲もなにくれとなく手を貸そうとします。とはいえ、どうしても親や弟のことが頭をよぎるのです。ですが一方で、年端のいかない雪絵に残酷な仕打ちをしてしまった。なんと罪深い女なんだと自分を責めてもいました。

 井戸で何度も水を汲み、よく冷えたのを醤油注しに満たしたお茂、それを手にすると山脇さんの枕元へ行きました。

 発作そのものはお医者が駆けつけたときには治まっておりました。ですが、苦しそうに浅い息をしています。血を吐いたからでしょうか、唇から血の気が退いたままでございます。

 水差しを近づけると、すまぬと言っておいしそうに咽を鳴らしました。

「今、薬をもらいにやりましたからね、気をしっかり持ってくださいよ」

 励ます間に、山脇さんと父親が重なったような錯覚にお茂はとらわれていました。齢も違えば顔かたちも全く違います。病にしたって心の臓が弱っておりました。でも、最期を迎えることにおいてはなにも違うことなどありません。

「薬を呑んで養生すれば、きっとよくなりますよ」

 思ってもいないことを平気で言う自分。そして次の言葉を言うきっかけを探っている自分。まるで鉛でも呑み込んだかのように、次の言葉を出せずにいました。

「お茂殿、面倒なことを頼まれてはもらえぬか」

 沈黙を破ったのは山脇さんでした。

「好意を無にするようで心苦しいのだが、もう保たぬようだ。受けた恩義に報いることができぬのが口惜しい。せめて差し料を金子に変えて入用を賄ってもらいたい」

 そこで言葉を切って、呻きながら身を起こしました。

「心残りは雪絵のことだが、尼寺にでもあずけてもらえまいか」

「縁起でもないことを言うもんじゃありませんよ。養生して、元気になって旅立ってもらわねば困ります」

 咄嗟に言い返していました。頭がカァーッとなったものですから、喜助に言い返すように下町言葉むきだしです。

 いやしかしと山脇さんが言いかけるのを遮ってお茂は胸の内に渦巻いているものを吐き出したのです。

「あんたが死ぬのは運命ってもので諦めがつくかもしれません。諦めるよりしかたないでしょうよ。だけどね、残された者の気持ちを考えていますか」

「だからと申して、このような有様で何ができよう」

「勝手だねぇ。そうでしょう? なにが尼寺ですか。身寄りを亡くした者がどれだけ寂しい思いをするのか、あんた判っているのですか」

 お茂は、家族を失った後のことを語って聞かせました。喜助は子供の頃からそういう境遇だったことも聞かせました。そんな心細い思いをさせたくはない。もしそんなことになったら、雪絵を養女にすると言いました。そりゃあ、しがない木賃宿の女将だけれど、侍の身分は失わないように手を尽くしてみると。

 そんな迷惑をかけられぬと山脇さんはしぶっていましたが、結局はそれをのむしか方法がなかったようです。


 数刻後、医者から帰った喜助と雪絵を迎えたお茂は、どこかすっきりとした表情をしていました。

「雪絵さん、井戸に瓜が冷やしてあるから、お父様に食べさせておやり。それでねぇ、食べ終わったら、ちょっと部屋に来ておくれ」

 お医者はなんと言っていたのだと普通なら訊ねそうなものなのに、そういったことには一切触れようとしないお茂。こころもち顔色が白うございます。元が器量よしですから、なんだか凄みさえ感じさせます。そのお茂の顔つきや言葉に、喜助は戸惑ったようでした。


「父がお礼をと申しておりました」

 さすがに雪絵は武家娘、行儀よく礼を言ってから膝を進めました。

「あ? あ、あぁ、いいよ、そんなこと。それより、ちょっと座っておくれ。きー公、あんたもこっちに来ておくれ。この際だから大事な話をしておくよ」

 なるべく大仰にはしたくないと思いつつ、口が強張っているようにお茂は感じていました。

 こんなことじゃいけない、まるで通夜の稽古だ。落ち着かなければ。

 お茂は二人から目を逸らして瓜を手にしました。


「なんだよ。お茂が大事な話って、初めてだなぁ。まさか……、まさかお前、俺を追い出すつもりじゃないだろうな」

「莫ぁ迦、さっさと座って」

 どう切り出せば良いかなんぞ、まるきり名案が浮かんできません。お茂は仕方なく、皮を剥くふりをして考えました。

 皮を剥き終え、種を掻き出す頃には気が鎮まっていましたが、やっぱり切っ掛けが掴めません。

 でも、そうとばかり言ってはおれず、剥き終えた瓜を二人に勧めると伏し目がちにきりだしました。

「実はね、雪絵さんのことなんだけど……。断っとくけど、これは山脇さんも承知したことだからね」

 話を始めて気がきまったのでしょう、俯いていたお茂が正面から雪絵を見据えています。

「雪絵さん、気の毒だけど、山脇さんの寿命が尽きかけているのは覚悟してるよねぇ。今朝みたいに血を吐くなんて、ただ事じゃぁないよ。だから、山脇さんにはずっとここにいてもらう。だってそうだろ? あんな体で旅なんかできるもんか。それで、病が治ればよし、……もし山脇さんの寿命が尽きたら……。雪絵さん、あんたは私たちの子供にする。私はそう決めたよ」

 理屈のなんのという話ではありませんで、感情が弾けたような言葉でした。

「おい、縁起でもねぇこと言うもんじゃねぇ! 雪絵さんの気持になってみろ」

 お茂が何を言おうとしているのかを知った喜助は、山脇さんが死ぬものとして話を進めることに待ったをかけました。子供の頃に二親を亡くした喜助には、雪絵の不安がたまらないほどわかるのです。だからせめて、死んでから相談しても遅くはないと思ったのでしょう。

「じゃあ教えてよ、身寄りをなくしたらどうなるか……。きー公、あんたが一番詳しいはずだろ?」

 お茂はきっとなって喜助に言い返しました。

「……」

「雪絵さんはどうだい? どこか行く当てがあるのかぃ?」

「……」

 雪絵は哀しそうに俯いままです。行く当てなどあるわけがないのです。あるのなら山脇が訪ねたはずなのです。


「ところでさ、お医者はなんだって? 詳しく聞かされたんだろう?」

 せっかく剥いた瓜は、三人とも手をつけずにいるので、水気が出てきました。

「まあなぁ……。お前ぇの言うのとあまり違わねぇ。いや、今日にもって言われた」

 今日、この瞬間に命が尽きるかもしれない。明日かもしれない。しかし、どちらにせよ長くはもたないことを、二人は医者に宣告されたようです。


「……やっぱり……。案外そうじゃないかと思ったよ。だからね、罪なことかもしれないけど、山脇さんに気持を話したのさ。……お侍だねぇ、そんなことはとうに覚悟しているようだった。ただ、雪絵さんの行く末だけが気掛かりだって。で、雪絵さんの身の立つようになるのなら町人でもかまわないって。けどね、私は雪絵さんを侍の身分のままにしておきたい。だから、掛かり親になろうと思うのさ」

 お茂の声は沈んでいますが、両の眼はくわっと見開いたまま雪絵に向けられ、少しづつ早口になっていました。


「だけどお前ぇ、なにもこんなときに……」

 お医者から辛い宣告を受けていくらもたっていないのですから、本人の気持ちを考えてやれよと暗になじっています。

「こんな時だから話しておくのさ。もしもの時には、あれよあれよという間に日ばかり過ぎて、雪絵さんはどこかへ連れて行かれるんだよ。それじゃあ遅いんだよ」

「そりゃそうだけど……。まぁ、お茂が決めたのなら俺は承知するよ。ただし、雪絵さんが承知したらだ」


「どうする? 雪絵さん。言っておくけど、たった一つ条件がある。もし雪絵さんが私たちの子供になるのなら、あんたを呼び捨てにする。どうだね?」

「……父が、……それで良いと申されるなら……。そのようにさせていただきます」

 雪絵は深くお辞儀をしました。国を去ってから困窮続きでした。誰も助けてはくれなかったのです。母が死に、父もまた死に臨んでいる今、どうやって生きてゆこうと悩む日々でした。それだけにお茂の親切が身にしみて嬉しかったのです。


 お茂は、見開いた目を涙で溢れさせていました。まだ息のある父親の死を覚悟させるという、地獄の獄卒のようなことをしてのけたのです。しかし、避けて通れない道であるとお茂は考えていました。だからこそ雪絵の気持が哀れで、罪深い自分が哀れで……、ついには手拭いで顔を覆ってしまいました。


「そうと決まったら、きー公、お役人のことは頼んだよ」

 ずいぶん長い間すすり泣気が続きました。でも、いつまでも泣いているわけにはいきません。鼻をすすりながら、お茂は空元気を出してみせました。

「お、おぅ」

 喜助も、目を赤く腫らして鼻をすすっています。


「雪絵さん、お父様に話しておいで。せめて安心して旅立ってもらおうよ」

 山脇を安心させるための、これはお茂の優しさでした。


 翌日のこと、山脇は、昨夜からずっと穏やかに眠っていました。口当たりがいいからと、奴豆腐を喜んだ山脇は、蒸し暑い蚊帳の中で穏やかに休んでいました。


 遅くまで様子をみていたお茂と喜助は、今夜は乗り切るとふんで寝間に戻りました。そして、どちらが誘うでもなく息を荒げていました。


「父上! 父上!」

 夢見心地の最中に、雪絵の悲痛な声が飛び込んできました。

 慌てて山脇の部屋へ行くと、また吐血したのでしょう、一面に血が散っています。 必死に呼びかける雪絵に、山脇はわずかに指を動かすことでしか答えられない状態です。


「山脇さん! お侍! しっかりするんだよ! すぐに医者を呼んでくるからな」

 山脇は、飛び出そうとする喜助を手招きし、弱々しく首を横にしました。

「……そんなこと言ったって、早く手当てしないと」

 当惑した喜助がなんとか宥めようとしたのですが、山脇は頑として首を縦にしなかったのです。


 山脇の野辺送り。行き倒れの浪人にもかかわらず、大勢の人が旅立ちを見送ってくれました。肩を落として礼に立つ雪絵の両脇に、お茂と喜助がいたのは言うまでもありません。



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