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鼻緒屋 お茂

 1.鼻緒屋 お茂


 お江戸発つときゃ威伊達な(なり)が 箱根大井で襤褸(ぼろ)になる


 誰が詠んだかふざけた都都逸がございます。

 伊達を気取った江戸っ子が意気揚々と伊勢参りにでかけたまではよかったのですが、次々に立ちはだかる難所に辟易している。そんな様子を笑われているのでございましょうが、天下の大道たる東海道でさえ、これほどに旅は険しいものなのでございます。


 まだ明け染めの日本橋、西を目指すは東海道

 まずは険しい箱根越え、行く手を阻む大井川

 一気呵成に舞阪過ぎて、やがて尾張は熱田宿

 回り道なら中山道、船賃けちって佐屋街道

 桑名へ行くには七里の渡し、四日市なら十里の渡し

 いずれ海路も度し難し


 熱田の宮に近いことから、宮宿(みやじゅく)とも称される熱田宿。東海道でとびぬけて大きな宿場でございます。

 東西三町、南北も凡そ三町。菱形をしたこの狭い範囲に軒を連ねる旅籠の数が、ざっと二百と五十軒。もちろんのことですが、二軒の本陣と一軒の脇本陣は数に入れてはおりません。飯屋や古着屋、髪結いから私娼まで、およそ旅人に必要なものはすべて揃っています。その狭い宿場町に、なんと万を越える人戸が暮らしております。小藩の城下など足元にもおよばぬほどの賑わいでございます。それだけにさまざまな営みがあるのですが、それは暫し擱くと致しましょう。


 この熱田宿、単に五十三おかれた宿場の一つと思うのは大間違いで、実は最も重要な拠点なのでございます。というのは、こういう理由でございます。

 京と江戸をむすぶ街道は二つございます。中仙道と東海道の二つでございまして、どちらも五街道の一つに数えられております。

 片や中仙道は、古くから使われてきた街道で、宿場や茶店などの整備は万全でございますが、なにせ山の中に分け入るわけですから登りが延々と続きます。冬ともなれば寒さ厳しく、雪に阻まれて身動きのとれない日が続きます。それでは不便ということで整備されたのが東海道でございますが、東の箱根、西の鈴鹿というような難所がどざいます。その二つの街道が、尾張名護屋で交わっているのでございます。ですから、江戸から尾張までは東海道を使い、その先、京へは中山道を使うということができます。実際、そのように旅をされる旅人も多く、参勤交代の行列も半数以上がそうされているようでございます。


 東海道を、上るは陸路の行き詰まり、下るは海路の終点、でもございます。

 熱田の宿から桑名宿まで、およそ海路で七里。ですから、誰が名づけたか七里の渡しとも称しますが、今では一つ先の四日市までの船便もございまして、こちらは十里の渡しと称しておりま。

 さて、この渡し船ですが、船の改良と大型化で少しは安全になりました。とは申しましても、元を正せば川船であることに違いはございません。一度に大勢を運べるようにはなりましたが、同時に、犠牲者が増えているのも事実です。

 日和まかせで足止めをされたり、逃げ場のない船中で盗賊に襲われる危険がつきまといます。もっとも、歩かなくてすむのが船の利点でございますが、半日も船に揺られることになりますので、船酔いで苦しまれるお方もおられたとか。慣れない船でございますから陸に上がったらへとへとでございます。とてものことに次の宿まで足を延ばそうという元気者は少のうございます。そんなことで旅籠が繁盛するわけでございますが、なにもそれは熱田宿だけではございません。隣の桑名宿でも同じなようで、東海道で二番目に旅籠の多い宿でございました。とはいっても、その数は百と二十軒。熱田宿がいかに賑わっているか、一目瞭然でございましょう。


 海路を嫌う者は、脇道の佐屋街道をとります。歩かねばなりませんが、船賃がたすかります。それに、どうせ桑名で泊まるのでしたら同じ一日で行けるのでございますからね。

 それとは別に、中仙道は垂井宿へつながる、美濃路の出発点でもございます。

 西の難所として名高い鈴鹿越えを嫌う旅人は、関が原に出て近江を横切る道を選ばれるようでございます。関が原の少し先が垂井宿。比較的なだらかな道でございます。そんなこんなで旅人が集まるのが熱田宿なのでございます。

 ただでさえ旅人が多いのに、それに拍車をかけているのが伊勢参り。庶民に大流行りでございまして、諸国の伊勢講から五人、十人と団子になって東海道を上ってまいります。伊勢街道へは、四日市をすぎた日永の追分が枝分かれでございますので、嫌でも熱田宿を通らざるをえないのでございます。


 これだけ大きな宿場ございますと商売敵がウヨウヨしてございます。通り一編のことをしていたのでは客を奪われてしまいます。街道筋や大通りに面した店は別として、奥まった通りにある旅籠などは、それこそ客の奪い合いでございました。

 ありていにいえば、街道筋に店を構える旅籠など一握りでしかありません。一方で、一本奥に入れば敷地の広い旅籠がございます。趣向を凝らした造りの旅籠もございます。また、目につきやすい旅籠には飛び込みの客が多いこともありまして、団体客を泊めることができない悩みもあるようでございます。と申しますのも、ご存知のように旅籠は入れ込み。つまり雑魚寝でございますから、酒の一本でも呑もうかと思っても遠慮してしまいます。それが団体客であれば、賑やかに酒も呑める。余計なお足を落としてくれるのでございますから、できることなら受け入れたいと、ジレンマでございますね。

 かといって、そんな上客ばかりを狙っていると一人も客を引けないことがあるのですからやっかいでございます。

 一方の旅人にしてみれば、目につく店がすべて満員だったら途方にくれるしかございません。

 そこで旅籠がとった生き残り策は、客を引き込むことでございました。

 宿の入り口で声をかけて、自分の店に泊まらせるというもので、まことに結構な方法ではございます。とは申しましても、気の利いた者は店を留守にできませんし、だからといって丁稚などにはさせられません。困り果てた旅籠の寄合が考え付いたのは、寄合いが客引きをして、満遍なく客をあてがうという方法でございました。

 それにより一応の解決をみたのですが、人の欲とは底知れぬものでございます。毎日満員にしたいという気持が嵩じてまいりますと、目端の利いた客引きに駄賃を払って、内緒で客を横取りをする輩が出てまいりました。それに目をつけ、二股、三股かける小猾い客引きも出てまいりました。更には、寄合いに属さぬモグリの者もおりました。

 客引きの手当ては腕しだいでございます。毎日必ず団体客を呼び込む者には、それなりに多めの駄賃が約束されておりました。それこそ、大工仕事の三日分を一日で稼ぐ者さえいたのでございます。

 内緒で繁盛を目論む店があり、割のよい手当てに眼の色をかえる逸れ者もいる。

 渡し場から眼と鼻の先、大瀬子(おおせこ)橋のたもとに住むお茂もその一人でございました。


 陸路で西を目指す旅人は佐屋街道を行くことになりますが、渡し場と眼と鼻の先にある大瀬子橋こそが出発点。逆にみれば終点でございますので、橋のたもとは客引きのたまり場でもありました。


 これは、鼻緒屋と呼ばれるもぐりの客引き、お(しげ)の物語でございます。



「誰だと思ったらお茂さんかね。なんだね、また古着屋で買いこんで。子供たちのかい?」

 古着屋の暖簾をくぐって通りに出た女が呼び止められました。色褪せた着物を着た女は、大きな風呂敷包みを抱えています。

「あれ、見られてしまった。子供は育つのが早くて、あっという間に、ツンツルテンだわ。頼もしいけど、尻叩かれてるみたいでさあ、ボヤボヤしてらんないよ」

 屈託のない笑みがこぼれました。紅を注したような形の良い唇の奥で、鉄漿(かね)付けされた歯がきれいに並んでいます。すでに三十を過ぎ、大年増と呼ばれそうな年嵩です。粗末な着物にふさわしく、髪は無造作に束ねただけ。油気はあまりありませんが、艶は失われていない黒髪です。引眉(ひきまゆ)の剃り跡が青々としているので、表情がよくわかりました。


「よくしてやるねぇ。そんなことやめれば身綺麗にできるのに、もったいないねえ。あんまり無理するんじゃないよ、困ったら言っておいで」

 呼び止めた女は手をひらひらさせて留まるよう促し、提げていた篭を地面に置きました。篭の中から笹を取り出すと、葉を全部むしってしまいます。そして茎を小魚のエラに通しました。十ばかりも挿したでしょうか、それをお茂に持たせ、何度も頷きながら足早に去って行きました。


「いっつも悪いねぇ、ありがとうね」

 ちらっと振り返った女に数珠繋ぎになった小魚をかざし、お茂は笑みをこぼして頭を下げました。


 もぐりの客引きをしているお茂。通称、鼻緒(はなお)屋お茂といいます。

 さて、それでは一気に時を遡ることにいたしましょう。




 先々代が大瀬子橋のたもとで鼻緒屋を商っていたことから、お茂の家は鼻緒屋という屋号になっておりました。下駄や草履の鼻緒を商う店が少なかったことで財を成し、両隣の家を買い取るまでになったそうです。お茂の親は、三軒続きの家を改造して旅籠を始めました。間口が広いことでよく目立ち、なかなか繁盛してそうでございます。

 お茂が嫁いで暫くした後、性質(たち)の悪い板前に金を持ち逃げされてしまいました。なんとか立て直そうと励んだようですが、どうにもならなくなり、とうとう廃業においこまれてしまいました。が、お茂はそのいきさつを決して語ろうとはしません。


 その後は食事を提供せず、素泊まりの客を相手に細々と食いつないでいたのですが、失意の元に二親がこの世よを去ってしまいました。頼みにしていた弟も、胸の病に勝てず世を去りました。五年前のことでございました。


 お茂は十六の歳で嫁いでおります。しかし三年たち、五年たっても子に恵まれませんでした。そして、ねちねちと底意地の悪いことを言われ続けるうちに、亭主が使用人を孕ませてしまったのでございます。

 片や不義とはいえ子ができました。片や何年たっても子を身籠らない嫁です。その行き着く先は目に見えておりました。


 お茂は体よく離縁され、親元へ戻されてしまいまして、結果としてそれが親の寿命を縮めることになったのでございます。以来、お茂は気落ちした弟を励ましながら懸命に働いてきましたが、その甲斐もなく弟に旅立たれてしまいました。


 お茂は気落ちしました。いや、気落ちなどという生半可なことではなく、腑抜けになってしまいました。お茂にしてみれば、自分が離縁されたことが発端で父親が死に、母親が後を追うように死に、最後に残ったただ一人の身内である弟も死んだと自分を責めたのです。

 仕事もせず、飲めぬ酒を浴び、ガリガリに痩せ細っていったのです。



「この、くそたわけ!」

 薄暗い土間に倒れているお茂を見つけたのは幼馴染の、今では目明しをしている喜助でした。

「たぁけ! おじさんたちが泣いて怒るぞ! しっかりせよっ!」

 初めて見る、喜助の怒った顔でした。いつもヘラヘラしているだけで、気にもとめなかった喜助が眼をくわっと見開き、口をわななかせていたことだけがお茂の記憶に残っています。いや、焼き付けられています。


「なぁお茂、気落ちするのは無理ない、よーっくわかる。だがな、お前が死んでなんになる? お前のやってること、おじさんやおばさんが喜ぶか? とにかく、きちんと食え。いいな」

 それからというもの、喜助は毎朝毎夕、鍋を片手にお茂の顔を見に寄ったのです。

「喜助さん、もういいよ。私の心配なんかしなくていいからさ、早く所帯を持って、賑やかな家をつくりなよ。こんな半分死んだような女、放っておいたほうが身のためだよ」

 お茂は、食べ物の礼すら言わず、俯いたまま陰気なことばかり呟いていました。


「へっ、喜助さん……と、きやがった」

 邪魔くさそうにあしらわれたというのに気を悪くするどころか、喜助はクスリと笑ってみせました。しかし考えてみれば、子供の頃からお前とかあんたと言われ続け、名前なんぞで呼んでもらえなかったのですから、それだけでも嬉しい。

「だがなぁ、これで幾日目だ。あれから十日くらいたつか? ようやくまともな言葉を話してくれた。なっ、あと十日もすりゃあ、喜助! そう言って呼び捨てるだろうかな、前みたいにさ。とにかく、持ってきたものは全部食え。そうすりゃあなぁ、きー助とか、きー公って悪態つけるようになるって」

 あのときの必死の形相など想像もできないほどへらへら笑いながら、喜助は空になった鍋を提げて表へ出てゆくのです。

 小腰を屈めた格好が障子に影絵を落としていました。ほんの二足か三足の間障子に影を落として、まるで壁にでも吸い込まれるかのようにふいっと消えてしまいます。明日も来てくれるだろうか、いや、きっとあいつは来てくれる。もし来なかったら恨み言の一つも言ってやろう。お茂の気持ちがそんな風にゆっくり動いてゆきました。

 薄く映る障子の影が徐々に濃くなって、心の中に確かな像を結んでゆくのを、お茂はたっぷり時をかけて受け止めていたのです。と同時に、不意に消えるその影が、もし再び現れなかったらとも考え、不安でもあったようです。


 そんな日々が一年ほど続いたでしょうか。十分に体力を取り戻したお茂は、客引きをして日銭を稼いでいます。しかし、ただ漫然と同じことを繰り返しているだけでした。お茂の心の中からは、ああしたい、こうしたいという欲がすっぽり抜けたままなのです。いわんや、生きがいなどという高邁な考えなどきれいさっぱり失せていました。

 それでも少しは変化が兆しています。喜助が来ることを見越して、僅かですが喜助のための酒を買い置きするようになったのです。


「お茂、今日は冷えるなぁ」

 今日も喜助はお茂を見舞いました。顔色もよくなって、いまさら見舞いもないのですが、習慣になってしまったのでしょうか、それともまだ心を病んでいると思っているのでしょうか。どてらを着込んだ喜助は袖の中に手を引っ込めて、まるで子供じみたまねをしています。袖が鍋を提げているようです。

「でな、煮売り屋で大根買ってきたんだけど、あの婆ぁにゃ敵わないや。残り物でなんだけどってな、牛蒡を包んでくれたんだ。ついでに、一杯やりなってこれもな」

 もう片方の袖から、薄板にくるんだ包がぶらんと下がり、藁紐を持った手にイワシの丸干しが握られています。

「誰が考えたって、おまけしてくれたと思うじゃないか。こいつはすまないくらい言うだろ、俺も言っっちゃった。けどさ、払う段になったらお前、ちゃっかり全部勘定に入ってるじゃないか。ったくよぅ」

 煮売り屋でのことを忌々しげに語りましたが、本気ではなさそうです。それでも、ぶすっとして持っているものを全部差し出しました。

「嫌直しだ、いっしょにやらないか?」

 大の男が体よくあしらわれて不貞腐れている姿がよほど面白いとみえ、お茂はプッと吹き出してしまいました。もう旅人の到着は途絶えてしまい、客引きの仕事も終わりです。

「莫っ迦だねぇ。それっくらいの嘘に気付かないって、きー助の目は節穴だよ」

 口元に手をやって笑いながら、お茂は、愛想よく皿や箸を用意しました。ついでにチロリに酒を注ぎ、猪口を一つ箱膳に載せました。

 皿が出され、箸が出されるようになって一ト月たっています。だからそんなことはいつものことですが、今夜は初めてきー助と呼びました。しかも酒の仕度をしてです。それだけお茂は、喜助にこころを許し始めていたのです。


「きー助、いつもありがとうね。寒かったろう? すぐに燗をつけるからね」

 お茂にとって精一杯の感謝でしょう。


「なあ、お茂。初めてだなぁ、きー助って呼んだの。頼みもせんのに酒まで……。おぅ、遠慮なく飲ませてもらうよ」

 居住まいを正した喜助が、どういうわけか目尻に涙を滲ませています。やがてそれが粒となり、ポロッと頬へ零れ落ちました。

「あれっ? どうしたの、何か嫌なことでもあった?」

 お茂が涙を見咎めると、喜助は慌てて涙を拭い、ついでに鼻水も拭いました。


「そうじゃない、そうじゃぁないよぅ。……お前がすっかり元に戻ったから嬉しくてさぁ」

 またしても一粒。薄暗い灯りにさえ鼻水が伝うのが見えます。

「莫っ迦だねぇ、男のくせに。あんたのおかげですっかり元に戻ったよ。戻りすぎて、娘にまで戻っちまったくらいだよ。……ほんとうに、ありがとうね」

 まださほど温まっていない酒を喜助に勧めました。鉄瓶から湯を汲んで自分の湯呑に移し、チロリを再び鉄瓶に沈めます。

 特に言葉を交わすではなく、二人は取り分けた煮物を箸で切り、口に運びました。

 凍りつくほどに冷えた大根が、口の中であえなく融け崩れました。冷たいだけに味がよく滲みこんでいます。


「なあ、なんぼかでも気が晴れたか? 俺ぁそればっかりが心配でさぁ……」

 たった一杯の酒でほんのり頬を染めた喜助が、妙にしんみりと言葉を吐きました。

 それきり言葉は途切れ、ぎこちなく箸を動かすばかり。お茂にしても初めに注いだだけで、目は皿に向けたままです。どっちか片方が気の利いたことを言えば良いのに、気まずい沈黙が流れていました。

 儚げに揺れる明かりを受けて、喜助はチロリに手を伸ばしかけては戻すことを繰り返していましたし、一方のお茂は、炭に灰を被せたり、払いのけるばかり。何か言おうと頭を上げかけるのですが、何を言えばよいかわからなくて、しかたなく火箸をもてあそんでいたのです。


 ぬる燗だったのが人肌に、人肌が熱燗に、そして熱燗を通り越してチロリが湯気をたてていました。

 うっかり燗をつけすぎたことに気付いたお茂は、恥ずかしさで酒を勧めることすら忘れていました。それでもおずおずと、盛んに湯気を上げる酒を勧めてみると、喜助は猪口をぐいっと出しましす。

 何度か息を吹きかけていた喜助。お茂に軽く会釈して一息にあおりました。

 とたんに真っ赤になって固く口を結び、目を白黒させながらようやく咽に流し込みました。


「熱かったかね?」

 恐るおそる訊ねるお茂に、喜助は空元気で答えました。

「なに、こんくらい屁でもないって。体が温まって、ちょうどいい按配だ」

「ほんと? じゃあ、もう一つ」

 ほっとしたお茂はもう一杯を促しました。


「そ、そうだな」

 素直に受けてはみたものの、まさか啜るわけにもいかないので、喜助は猪口を箱膳に載せました。

「だけど、……ちょっとだけ冷ましてからにするよ」

 なにやら照れくさそうに手を頭にやりました。その言い様が滑稽でした。お茂にはとても笑えることでした。笑いすぎて腹が痛くなり、息すら継げぬほど笑いました。

 もう何年も忘れていた、腹の底からの笑いです。喜助はその様を本当に嬉しそうに眺めていました。


「……大丈夫そうだな」

 喜助が目尻を皺だらけにして微笑みました。

「おかげでね、仕事に出れば気が晴れる。……日が暮れればきー助が来てくれる」

 お茂の声音には甘えがこもっています。

「そうか。……なら訊ねるがな、お前には自分がこうしたいってこと、あるのか?」

「こうしたいって……、そんなものないよ。それがどうかしたの?」

「いや、あれば暮らしに張りがでると思っただけだ。ねぇのなら、何か見つけねぇとな」

「そんなこと考えたこともないね。……なら、きー助にはあるのかぃ?」

 逆に訊ねてやると、喜助は束の間たじろいだようです。が、冷めた酒を一気に飲み干しました。そして、猪口をそっと膳に伏せ、俯いたまま呟きました。

「……あるぞ。俺には大事な役目があるんだ。なぁに、誰かに言いつけられた事じゃない、自分でそう決めただけのことなんだがな」

 いかにも言い難そうな、歯切れの悪い口調です。


「へぇー。そんな大層なことがあったの、そりゃあ邪魔しちゃいけないねぇ」

「おぅよ、困る。せっかくここまで漕ぎつけたんだ、邪魔されてたまるか」

「ふーん、よっぽど大事なことらしいねぇ。わかった、もうこれ以上聞かないよ」

 よほど大事なことと察したお茂は、それ以上聞き出すことを遠慮しました。


「……莫ぁ迦、お茂の莫ぁ迦。……俺が決めた務めってのはなぁ、お前を護ることなんだよぅ。でなきゃお前、……こうして毎日来るもんか」

 酔いが言わせたのか、喜助はお茂に照れくさいことを言ってのけました。


「き……、……ありがとう、きー助。ありがとうね……」

 初めこそきょとんとしたお茂ですが、何度も何度も喜助の言葉を繰り返すうちに喜助の顔が滲んできました。そして、気がつけば鼻水を啜っています。

「莫ぁ迦。メソメソすんな、体裁悪くていかんだろうが。まあ、なんだ。持ち直してくれたようだから、肩の荷がおりた」


「きー助、いつから? いつからそんなこと思ってた?」

 たっぷり流れた沈黙を破ったのは、お茂の一言です。どこか甘えたような艶が混じっているのを、お茂自身は気付いているのでしょうか。

「そんなこと、ど、……どうでもいいだろうが」

 なぜか慌てたような喜助。開き直ったのか胸をそびやかしましたが、態度とは裏腹に言葉はどもっていました。

「そんなこと言わずにさぁ、ねぇ、教えてよ」

「けっ、体裁悪いなぁ。……実はな、お前が嫁に行く少し前からだ」

「そんなに前から? なら、どうして嫁にもらってくれなかったの?」

 決して本心ではないでしょう。だって、当時は喜助のことなど意識したことがなかったからです。

「嫁ったってお前、……同い歳だしよ、……俺ぁみなし児だしよ、そんなこと言える身分じゃないさ」

 喜助は早くに親を亡くしていました。仮に喜助がお茂と所帯をもちたいと願ったところで、きっと喜助の言うように、相手にすらしてもらえなかったでしょう。

「なっ、身寄りをなくした男がだ、嫁にくれなんて言えるか? ぶん殴られるのが落ちだ。そんなことよりなぁ、お前が嫁に行って、幸せに暮らすのをそっと見てたんだ。そうしたらお前、離縁されたっていうじゃないか。いったいどこが不足なんだ、俺ぁ耳疑ったぞ。こういう稼業だ、近所の評判を聞くくらいわけないや。するとどうだ、子ができないからってのが理由だそうだな」

 もう飲まないと形で示したはずですが、どういうわけか伏せた猪口を元に戻して、冷めるにまかせたチロリに手を伸ばしました。なにも言わずに酒をなみなみ注ぎました。ところが猪口には手を触れず、盛り上がった表面をじっと見つめるだけ。


「それであれだそうだな。使用人が孕んだことを幸いに、追い出したんだそうだな。種が悪いか畑が悪いか、そんなことは知らねぇ。だけど、子は天からの授かりものだ、そうだろ? もうちょっと待てって天がおっしゃっているのさ。きっとそうだ、そうに決まってらぁ。それなのによ、お前一人のせいにしやがって」

 早口でそこまで言って、睨みつけていた猪口についと手を伸ばしました。ポタポタ零れるのも意に解さず口に配び、カッと一息に呑んでしまいます。まるで薬のように苦い酒でございますが、ゴロリと咽仏が動くのは同じでございます。

「むかっ腹が立って仕方ない。とは言ってもよ、俺ぁ他人だ。怒鳴り込んでやりたいが、道理が通らん。こうこうこうでござい。貼り紙の一枚でもと考えないでもなかったんだがよ、……そんなことしたってなぁ……」

 その時のことを思い出しているのでしょうか、喜助は忌々しげに絞り出しました。


「馬鹿なこと考えちゃだめだよ。かえって私が大恥かくじゃないか」

「だから、だから遠くで見てるしかなかったんだ」

 喜助はいかにも悔しそう。カタカタと戸が鳴りだしたことにも気付いていないようです。

「……」

「おじさんもおばさんも気の毒なことだった。追っかけるように弟だろう、自棄おこさないか心配してたら案の定だ。やっぱり俺が護ってやらにゃならん。……まっ、そういうこった」

 喜助は、俯いて語り終えたあと、サバサバした様子で顔を上げました。ただ、もうそれ以上触れたくないとばかりに黙ってしまいました。

 風が強くなってきたようで、しきりと戸を鳴らしています。障子の破れ目から忍び込んだ風が、蜀台の火を大きく揺らめかせました。

「……」

「……」

 照れ隠しなのか、喜助は大根を箸で割り、小さな欠片を口にしています。幾日も火を通されたものを喜助は好んで求めていました。もう煮くずれる寸前まで軟らかくなった大根。醤油黒いのは熱田では当たり前。温めては冷やしを繰り返された大根の芯の芯まで味が滲みこんでいることでしょう。それと同じように、お茂の心に喜助のまことが滲みこんでいました。

 ポトン、ポトン……。

 顎を伝う涙ほどの想いが雨垂れのように三和土に黒いシミとなりました。お茂の心の襞をぬうように、喜助への想いがジンワリじんわり広がっていきました。

 雨垂れがせせらぎとなり、川となり。澱むかのようでいて瀬をつくり、やがて堰を切った想いは渦を巻く奔流となってお茂の心を溢れさせました。

「……」

 お茂は、つと喜助の手に自分の手を重ね、力一杯握り締めました。空いた手は前掛けで顔を覆い、激しく泣きました。この一年を通し、そっと見守り続けてくれた喜助の心根がありがたく、恥ずかしいとも思わずに泣きました。泣いて泣いて、さんざん泣いて、胸のつかえが取れたように思いました。その間ずっと、喜助は黙って待っていてくれたのです。


「……なぁお茂、元のお前に戻ったんなら、頼みがあるんだが……」

 ひとしきり続いた嗚咽が治まり、たまに鼻を啜り上げるばかりになったのを見計らって、喜助が遠慮がちに声をかけました。

 深い仲になりたいのだろう。お茂はそんなふうに察しました。

 厭味のひとつを言うでもなく、ただ黙って見守り続けた喜助なら。そう、喜助とならやっていける。

 そんな気持がお茂を支配しました。そして、重ねた手に力をこめました。承諾の合図として。

 それを強く握り返した喜助が言葉を継ごうとした矢先のこと、お茂は自分の想像が当たっていたことを確信し、支度をするためにそっと手を引きました。

「ちょっと待ってて、カンヌキかけてくるから」

 思いつめた顔でした。囁く声は掠れきっています。そして、腫れぼったい目を背けるようにして土間へ降りたのでした。




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