一、刺客(2)
続いてぱしゃん、と水路の方角からちいさな水音が耳に届く。
「なっ……だ、大丈夫ですか!?」
栗色の髪を左右で結ったちいさな少女が、尻餅をついて目を回している。
彼は慌てて駆け寄り、そっと抱き上げて怪我をしていないか確認した。
幸い何処もぶつけてはいなかったようで、安堵に顔を緩ませほっと胸を撫で下ろす。
そしてとんっ、とその両足を石畳の上に立たせて遣ると、服や肌に付いた埃をぱんぱんと払いのけた。
どうやら目の前の曲がり角から走ってきたようだが、街路樹でこちらが死角になってしまったのだろう。
ウェルティクスは申し訳なさそうに、しゃがんで少女に目線を合わせたまま、頭を下げた。
「私の不注意でしたね。ぶつかってしまって、本当にすみませんでした。
でも、怪我がなくて良かった――」
そこまで言いかけて。
今にも泣き出しそうな表情で何かを呆然と見ている少女の、視線の先を追う。
なにやら彼女はちいさな掌を、幾度も握ったり開いたりしていた。
どうしたのですか、と穏やかに尋ねるウェルティクスに、少女は消え入りそうな声でこう答える。
「………銀貨、ないの」
銀貨――ですか?と鸚鵡返しに問い返す青年。
「きょうの、パンのぶんの銀貨。
……さっきまで、おててにもってたのに、ないの!」
どうしよう、と訴えるように少女はその大きな両の眼を潤ませる。
青年はことの重大さを理解し、表情を堅くした。
お使いの途中だったものの、衝突の際に銀貨を落としてしまったのだろう。日々の糧を得る為の大切なお金を……。
「あっ!あれ……!」
ちいさな指の先に視線を飛ばせば、水路にひろがる波紋。
その奥に、なにやらきらきらと輝くものが見えた。
――まさか、と青年が思うより早く。
あった、と元気よく水路へ駆け出す少女。
そして、大人の背丈程の深さの、だくだくと流れる水路にばっと手を伸ばそうとする。
「ああっ、危ないっ!!」
寸でのところで、少女を受け止める。腕の中でじたばたと藻掻く少女を、彼はめっと叱った。
「落ち着きなさい。中に落ちたらどうするのですか!
風邪を引く程度ではすまないのですよ!?」
水路は尚もこうこうと水を運んでいる。
流れが速く、あれに巻き込まれたら、大人ですら助かる見込みは低い。ましてや、こんなちいさな少女であったら。
だって、銀貨が――と、彼女は尚も食い下がる。
ぐしゃぐしゃの顔で泣きじゃくる少女の頭を優しく撫でて、青年はこう続けた。
「大切なお金なのは判りました。でも、銀貨より、あなたの無事の方が、余程大切なのですよ?
あなたにもしものことがあったら、ご家族がどんなに哀しまれるか。
パンはこれで買いなさい。くれぐれももう、あんな危ない真似をしては駄目ですよ。判りましたね?」
懐から数枚の銀貨を取り出すと、ちゃりん、とあどけない掌に握らせる。
何とか泣き止んだ少女は、じっと無遠慮に目の前の青年を見つめた。
「……あ、ありがとう。
おにいちゃんは……『きぞく』のひと?えらいの?」
「…………え、っ?」
あまりといえばあまりに突拍子のない少女の言葉に、思わず間の抜けた声を漏らすウェルティクス。
「あのね、ミリーがまえにみた『きぞく』のひとと、服がにてるの!」
きゃいきゃいとはしゃぐ少女――ミリー。その表情は、何故か誇らしげだ。
……暫しの間。
「さ、さぁ、どう……でしょうね」
これにはウェルティクスも流石にどう答えてよいか判らず、曖昧に返答を濁した。幾ら何でも、ここで王族ですとは言えない。絶対言えない。
こほん、と咳払いをして誤魔化し、彼は少女の肩にぽんと手を置く。
「ほら、パンを買わなくてはいけないのでしょう?ひとりでも平気ですか?」
「うんっ、へいきー!ミリー、えらいこだもん」
得意げにえっへんと胸を張るミリーの姿に、青年の顔にもつい笑みが零れる。お使いは彼女にとって、大事な使命なのかも知れない。
「そうですか。では、気を付けていくのですよ。ミリー」
ありがとう、おにいちゃん――と大きな声で告げ、愛らしくぴょこんと御辞儀をするミリー。元気よく走り去っていく彼女にやれやれと困ったように笑いながらも、何度も振り返って手を振る無邪気な様子に、ウェルティクスもまた、笑顔で手を振って返すのだった。