三、刀牙(19)
暫し額に皺を寄せていた巨漢が、顔を上げる。
「ならば尚更、貴殿をスペリオルに殺させる訳にはいかぬな。
貴殿という『人物』は、我らの標的ではない」
「イルク……」
噂に依れば、パニッシャーは国境なき義賊。
彼は自分を、世の仇となる存在ではないと認めてくれたのだろうか。
「それに、スペリオル等と同様――俺を『人』として接してくれる者を死なせることはできぬ」
――それは、と。
青年の秀麗な面差しが、僅か歪む。逸らすイルクの双眸に、ふっと陰が差した。
「研究者達が言うには、俺は実験体の一つにすぎぬらしい」
「実験?……まさか、人体実験――」
そこで、ウェルティクスはは口を塞いだ。厭な心騒ぎに胸を押さえれば、相手の返事は――首肯。
「俺の場合は肉体の強化。故にこの体躯よ」
告げる彼の面差しに、滲む自嘲の色。
「ではあのとき、彼が口にしていた数字は……」
「俺の識別番号だ。スペリオルは最後までそれで呼ぶことを拒まれたが、俺が頼み込んだのだ。
けじめの為に、と」
「………………」
ことばを失う金髪の青年を横目で捉え、イルクは言葉を続けた。
「研究所での日々は退屈なものであった」
彼の口から語られる内容は、思わず目を背けたくなるようなものだった。
繰り返し行われる薬品の投与、定期的にある身体検査。見飽きた薄暗い天井に、薬物の臭いで充満した狭い部屋。とても人のそれとは思えない環境で、彼は暮らしてきたのだという。
それらが『日常』になり果てた頃、彼――イルクから人らしい心は消え失せ、残ったのはただ無機質に、与えられた任務を果たす殺人機械だった。
告げられた真実にウェルティクスはただ、ただ呆然とするよりなくて。
「どうやら俺は、気付かぬうちに『人』の感情というものを忘れておったようだ」
「それは……」
喉元まで出かけた言葉を、ウェルティクスは飲み込む。
もし言葉にしたとして、それが何になっただろう。結局、第三者の安っぽい感傷に過ぎまい。
それに、イルクが『人』であることを失わなかったのは、彼を人として接する者たちがいたからなのだろう。あのファングという男が刹那であったけれど見せた、暖かな目の色が記憶に蘇る。
そこまで思いを巡らせ、青年に一つの疑問が生まれた。
イルク自身が語るパニッシャーという組織の姿が、まるで矛盾しているように感じられたのだ。
人を殺める是非はともかく、弱者の救い手というそれと、人体実験という非道な所業は、とてもではないが結びつくものではない。
「俺が以前聞かせたのは、ある意味で数年前の組織の事だ。
近年のパニッシャーは体制こそ変わらぬものの、その実態は大きく変化しておる」
「近年……?」
やや声を殺すウェルティクスに、重く頷きイルクは続ける。
「数年前、組織の創設者である御館様が行方を眩ませてな。御館様に組織を任されたというゴルダム殿がパニッシャーを取り仕切るようになった。
それからというもの、徐々にパニッシャーは変わってしまった――とスペリオルは零しておられた」
「………左様で」
よくある話、ではあった。
どんな組織でも、それを構成する者、とりわけ指揮する者によってその姿は決まる。長となる者が道を誤れば――その先は述べるまでもないだろう。小規模の組織も、村や都市――そして、国も。
「話が逸れてしまったな」
相済まぬ――苦笑するイルクの声が、思考の渦からウェルティクスを引き戻す。
あ、と気のない返事が届いただろうか。
「とにかく、俺は貴殿と行動を共にする。こればかりは譲れぬよ」
はっきりとした物言い。これでは、梃子でも動かないだろう。
「……承知しました。今日はこれで休むとしましょう。
明朝、馬を得て次の街を目指します。強行手段になりますが、宜しいですね?」
「うむ。異存はない」
意志を曲げない頑固さが、何故だか好ましく思え、くす、と笑みが青年の金髪を揺らした。
と、不可解そうに眉を八にする巨漢の様子にその相好を崩す。
「ときにイルク。馬の扱いは?」
「扱いに関しては問題はない。だが……」
歯切れ悪い返事。首を斜めに傾いで、その続きを待つ。
「急がねばならぬところ申し訳ないが、俺は軍馬でないと無理だ。
早馬に俺の体重は支えきれぬ故、直ぐに使い物にならなくなってしまう」
「成程、それは仕方ありませんね」
確かに、それは……馬にも酷だろう。何とはなしに厩舎へ預けた愛馬へ心を馳せる。
すまぬな、と頭を下げる相手には苦笑混じりに答える。
しかし。却ってそれが善策かもしれないとも考えられた。
(父上のいる王都へ、あの者達を招き入れることはできない。
フォルシアに着くまでに決着を着けねば。これは――)
「――時間との勝負、になりそうですね」
思い詰めたよう声を曇らせる彼に、傍らの巨漢が頷いた。