三、刀牙(17)
パニッシャー四天ファングと顔を合わせたあの夜から、二日が経過した。
これ以上街に留まれば、更なる襲撃も危惧される。標的である自分達だけならまだしも、無関係な街の人間を巻き込む訳にはいかない。
二人は早々に荷物を纏め、夜明け星と共に慌ただしく出発したのだが。
襲撃を警戒しながらの道程はなかなか思うように進まず。通常なら一日もかからぬ距離に、かれこれ丸二日も費やしていたのだ。
西の方角に見える地平線は、仄かに朱くその姿を燃やす。二人は幸いにして、夕刻を回る前に小さな街へと辿り着いていた。
「ふむ。今日は、ここで宿を探すと致そう」
イルクはそう提案すると、街の中心から東へ伸びる通りへと足を進める。
驚いたのは、ウェルティクスの方だった。
彼が自分からこういった提案をしたことに対する驚きもあるのだが……。
「ここで、ですか……?」
念を押すように、そう問いける。
東にもうひとつ、集落らしきものが見えた。
日が暮れる前にこの街を抜ければ、森を抜けて次の街までは行けるのではないか――ウェルティクスはそう考えたのだ。
見たところ小さな森で、越えるにはさしたる時間は必要としないように思われる。
ぴたり、とその歩を止めると、イルクは困惑する金髪の青年へと向き直り、
「うむ、ここでだ。
確かに次の街を目指せば、夜半には到着できるであろう。
しかし、それでは見通しのきかぬ夜に、あの迷路のような森を越えなくてはならぬ」
「迷路?」
イルクの指が、東の方角を指し示す。その先を仰ぎ見たウェルティクスは、点在する小さな森を改めて視界に捉えた。
「小さな水路がいくつも流れ、入り組んだ地形となっておる。
周囲を囲まれ、挟み撃ちにされる恐れが大きい」
「あの森が……。成程、貴方はこの近辺のことに詳しいのですね」
しんそこ感心して頷くウェルティクスの言葉に応えるものは、沈黙だった。
「……イルク?なにか、」
「――貴殿の暗殺指令を受けた際に調査した。
まさかそれが、貴殿の助けとなろうとはな……皮肉なものだ」
そう、独りごちて。
巨漢はかつての標的から視線を外す。そのまま歩き出した彼が、振り向くことはなかった。
そんな背中をじっと見つめ、遠くなる足音を耳に受けながらも。
青年はそれ以上、繋げる言葉を持ってはいなかった。
宿を見つけることができた二人は、少し早めの夕食を済ませる。田舎風の料理が、焦るウェルティクスの心を癒してくれた。
用意された部屋は小さく簡素ではあるが、掃除がよく行き届いている。
「すまぬが、今日よりは同室とさせて貰うぞ。
相手があのスペリオルならば、別室にいては間に合わぬ」
「構いません」
静かにウェルティクスは答え、荷物を机に置くと椅子に腰掛けた。
暫くその様子を眺めていたイルクだったが、肩を竦め、不意にこんなことを口走る。
「貴殿は、変わっておるな」
「え?」
その発言に首を傾げるウェルティクス。
……もっとも、彼が色々と『普通』でないのは確かではあるが。
「解せぬ。俺はつい先日まで、貴殿の命を狙っていたのだぞ?
何故、何の警戒もなく同室を許可できるのだ」
当然といえば当然の疑問に、しかし青年は瞬きを数度、繰り返す。
「ふふっ、何かと思えば。
『真偽がはっきりするまで勝負は預ける』、そう仰ったのは貴方ではありませんか」
「な――それを……信じたというのか!?」
完全に面食らってしまったイルクに対して、ウェルティクスは淡々とこう告げる。
「疑う理はないでしょう。
貴方は、そのような嘘で騙し討ちを謀るような方には見えません。
仮にそうでなかったとして、部屋を別室にした程度で分かれる命運ならば、既に私の命はない」
「……………………」
呆然と言葉を失っている巨漢を見て、それより二周り以上も小さな青年は不思議そうに小首を傾げ。
と、
何か思い出しのだろうか、皮の荷袋から羊皮紙と羽根ペンを取り出す。そして机に置かれていたインク瓶に手をかけた。
「何をしておるのだ?」
さらさらと滑るような涼しい音が、木を削っただけの机から流れてくる。
「手紙を父上と、それから兄上に。
伝書鳥を使えば、数日程で王都に着くはずです」
道すがら鳥を扱う店を見つけましたもので、と彼は付け加えた。
「貴殿の……兄か」
ええ、と。
嬉しそうに、ウェルティクスは頬を綻ばせる。
自分には兄が二人いること、三人の兄弟は全員母親が違うことをイルクに語る彼は、ふとその視線を遠い何処かへ向けたようだった。
「長兄のジークはとても勤勉で、母君の周囲も大変厳格な方ばかりでした。
父上や皆が為、よき君主であらねばと、常にお独りで勉学や武術に励んでおられて……しばしば身体を壊されていたのを覚えています」
身体を壊すまで無茶をするとは、流石は兄弟。血は争えぬということか。
そんなことを思ったイルクだったが、敢えて口には出さずにおいた。
――フォーレーンの三人の王子。王国じゅうで話題となっていたが、任務以外にさっぱり疎いイルクにとって、その話は新鮮なものであった。
「次兄のティフォンは、様々な意味で長兄とは正反対でした。
好奇心旺盛な……その、あまり勉学には熱心ではない様子でしたね。よく城を抜け出しては、父上や城の者に叱られていましたけれど、全く懲りない方で。
そういえば幼い頃、無理矢理神殿に連れて行かれて、祭司様に見つかってしまったとき――」
きらきらと輝く瞳で話しているウェルティクス。家族を知らぬイルクにはその輝きは余りに眩しく、思わず素直な感想を漏らしていた。
「兄か。――よきものだな」
はい、と大きく頷く彼の笑顔に、知らずにつられて口元が緩む。それは無機質な『暗殺者』の顔とは、明らかに違うものだった。
と、
そこまで話して、不意に金髪の中の、青年の表情が曇る。
……楽しかった記憶以外のことに、ふと思い当たってしまった、そんな雲行きだった。
ジークの母親であるイザベラや、ウェルティクスの母親であるレイチェルは、テセウス王の忠臣であり王家に代々仕える家柄の出身である。
しかしそれに対して、ティフォンの母親ミルシェは小国ソレイア出身の平民。
更に、ミルシェが若い頃は踊り子をしていたこともあって、彼女を――ひいては息子であるティフォンを、快く思わない者も少なくはなかった。
「……それより。貴方の方は宜しいのですか?」
心の靄を打ち消すように首をちいさく左右に振って、強引に話題を変えるウェルティクス。
イルクはそのスピードについていけず、戸惑いをそのまま表情が語っていた。
「貴方は組織を裏切った訳ではなく、ただ私に同行しているだけ。
事情を話せば、戦いは避けられるのではありませんか?あの方はイルクにとって――」
『刀牙』と称された男の瞳にイルクが映された瞬間、あの研ぎ澄まされた刃のような双眸に暖かな光が差すのを、青年は見逃してはいなかった。
「う、うむ。確かに、俺にとって尊敬に値する方ではあるのだが……」
言葉を濁すイルク。彼にしてはどうも煮え切らない物言いだった。
「スペリオルは素晴らしい方ではあるのだが、その、時々、奇異な部分があるというか……
つまり、だな……」
「つまり?」
余程言いにくいこと、なのだろうか?ウェルティクスも思わず身構えて続きを待った。
イルクはひとつ、態とらしく咳払いをすると、青年から目を逸らす。
「我儘なのだ。人として」
と、すん。
羽根ペンが落ちる微かな音、
そして。
静寂が、
部屋を、支配した。
「…………はい?」
流石に目を点にしたウェルティクス。
ますますイルクは困った顔になり、頭をがしがしと掻いた。
「その、自身の『楽しみ』を最優先に行動する方なのだ。
つまり、事情がどうであったとしても――恐らくそういったことは、どうでもよいと考えておる」
一種のビョーキ――
そう、長くファングと組んでいる暗殺者は語ったという。
返す言葉もなく、ただ頭を抱えるウェルティクス。
書きかけだった家族への手紙は、思わず取り落としたペンからインクが滲み、最早暗号と化していたのだった。