二、闇の片鱗(15)
巻き戻した記憶の針の音は、早馬の蹄の音に掻き消される。
手綱を握る男は、マントの中に隠れた口の端に笑みを浮かべ、立ちふさがったイルクの面差しを思い起こしていた。
(ふっ……
いつまでも半人前だと思っていたあいつが――な)
親心のようなものかも知れない。
男――ファングとて、報告を鵜呑みにしていた訳ではなかった。
手塩にかけて育てた部下がそう易々と殺されるものか、そう考えるのは身内贔屓だけではないはずだ。
まさか、自分の前に立ちはだかるとは思ってもみなかったが。
――奴自身が選んだ道なら、それも面白い。
楽しみが増えた、と男は思ったのである。
「俺が戻るまで、しくじるなよ。……イルク」
込み上げる笑いを堪えようともせず、男はひとり、豪快に笑い声を上げた。
鬱蒼とした森の中に身を隠すかの如く、砦のような建物が佇んでいる。
それが彼等、パニッシャーの根城。
かつん、かつん……と冷たい音なく床に、耳聡く声をかけてくる者があった。
「あれ?ファング兄ちゃん、もう行っちゃうのー?」
降り注いだ良く知る声にファングはちら、とだけ視線を向けた。
そこには、塀にちょこんと座ってこちらを見ている少年の姿。
一見十歳前後の、利発そうな面差しをした少年はファングの視線に、えへへ、と無邪気な笑顔を向けた。
「ディックか。……得物を取りに戻っただけだ」
ディックこと少年はちぇっ、と拗ねたように頬を膨らませる。
素っ気ない物言いに対してではなく、単純に寂しいのだろう。
少しくらいいてくれたっていいのに、と、小さくぼやく。
「んな顔すんじゃねぇ。遊び相手ならラゼルでも捕まえればいいだろ」
と、あしらうようにファング。
「ラゼル兄ちゃんもいないよー。
調べ事があるんだって二、三日前から出っぱなしだし」
と、少年は口を尖らせた。
「ラゼルが?…………そうか」
ぴく、とファングの眉が動く。
「いつも僕は留守番だもんなー。酷いよ」
そんな彼の変化に気付いているのか否か、ぷくー、と、頬を風船にして不満を露わにするディック。
「そう、膨れんな。お前の実力は俺たちがよく知ってる。必要な時は声かけてやるよ」
「ホント!?約束だよ!!」
この男が世辞や気休めを好まないことを、少年はよく心得ている。
まだ若く、『ある理由』で実際の年齢より極端に幼い容姿の持ち主である彼は、その言葉に素直に喜びを表現した。
と思いきや、あっ――と更に顔を輝かせ、ぴょいっと塀の上から飛び降りるディック。
その視線の先を追い、ファングもまた、見知った顔を見つけた。
近付いてくる人影が、徐々に形を為していく。
禍々しい闇色のローブに身を纏った、小柄な人物。血色の悪い肌が僅かに覗くが、顔はフードで隠れており、伺い知ることができなかった。
「セリオさん!おかえりなさいっ」
大はしゃぎで出迎えるディックに、セリオ、と呼ばれた闇色の影は僅かに視線を向けたようだった。
――よう。と、
一言だけ返すその声色は、まだ若者のそれだ。
瞳をきらきらさせるディックの後ろから、ファングもまた声を飛ばす。片手は少年の碧色の髪を無造作にぽむぽむと撫でながら、だが。
「仕事あがりか?」
「……まぁな」
まるで必要最低限の会話以外は煩わしい、とでもいうように、セリオは素っ気なく答えた。
「なら丁度いい。一つ頼まれてくれねぇか?」
続きを促すかの如くファングをじろ、と一瞥する、紅い双眸がフードの隙間から覗けた。ファングは周囲の人の気配を確認すると、ぎりぎり耳に届く程度の小声で、擦れ違いざまにこう囁く。
「あるクライアントを調べてくれ。
場合によっちゃぁ、そいつ――御館様の顔に泥塗るかもしれねぇ」
――『御館様』。
その単語に、セリオの表情が一瞬、激しく揺らいだ――かに見えた。
「お前の判断で始末するかは決めな」
ファングは言葉を投げかけるだけ投げて、二人を振り向きもせずにアジトを後にした。
「……ふん」
――勝手な野郎だ。
要するに、始末しろと言っているようなものだ。
厄介事を押し付けられ鼻白むセリオだったが、御館様――首領の名前を出されては、拒むこともできず。結局、丸め込まれてしまったような不快な感情だけが置き去りになった。
もっとも、ファングが身勝手なのは日常茶飯事だが。
憮然とした面持ちでアジトの中へずかずかと入って行くセリオ。
ひとり取り残されたディックは、きょろ、きょろと二人の後ろ姿を交互に見遣り、慌てて黒いローブ姿を追いかけていった。