プロローグ
突き抜ける蒼穹に、やや黄昏の色彩が滲んでいた。
その淡い紫に呼応し、西の深い森に溶けゆく黄金が、大地に茜の色を遺して休息のときを誘う。朱金に染め上げられた大地は、街は、それは宝石さながらに見事であった。
夜の訪れと一日の終焉、明日のはじまりを予感し、誰もが安らぎの場所へと還る頃。幼い子供が手をひかれ、穏やかな声が集落のあちらこちらから黄昏に投げかけられた。
そんな中。
太陽の沈む方角から、一頭の馬の影が大地を横切っていった。
丘を抜け、木々の群れを抜け、その影は鬱蒼とした森を、風のようにすり抜けてゆく。どうやら、進路は点在するちいさな集落のひとつへ取っているようだった。
馬上には、既にぼろぼろにほつれた外套を纏った旅人。
その両腕はしっかりと手綱を握り締め、目的地へとその足を急がせているものの、旅人も馬も、既に疲労の色がじっとりと滲み出ていた。
「すまないな、あと少し……あと、少しだ。
次の街までどうか――もちこたえてくれ……!」
焦燥を交え愛馬に語り掛ける声は、若者のそれであった。彼は眉をやや歪め、下唇を噛む。もどかしさを押し隠そうともしないままに。
枝の切れ間から、目指す街の輪郭が覗いた。
若者の双眸に、希望の光がちいさく灯る。
鬱積する疲労感を振り払い、彼は手綱を繰る手に力を込めた。せめて街に辿り着けば、愛馬を休ませ、新しい馬を調達する術もあろう。
もはやぼろぼろで使い物にならない外套のフードが、叩き付ける風に煽られ、ばさりと外れ――現れたのは、年の頃なら十七、八くらいの青年の顔。はら、と零れる金糸の髪に、透き通るような、しかし強い輝きを秘めた碧玉の双眸。口元をきゅっと引き結ぶ青年の面差しは、端正で気品に溢れている。しかし、その顔中が埃と泥にまみれ、後ろで結った長い髪はばらばらと解れていた。
――彼の目的地は、遠くフォーレーン王都フォルシア。
「父上……どうか、御無事で……!」
祈るように見上げる、燃ゆる空。その先に、敬愛する父の待つ王都を見据えているのだろうか。
父の名は、テセウス。フォーレーン王国を統べる名君である。
フォルシス朝フォーレーン王国二七代目国王、剣雄テセウス。
直属の近衛騎士団は武勇に誉れ高く、隣接する軍事大国ノルンにすら驚異と目させる実力を持ち合わせていた。
しかし、剣雄ともてはやされた国王も流行り病に蝕まれ、やがて床に伏しがちになる。
病状は、日を追う毎に悪化。
諸侯や民衆の間では、時期国王について、様々な噂が飛び交っていた。
噂の中心は勿論、テセウス王の三人の王子である。
第一王子、ジーク。
第二王子、ティフォン。
第三王子、ウェルティクス。
テセウス王に正妃はおらず、三人の王子達は側室の子であったため、次期国王決定は病に倒れた国王の掌中にあった。
そんな中、テセウス王危篤の報せはフォーレーンの同盟国であるアクディア公国に留学していた、第三王子ウェルティクスの耳にも届く。
彼は急遽、王都へ帰還する事となった。
そう。
青年こそが渦中のフォーレーン王国第三王子――ウェルティクス=ル=アステル=カリス=フォルシス。
父王危篤の報せにアクディア公国から帰還の途とされる、テセウス王の末の王子その人であった。
ウェルティクスは視線を夕空から愛馬へと落とす。
立派な白馬であったろうに、その毛並みは埃と土に塗れ、その傷付いた蹄は絶えず地を蹴りつけた。それは、主人を集落まで導こうと僅かな力を振り絞っているかのようで。
疲労は既に限界に達していたであろう。徐々に身も重く、速度が落ちてゆく愛馬に、祈るように若者は幾度となく声を掛け続けていた。
そして。
陽が西の大地へと沈む間際に、ウェルティクスは漸く――国境の街へと辿り着いた。
――それが、はじまりの合図。
まだ、誰にも知られることなく――『それ』は、確かに蠢いていた。