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その四

 ここは交差する「場」だから。

男が言ったことを、あたしが理解できているわけじゃない。

だけど、留まったのはあたし一人だ、ということだけはわかることができた。

それがちょっとだけ嬉しくて。

誰かの特別になったような気がしていたんだ。




「ん?迷子」


人ならぬものの気配で満ちている屋敷の中で、それ以外の、つまりは人を見かけることが初めてだった礼奈は思わず声をあげた。

声に気がついたのか、男児は足を止め、周囲を見渡し突如大声で泣き始めた。

子供の世話などしたことがない礼奈は、ただおろおろとするばかりで、大きな音が苦手な何かたちはただひっそりと遠巻きに子と礼奈を見守っていた。


「うるせーなー」


のっそりと男がやってきて、男の子を片手で抱き上げそして森の方へと歩き去ってしまった。

ただぽかんとそれを見送ることになった礼奈は、男の子が立ちすくんでいた場所と、彼らの行く先を交互にみやる。

ほどなくして帰ってきた男は、少年を連れてはいなかった。


「どこにやったの?」

「返したんだよ」

「返した?」


面倒くさそうに答える男は、それでも礼奈の問いを無視することはない。うるさいやつだ、という表情を隠そうともせず、それでも相手を務めている。


「たまにいるんだよ。ああやって迷いこむやつが」


礼奈は、ここにどうやってやってきたのかを覚えてはいない。

気がつけばここにいて、住み着いている。

なおも疑問の表情を浮かべる礼奈に、男は続ける。


「子供が多いんだがな、この空間に落ちるやつがまれにいる。大抵は俺が気がついてとっとと元の世界に返すんだがな」

「元の、世界」

「ああ」


どれほど未練がない、と言い切ろうが感傷が浮かびあがるのは致し方がないことだろう。彼女を取り巻く環境全てが、彼女にとって苛酷であったというわけではないのだから。


「帰りたいのか?」


ふいに落とされる優しげな声音に、礼奈は慌てて首を振る。

ここにいたい、と思う気持ちは事実だからだ。


「まあ、おまえはまだ出れない、がな」


ただうなずき、男の後に続いて縁側に腰掛ける。

拳一つ分ほど開けた距離が、男と礼奈の心理的距離である。

稀に起す、礼奈の甘えた素振りを拒絶する男ではないものの、いつもいつも素直にそれを現すほど、礼奈は彼に心を許してはいない。ただ、二人の間に流れる空気は随分と穏やかなものになったことを、彼女はまだ気がついていなかった。





 初めて男の子を見つけて以来、礼奈は、稀に通り過ぎる人間へは声を掛けずにただ見過ごすように心がけていた。

大抵は気がつかずに庭を通り過ぎてゆき、そしてどこかへとまた帰っていく。

それは交差した道の中から、正しい道へと進む過程であり、男もそれに手を加えることはない。

ひどく迷子になってしまった場合のみ、男は重い腰を上げて手を貸すものの、そういう事態は頻繁に起こるわけではない。


「あの人たち、ちゃんと帰れるの?」

「まあ、大抵は」

「帰れなかったら?」

「どこか他の場に行くこともあれば、時間軸がひどく狂うこともあるようだ。所謂神隠しってやつだな」

「そう」


ただ通り過ぎていく人間たちに過度な同情心など生まれるわけもない礼奈は、男の淡々とした説明をただ耳にしていた。





「おはよう」


庭におぼろげな姿を現したそれに、礼奈は挨拶を投げかけた。

ゆらり、と姿がゆれ、小さく会釈をしたようにみえた。

それに礼奈は笑みで返し、盆の上に置かれた湯飲みを手にした。

ここに現れる人ならぬものはひどく臆病である。騒いでさんざんそれらに脅えられてしまった彼女は、慣れるにつれこのような態度と距離感を会得した。

日常に埋没してしまえば、それらに怖いと思うことはない。

静かな一日が始まろうとしたところで、それは唐突に破られた。


「あれぇ?ここどこ?」


鮮やかなワンピースを着た女が、忽然と庭に現れ、驚いたような声を発した。

途端、それらは姿を消し、縁側に座った礼奈だけが取り残された。

女は礼奈の姿を認めると、ほっとしたような顔をして、近寄ってきた。

久しぶりにみる人間に、礼奈は戸惑い、そして困惑していた。

ここの場が混線し、こうやって人が現れることはあることだ。だが、このような妙齢の女性が落ちてきたのは初めてだからだ。まして、礼奈は返す方法を知らない。

曖昧に笑顔を作ったところ、女は滝のように勢いよく話し始めた。

耳にきついその声を、ああ、私はこんな風にあの男に思われていたのだな、とぼんやりと思いながら聞き流していく。

綺麗に色が塗られた爪、明るい色に染めた髪、そして礼奈が記憶していたものとは異なる趣の衣服を眺めながる。

ようやく、女が落ち着いた頃に、男はのっそりと彼女たちの間に現れた。


「あ・・・・・・」


そう言ったまま押し黙った女は、明らかに男に見惚れている様子だ。

確かに男は、一度見たら忘れられないほどの美貌を持っている。灰色の髪も灰色の目も、浮世離れした彼の美しさを際立たせている。

だが、そんなものはただの表層にしか過ぎない。

頬を染め、先ほどまでの勢いはどこかへいったような女を見つめる。

この男の、何かを感じ取ることはできないのかと。


「お嬢さん、送りますよ」


男は、礼奈にはあまり見せることのない笑顔で、女の背中に手を当て促す。

自然顰めてしまった顔に気がつくことはなく、礼奈はただ二人の後姿を見送った。

機嫌が急降下した礼奈は、程よく沸かされた風呂に乱暴に身を沈めた。

彼女にとっては少しぬるめの湯が全身に行き渡る感触を楽しむ。

息を吐き、軽く両腕を伸ばし、ゆったりと肩まで湯に沈める。

徐々に落ち着いた頭では、どうしてあれほど感情を乱してしまったかを考えていた。

ある日突然迷い込んだ場所で出会った正体の知れない男。

それ以上でも以下でもない存在。

だが、自分にはない柔らかな曲線を持つ女に、殊更甘やかな顔をする男を見ていることができなかった。

それを第三者に問えば、嫉妬だと明瞭な答えが返ってくるのだろう。

生憎と、その問いに答えるものはここにはいない。

迷路に迷い込んだ思考のおかげで、随分と長湯をした礼奈は、すっかりのぼせた体に浴衣をだらりと羽織り、引きずるようにして風通しのよい部屋へと歩いていった。

男は、当たり前のように縁側に座し、いつものように書物に目を落としていた。

人ならぬものは庭先で駆け、まるで先ほどの出来事がなかったかのようだ。


「いたの」


僅かに書物から顔をあげ、立ちすくんだままの礼奈に視線を寄こす。

男はあからさまに顔を顰め、乱暴に書物を閉じる。


「おまえな、その格好はなんとかならんのか」


羽織っただけの浴衣はその役目を果たしておらず、袂からは礼奈の白い体がすっかりと覗いている。

慌てて袷を掴み、体を隠す。


「おまえ、誘ってんのか?」

「ばかじゃないの」

「まあ、おまえのそれじゃあなぁ」


初めてかけられた性的なからかいに慌てふためく礼奈をよそに、男は余裕の表情をみせる。


「どうせ小さいわよ」


初対面で男がした失言をしつこく覚えていたのか、礼奈が勢いよくくってかかる。

年頃の娘、と言うには年月がたっているが、意識の上ではまだそうだと自認している礼奈は、やはりそういうことが大層気に掛かる。


「あれほどとは言わないがなぁ」


男が、明らかに先ほどの女の肢体を思い出すかのような軽口をたたき、さらに礼奈を挑発していく。

膝を詰めるかのように男のそばまで近寄った礼奈は、男の胸倉をつかみ小言を続ける。

それをうるさそうにするでもなく、男はただにやついた笑みを浮かべている。


「あのな、おまえいいかげんにしろよ、その格好」


手で押さえていた袷は、彼女が手を離せば用意にはだけ、あっさりと礼奈の裸をむき出しにする。

慌ててそれをおさえ、なおも睨みつける彼女の頭上に、ふいに男の右手が降りてきた。

優しく幼子をあやすかのような仕草に、礼奈は虚を突かれたような顔をした。

いてもいい、とその存在を認められてはいた礼奈だが、男に優しくされたことも優しい言葉をかけられたこともない。僅かな接触を許されるのみだった彼女は、だが、それだけでも十分なほど満足していた。

邪険にされない、ただそれだけのことがどれほど嬉しいことかを礼奈は知っていたから。


「なんで泣いてんだよ」


知らずに流れ落ちた涙は、新しい彼女の浴衣を濡らしていく。

男が、礼奈を抱き寄せる。

男の体温を感じた礼奈は、さらに静かに泣き続ける。


「礼奈」


甘やかに自分を呼ぶ声に、礼奈は顔を上げる。

男は、乱暴に礼奈の頬を拭う。

礼奈は、初めてもっとこの男の近くにいたい。そう思った。


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