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第1話 帰る場所

タタオと申します。

この作品が初投稿となりますが、よろしくお願いします。

 それは、ただひたすらに純粋な願いだった。


「もうすぐだ……」


 かすれた声が、静かな部屋に溶けていく。

 男はゆっくりと手を伸ばした。誰かの頬に触れるように、何もない空間を指先でなぞる。


「もうすぐ会えるからね」


 応える声はない。

 それでも男は微笑んだ。


「あと、少しだから」


     *


 イージス本部の管制室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。

 壁を埋め尽くすモニターには、観測中の世界の情報が絶えず流れている。その一角で、アイリスは通信端末を睨みつけていた。


「ちょっと、勝手に行動しないで。一人で行く気?」


 画面の向こうで、青年が面倒くさそうに肩をすくめる。背後に見えるのは世界間転移施設の通路だった。


「偵察に行くだけだろ。一人で十分だよ」

「そういう問題じゃないの。世界を渡るには申請が必要なの、分かってるでしょ?」

「そのへんは、いつも通り上手いことやっといてくれ」

「もーーーっ!」


 周囲のオペレーターが一斉に振り返った。


「どうした?」

「何かあったのか?」

「あ、あはは……ごめんなさい。ちょっと端末の調子が悪くて」


 ぎこちない笑顔で取り繕う。皆が業務へ戻るのを待ってから、アイリスは声を落とした。

 通信の向こうで、ソーマが笑いを堪えている。


「……笑ってる場合じゃないでしょ」

「悪い悪い」

「観測値は見た? 魔法のない世界に、あの魔力反応よ。普通じゃないの」

「だから見てくるんだろ」


 ソーマは軽く手を挙げた。


「じゃ、あと頼むな」


 呼び止めようとして、アイリスは口を閉じた。

 代わりに、小さく息を吐く。


「……気をつけてね」

「ああ!」


 画面が切り替わり、無機質な転移施設の表示だけが残った。


「ほんと……昔から変わらないんだから」


     *


 学校からの帰り道、変なやつに会った。

 それが、彼への第一印象だった。


 いつもの道を一人で歩いていると、突然、知らない男が目の前に立ちはだかった。

 そして、大きく両手を広げた。


「才能に恵まれし少年よ! 今こそ我がお前の進むべき道へ導いて進ぜよう!」


 ミズキは足を止めた。

 数秒、男を見つめる。


「おい、なんか言え」

「……はぁ」


 ため息をつき、男の脇を通り抜ける。


「待て待て待て待て! どこ行くんだよ!」

「不審者とは話しちゃ駄目だって」

「親にそう言われたのか?」

「……先生に」

「こりゃ失礼」

「じゃあ、これで失礼します」

「だから待てって!」


 男が慌てて前へ回り込んだ。


「防犯ブザー鳴らしますよ」


 ぴたりと動きが止まる。

 男は少しだけ声を低くした。


「……お前、魔法が使えるよな」

「え?」

「あ、いや。まだ使えはしないのか」

「何言って――」


 差し出された手のひらに、光が灯った。

 小さな球体だった。夕方の薄暗さの中で淡く輝き、指から離れてふわりと浮かぶ。

 ミズキは思わず目で追った。

 糸も、仕掛けも見えない。


「……な?」

「……『な?』って」

「だから、教えてやるって」


 男は得意げに笑った。

 それが、ミズキとソーマの出会いだった。


     *


「……ついてこないでください」


 歩幅を速めても、後ろの足音は離れなかった。


「魔法教えるって言っただろ」

「今じゃなくてもいいでしょう。違う日でも」

「いや、そうなんだけどさぁ……」


 急に歯切れが悪くなる。


「……なんですか?」

「この世界に来てすぐ、お前のところに来たもんだからさ」

「世界?」

「あ」


 しまった、という顔をした。


「まあ、それは後で説明するとして」


 誤魔化した。

 絶対に誤魔化した。


「ここでの居住場所、確保してないんだよな」

「だから?」


 嫌な予感がした。

 男はにやりと笑い、親指を立てる。


「悪い! しばらくの間、お前の家で世話になるわ!」

「え?」

「よろしくな!」

「勝手に決めないでください!」


 結局、押し切られる形で連れて帰ってしまった。

 家に着くと、ソーマは狭い部屋をぐるりと見回した。


「綺麗にしてるんだな」

「まあ……」


 流しに置かれた食器は一人分。玄関に並ぶ靴にも、家族のものらしい大小の違いはない。

 ソーマが来た途端、部屋が急に狭くなった気がした。


「……ほんとに一人で生活してんの?」


 少しだけ、真面目な声だった。


「いつから?」

「さあ。覚えてないです」

「覚えてない?」

「記憶がないんです」


 ミズキは鞄を下ろした。


「でも、この学校に通うとか、お金は定期的にポストに入ってくるとか。そういうことだけは、なんとなく分かってて」

「……」

「なんで分かるのか、僕も分かんないんですけど」


 以前は、思い出そうとしたこともあった。

 けれど、考えると頭の奥がぼんやりして、何を探していたのかさえ分からなくなる。やがて、考えることをやめた。

 学校へ行き、帰ってきて、食べて、眠る。

 それで生活は続いていた。


 ソーマは何かを考えるように目を伏せた。

 そして、ぱん、と手を叩いた。


「まあでも! 今後はもう寂しくないな!」

「ほんとにここに住むんですか?」

「もちろん!」


 満面の笑みだった。


「楽しい家庭にしような!」

「……はぁ」


 今日だけで、何回ため息をついただろう。

 けれどその夜、向かいに座る相手のいる食卓は、いつもより少しだけ明るかった。


     *


 ミズキの寝息を確かめてから、ソーマは通信機を起動した。


「……ああ、無事接触できた」

『偵察だけって言ったのに』

「そうだっけ?」

『そうよ!』


 ソーマが慌てて音量を下げる。


『……で、どうするの?』

「とりあえずは様子見かな」

『危険はないの?』

「魔法がない世界でも、魔力を持って生まれることはあるだろ」

『その魔力量がおかしいんでしょ。人為的な何かがある可能性だってある』

「分かってるよ」

『ほんとに?』


 ソーマは眠るミズキへ目を向けた。

 布団の端から、細い手首が覗いていた。


「……ああ。その可能性も考えてる」


 机には学校の教科書が積まれている。壁のカレンダーには、何も書き込まれていなかった。


「でも、こいつが何事もなく生きていけるなら、それが一番いい」


 アイリスは黙って続きを待った。


「魔力を扱えるようになって、この世界で平和に暮らせるなら、それでいい。イージスのある世界へ来たいって言うなら、その時は招いてやればいい」

『……ほんとに大丈夫なの?』

「どうかなぁ」

『ソーマ』

「定期報告はする。妙なことがあったら、すぐ連絡するよ」


 今度は笑わずに答えた。


「サポート、頼んでもいいか?」


 通信の向こうで、小さく息を吐く音がした。


『……いいよ。付き合ってあげる』

「助かる。頼りにしてる」


 ほんの数秒、間が空いた。


『……ばか』


 通信が切れた。

 ソーマはミズキの布団をそっと掛け直した。


「大丈夫だよ」


 眠っている少年に、それだけ言った。


     *


 それから一週間。

 放課後の河川敷で、ミズキは両手を前へ突き出していた。


 光が一つ。

 また一つ。

 合計五つの球体が、夕暮れの空気に浮かび上がる。


「おー、うまいじゃないか!」

「集中してるんだから黙ってて!」

「おー、こわ」


 ソーマは肩をすくめて笑った。

 ミズキの額には汗が浮かんでいたが、光はまだ強い。


「よし、今日はここまでにするぞ」

「え? まだできるよ」

「分かってる。お前の場合、魔力が切れるまで待ってたら夜になっちまう」

「そんなに?」

「だから、才能があるって言ったろ」


 ミズキは自分の手を見た。

 一週間前まで、こんなものを出せるとは知らなかった。


「使った魔力って、なくなるんだよね」

「使った分はな。また溜まるけど」

「じゃあ、使いすぎたら?」

「普通は動けなくなる。だから無理はするなよ。魔力が余ってても、身体と頭は疲れるんだから」


 ソーマはミズキの額を指先で軽く弾いた。


「ほら、終わり終わり。その玉しまえ。帰るぞ」

「……うん」


 ミズキが光を消すと、ソーマは傍らに置いていた鞄を引き寄せた。

 口が開いた拍子に、中の金属が夕日を反射した。


「……それ、何?」


 ソーマはミズキの視線を追った。


「ああ。俺の仕事道具」


 取り出したのは、二丁の拳銃だった。

 同じ形をしている。銃身には細い線が幾重にも刻まれ、握りには小さな紋章があった。

 片方の握りの底にだけ、斜めの傷がついていた。


「本物?」

「本物。でも、お前の世界の銃とはちょっと違う。自分の魔力を通して使うんだ」

「ソーマも、手から魔法を出せるのに?」

「狙ったところへ、狙った形で届けやすいんだよ。壊すばっかりじゃなくて、壁を作ったり、何かを繋ぎ止めたりな」


 ミズキは黙って銃を見つめた。


「……持ってみるか?」

「いいの?」

「少しだけな」


 ソーマは二丁とも魔力の供給部を外した。光の消えた紋様を確かめてから、一丁ずつミズキへ渡す。


「これで撃てない。でも、人には向けるなよ」

「うん」


 受け取った瞬間、両手が下がった。

 見た目より、ずっと重かった。


「……これ、二つも持って走るの?」

「格好いいだろ」

「重い」

「感想それだけ?」


 ソーマが笑った。

 ミズキは眉を寄せて二丁を持ち直した。握りは手に収まりきらず、片方の底についた傷が指の腹に当たった。


「その傷、どうしたの?」

「昔ちょっと、無茶してな」

「今もしてそう」

「お前、最近遠慮なくなったよな」


 ソーマは片膝をつき、下がってきたミズキの手を下から支えた。


「でもまあ、ずっと付き合ってると、この重さが落ち着くんだよ」


 その言い方が、さっきまでと少し違った。

 ミズキは、掌にある金属をもう一度見た。


「……大事なんだ」

「ああ。何度も助けられた」


 ソーマはミズキが返した二丁を、慣れた手つきで受け取った。

 銃の重さがなくなっても、手のひらにはまだ、その感触が残っていた。


 並んで土手を歩く。

 二人分の影が、長く道に伸びていた。


「お前さ。学校どう? 楽しい?」

「普通」

「普通かぁ。友達とかと遊んだりしないの?」


 返事がない。


「ていうか、友達いる?」

「ソーマうるさい」

「あっ、いねぇの?」

「うるさい!」


 ソーマが声を上げて笑う。

 ミズキは足元の小石を蹴った。


「いやでもさ。今後の学校行事とか気になるんだよな」

「……何が」

「授業参観とか」


 足が止まった。

 ソーマが二歩先で振り返る。


「……くるの?」


 思ったより小さな声が出た。


「行く行く!」


 何でもないことのように答えてから、ソーマは首を傾げた。


「……え? あんの?」

「……」

「いつ? もしかしてもうすぐか?」


 ミズキは俯いた。

 顔を見られたくなくて、そのまま走り出す。


「あ、おい! 待てって!」


 後ろで足音が追いかけてきた。


「帰ったらちゃんと、いつあるのか教えなさいよー!」


 夕焼けの中に、二人の声が響いた。


 その夜、ミズキは鞄の底から折れ曲がったプリントを出した。

 ソーマは何もからかわず、両手で紙を伸ばした。


「来週か。分かった」

「別に、忙しかったら……」

「行くって」


 カレンダーに丸をつける。

 何もなかった壁に、一つだけ予定ができた。


     *


 翌日の、帰りのホームルームだった。


 先生が黒板に翌日の持ち物を書いている。

 椅子を引く音。誰かが押し殺したあくび。開いた窓から、部活動の掛け声が届いていた。

 ミズキは机の端に指を置き、光球を出す時の感覚を思い出していた。

 今日は六つ、作れるだろうか。

 帰ったらソーマに――。


 黒板の前に、縦の線が現れた。


 最初は目の錯覚かと思った。

 けれど線は、黒板とは無関係に空中に浮いていた。紙を内側から裂くようにゆっくりと広がり、人が一人通れるほどの穴になる。

 穴の向こうは、何も見えなかった。


 先生が振り返った。

 チョークが床へ落ちる。


 男が出てきた。


 痩せた顔に、落ちくぼんだ目。場違いなほど穏やかな足取りで教壇を降りる。


「どちらの方ですか。今は授業中――」


 男は先生を見なかった。

 教室を見渡し、ミズキのところで視線を止める。


「ようやくだ」


 その声を聞いた瞬間、ミズキの指先が冷えた。

 知らない人だ。

 そのはずなのに、身体が動かなかった。


「必要な魔力量に達した」


 誰かが笑った。何かの悪ふざけだと思ったのかもしれない。

 ミズキは椅子を引こうとした。

 男が片手を上げた。


 左目の奥を、焼けた針で貫かれた。


「あ――っ!」


 机に肩がぶつかった。

 両手で目を押さえる。痛みは消えない。瞼の裏に、見たこともない文字が次々と刻み込まれていく。

 円が重なり、線が結ばれる。


「やめ……やめて……!」


 指の隙間から、赤黒い光が漏れた。

 腹の底から何かを無理やり引きずり出される。ソーマと練習した時とはまるで違った。止め方を探すことさえできなかった。


「少し、遅れたね」


 男が近づいてくる。


「余計な使い方を覚えてしまったからだ」


 先生がミズキへ駆け寄ろうとした。

 その足元から、黒い膜が噴き上がった。


 窓の外が消えた。


 夕方の空も、校庭も、向かいの校舎も。流れ落ちる墨のような闇が、学校を包み込んでいた。

 教室の照明が何度か瞬き、白い光だけが頼りなく残った。


「全員、廊下へ! 落ち着いて――」


 先生の声に、机が一斉に鳴った。

 ミズキも立とうとした。

 足が床から離れた。


 見えない力に胸を引き上げられ、身体が宙へ浮く。

 手を伸ばしても机に届かない。首を振っても、左目の光は消えない。


 その周りに、黒い球体が生まれ始めた。


 小さなものは拳ほど、大きなものは人の背丈ほどもあった。照明を映さない真っ黒な表面が、ゆっくりと揺れていた。

 逃げる生徒の一人が、腕でそれを払いのけようとした。


 触れた手の形が、崩れた。


 指が垂れ、制服の袖ごと黒く濁ったものになって床へ落ちる。

 一瞬遅れて、悲鳴が上がった。


「触るな!」


 誰かが叫んだ。

 廊下へ向かう背中の間に、別の球体が滑り込んだ。ぶつかった生徒の身体が沈み、伸ばした腕も、開いた口も、黒の中へ消えた。


 ミズキは息を吸った。

 助けを呼ぼうとした。

 けれど喉から出るのは、途切れた悲鳴ばかりだった。


「大丈夫。お前は、そのままでいい」


 男は微笑んでいた。

 ミズキを見ているはずなのに、その目は別の誰かを見つめているようだった。


「もうすぐ、あの子が帰ってくる」


 男が後ずさり、開いたままの穴へ半身を沈める。

 黒い球体は、男を避けて流れていった。


 教室の外からも悲鳴が聞こえた。

 いくつも。いくつも。


 ミズキは、届くはずのない手を伸ばした。


「……ソー、マ……」


     *


 買い物袋を提げたソーマが足を止めたのと、通信機が鳴ったのは同時だった。


『ソーマ! ミズキの反応が急激に変化してる!』


 遠くで、空の一部が黒く盛り上がっていた。

 学校のある方角だった。


「見えてる」

『周囲に大規模な結界。内側の観測が通らない。今、部隊を編成して――』

「先に入る。位置を送るから、追ってきてくれ」

『待って、一人で――』

「中に生徒がいる」


 通信が一瞬、静かになった。


『……分かった。経路を確保する。回線は切らないで』

「頼む」


 袋を道の脇へ置く。

 ソーマは走り出した。


 校門へ着いた時、学校は丸ごと黒い壁の向こうに沈んでいた。闇の表面が呼吸するように膨らんでいる。

 掌を近づけると、皮膚がひりついた。


「外から閉じただけじゃないな。内側にも術式が走ってる」

『解析する。無理に触らないで』


 ソーマは胸元からイージスの徽章を引き出し、指で押さえた。

 魔力を流すと、紋章から光がほどけ、全身を包んだ。

 普段着の輪郭が光に溶ける。その光が収まった時、ソーマはイージスの制服を纏っていた。

 襟を正す間もなく、袖口から裾へ魔力を巡らせる。布地に織り込まれた防護の術式が、淡く浮かび上がった。

 腰の前側には、二つのホルスターが並んでいる。

 左右の手で、一丁ずつ抜いた。

 握りの底についた古い傷に、指が触れた。


『外縁の一部なら干渉できる。今、座標を――』

「受け取った」


 左右の銃身に刻まれた紋様が灯る。

 右の銃口を、送られてきた座標へ合わせた。


「開けろ」


 光の弾丸が、結界を穿った。

 亀裂が閉じるより早く、左の銃から二発目を放つ。着弾点に広がった魔法陣が、裂け目を押し開いた。

 ソーマはその間へ身体を滑り込ませ、校舎の壁へもう一発撃ち込んだ。

 破砕音。

 粉塵の向こうから、悲鳴が押し寄せた。


 廊下に鞄が落ちていた。

 その先に、片方だけの上履き。

 壁際では教師が生徒の肩を抱いていた。生徒は袖の先を押さえ、声にならない声を上げている。


 ソーマの顔から、表情が消えた。


「そこを動くな!」


 ソーマは二人と黒い球体の間へ銃口を向けた。放った光が床に触れ、障壁となって立ち上がる。

 接触した障壁が、端から削れていった。


「アイリス、負傷者多数。接触したものを溶かす黒い球体がいる。救護班も必要だ」


 雑音が返ってきた。


『……ソーマ……中の……』


 音声が途切れる。

 視界の奥、開いた教室の扉から異様に濃い魔力が流れ出していた。


 ソーマは左の銃から続けて光を放ち、二人の前へ障壁を重ねて固定した。


「光の内側にいてくれ。すぐ戻る」


 教室へ踏み込む。

 倒れた机の向こうに、黒い穴があった。その奥で、男の顔がこちらを向いた。


 ソーマは足を止めた。制服の胸元で、イージスの紋章が淡く光っていた。


「境界守護機関イージス所属、ソーマ。世界間干渉および現地住民への加害を確認した。直ちに術式を停止し、武装を解除しろ」


 ソーマは穴の奥にいる男の顔を見据えた。

 手配資料で見た顔だった。


「指名手配犯のカラスマだな」


 返事はなかった。

 カラスマはソーマへ視線さえ向けず、教室の上方を見つめていた。

 その唇が、何かを確かめるように小さく動く。


「……もう少しだ」


 赤黒い光が、ソーマの目の端で瞬いた。

 見上げた先に、ミズキがいた。


 天井近くに浮かび、手足を垂らしている。左目に刻まれた魔法陣から、細い光の筋が四方へ伸びていた。

 小さく開いた口が、かすかに動く。


「ミズキ!」


 踏み出す足元に球体が現れた。

 ソーマは机を蹴り、飛び越える。


「近づくな。まだ終わっていない」

「今すぐ止めろ!」

「止める? ここまで待って、ようやく足りたんだぞ」


 カラスマの声が初めて荒れた。


「その器を作るのに、どれほどかかったと思っている」


 ソーマは一瞬だけカラスマを見た。


「……作る?」

「魔力を、上限なく蓄積できる生命だ。私が作った。必要な知識を与え、暮らす場所を与え、ここまで育てた」


 ミズキの首が、わずかに動いた。

 意識があるのかは分からなかった。


「お前が消費の仕方など教えなければ、もっと早く済んでいた」


 ポストに届く金。空白の記憶。

 ソーマの中で、断片が結びついた。


「……何のために」

「娘を帰すためだ」


 カラスマは、当然のことのように言った。


「力はその子が蓄えた。あとは、ここにいる命で補えばいい」


 廊下で悲鳴が上がった。

 カラスマはそちらを見ようともしなかった。


「あの子は何も悪くなかった。まだ生きるはずだった。だから、取り戻す。それだけだ」


 ソーマは歯を食いしばった。

 言い返すより先に、ミズキの身体が大きく震えた。

 魔法陣が一段強く輝く。


「――今、助ける」


 床を蹴った。


     *


 左目の魔法陣そのものを壊せば、ミズキの身体が耐えられない。

 ソーマは伸びる光の筋を目で追った。

 外へ流れる魔力。少年を吊り上げる拘束。互いに絡み合ってはいるが、同じ術式ではない。


 右の銃へ魔力を集中させる。

 狙うのはミズキではない。その上で、拘束の術式が結ばれている一点だった。


「邪魔をするな!」


 カラスマの叫びとともに、球体が押し寄せた。

 ソーマは左の銃から光を撃ち出し、球体との間に障壁を展開した。

 一枚、二枚。黒い表面に触れるたび、光が濁り、崩れていく。


 その間に、右の引き金を引いた。


 弾丸が結び目を貫き、光の筋が切れた。

 ミズキの身体が落ちる。

 ソーマは二丁をホルスターへ戻しながら踏み込み、両腕で受け止めた。そのまま胸へ抱き込む。


 すぐ脇で、最後の障壁が砕けた。


 避ければ間に合ったかもしれない。

 だが、避けた先にはミズキの頭があった。


 ソーマは身体をひねった。

 少年を覆うように、背を向ける。


 左肩から脇腹に、冷たいものが触れた。


 制服に走っていた防護の光が、接触したところから消えた。

 布地が溶け、その下の身体も、輪郭を失っていく。

 遅れて、息を止めるほどの痛みが来た。


「っ……!」


 ミズキだけは離さなかった。

 残った力で床を蹴り、球体の群れから転がり出る。

 背中を壁へ預けた時には、制服の左側は半身の大部分とともに失われていた。


 右腕の中で、ミズキは目を閉じていた。

 息はある。

 ソーマは震える指を、その頬に当てた。


「……よし」


 球体は消えていなかった。

 供給を絶っても、学校へ流し込まれた魔力はまだ術式の中を巡っている。


 穴の奥で、カラスマが動いた。


「まだやり直せる。その器さえ――」


 カラスマがこちらへ伸ばしかけた手を引っ込めた。

 ミズキを膝へ抱えたソーマが、残った右手で拳銃を抜き、穴へ向けていた。


「逃がすかよ」


 カラスマの背後に、別の裂け目が開きかけた。

 ソーマは残る魔力を、握った銃へ注ぎ込んだ。

 銃身の紋様が白く輝く。

 引き金を引くたび、指先から感覚が遠ざかった。


 放たれた弾丸が光の杭となり、穴の縁を貫いた。


 カラスマが振り返る。

 背後の裂け目が潰れた。穴の内側を走る光が、その空間ごと四方から縫い留めていく。


「何をした!」

「そっちも……この世界に、繋いだ」


 ソーマの口から、血がこぼれた。


「もう、抜け道には……ならない」


 穴はカラスマを隠すだけの袋小路になった。

 どこへ退こうとも、この世界の外へは出られない。


 銃身の光が消えた。

 ソーマは拳銃を腰へ戻そうとして、指を滑らせた。

 乾いた音が、すぐ傍らの床で鳴る。

 拾い直す力はなかった。

 残る一丁も、緩んだホルスターから抜け落ちた。

 ソーマは二丁から手を離し、ミズキを抱き直した。


     *


 誰かが、名前を呼んでいた。


「……ミズキ」


 目を開けると、ソーマの顔があった。

 ひどく白かった。

 ミズキは何か言おうとして、咳き込んだ。左目が熱い。頬に触れる指も、濡れていた。


「ソー、マ……?」

「おう」


 いつもと同じ返事だった。

 それで少し安心して、身体を起こそうとした。


 ソーマの左側が、なかった。


 見間違いだと思った。

 制服の破れたところから、自分の膝が見える。そこにあるはずの腕も、身体も、見えない。

 床に広がる赤が、ミズキの服へ染みていた。


「……なに、これ」


 押さえようとした。

 けれど、どこを押さえればいいのか分からなかった。


「なんで……ソーマ、なんで……」


 教室を見た。

 倒れた机。動かない人影。黒い球体。

 途切れていた記憶が、耳の奥へ戻ってきた。


 私が作った。

 必要な魔力量に達した。


「僕……」


 左目に手を当てる。

 まだ、その奥に異物のような熱が残っていた。


「僕の、魔力で……」


 ソーマが名前を呼んだ。

 聞けなかった。


「僕がいなかったら……みんな、ソーマも……!」


 息が吸えない。

 自分の身体の中にあるものが怖かった。皮膚の下を流れるそれを、全部外へ捨ててしまいたかった。


「ごめんなさい……ごめん、なさい……!」


 右腕が背中へ回った。

 強くはなかった。

 それでも、ミズキの身体は止まった。


「こっち、見ろ」


 顔を上げた。

 ソーマが笑おうとしていた。


「お前が……謝ることじゃ、ない」

「でも……」

「お前は、助けてって……言っていいんだよ」


 指が、髪を撫でた。

 うまく動かないのか、途中で止まった。


「ソーマ、帰ろう」


 ミズキはその手を握った。


「帰って……治してもらって。僕、ちゃんと練習するから。言うこと聞くから……」


 ソーマの目が、少しだけ細くなった。


「……うん」

「参観日も、来るって……」


 言った瞬間、ソーマの顔が歪んだ。

 痛みのせいだけではなかった。


「……ごめんな」


 ミズキは首を振った。

 何度も振った。

 謝ってほしくなかった。


 ソーマは、もう一度だけ腕に力を込めた。

 ミズキの額が、胸に触れる。


「お前と暮らせて……楽しかったよ」


 耳元で、声がした。


「ちゃんと……飯、食えよ」


 背中の手が、止まった。


 しばらく、ミズキはそのままでいた。

 続きを待っていた。

 また何か、くだらないことを言うと思った。


「……ソーマ?」


 返事がなかった。


「ねえ」


 顔を見上げる。

 身体が少し傾いた。

 慌てて支えると、握っていた手から力が抜けた。


「……起きて」


 肩を揺すった。


「ねえ、起きてよ」


 昨日まで、うるさいくらいに喋っていた。

 朝も、忘れ物はないかと聞いてきた。

 帰ったら、いるはずだった。


「ソーマ」


 胸に耳を押し当てた。


「ソーマ……!」


 何も聞こえなかった。


     *


 最初に震えたのは、床だった。


 ミズキの足元から、亀裂が伸びた。

 左目の魔法陣が明滅する。途切れた術式が、残された魔力を繋ぎ止めようと走り、その形を保てずに崩れていく。


 カラスマが穴の縁へ手をかけた。


「何をしている。やめろ」


 ミズキには聞こえなかった。

 ソーマの身体を抱いて、声を上げて泣いた。


 光球を作る時は、息を整える。

 身体の中の流れを感じる。

 出したい分だけ、少しずつ。


 教えてくれた声が、もうなかった。


 胸の奥から、魔力が溢れた。

 長い間溜め込まれ、儀式にも使い切られていなかった力が、抑える意思を失って噴き出していく。


 窓ガラスが砕けた。

 机が跳ね上がった。

 黒い球体が押し潰され、内側から裂けた結界へ吸い上げられる。


「止まれ!」


 カラスマは穴の奥へ逃げた。

 新たな出口を開こうとした。

 だが、ソーマの残した光の杭が、境界を離さなかった。


「まだ、あの子に――」


 壁が消えた。


 校舎が持ち上がり、形を失った。

 闇の結界を突き破った魔力が、周囲の建物へ広がっていく。

 道も、屋根も、街路樹も、白い奔流の中へ呑み込まれた。


 ミズキの叫びは、その音にかき消された。


     *


 転移地点から見えたのは、立ち上る土煙だった。


 アイリスは一歩、踏み出した。

 事前に受け取った地図と、目の前の景色が一致しない。

 あるはずの建物がない。

 学校も、周囲の住宅も、道路の先も。


「……ソーマ」


 通信機を押さえる。


「ソーマ、応答して」


 雑音さえ返らなかった。


 背後からイージスの隊員たちが続いた。

 アイリスは喉を押さえるように息を飲み、振り返った。


「生存反応の捜索を。残留魔力に触れないよう、防護を維持して」


 声は出た。

 指示もできた。

 それなのに、足だけが一瞬動かなかった。


 通信機をもう一度押した。


「……来たよ。ソーマ」


 誰も答えなかった。


 捜索隊が瓦礫の間へ散っていく。

 何度も確認の声が飛び交い、そのたびにアイリスは顔を上げた。

 見つからないという報告が続いた。


 やがて、隊員の一人が声を上げた。


「中心部に一名! 生存しています!」


 アイリスは走った。


 深く抉れた地面の底で、少年が横たわっていた。

 制服は破れ、顔は土と涙で汚れている。左目の周囲に、消えかけた魔法陣の痕があった。

 両腕を胸の前へ曲げ、何かを抱くような姿勢で気を失っていた。


 ミズキだった。


 アイリスは膝をついた。

 首元に指を当てる。弱い脈があった。

 安堵しかけて、周囲を見た。

 ソーマの姿はなかった。


 どうして、この子だけ。


 指が止まった。

 今、自分が何を考えたのか、分かってしまった。


「……担架を」


 声を出すまでに、一呼吸かかった。


「魔力抑制具は、呼吸と循環を妨げない範囲で」


 隊員が動く。

 アイリスは少年の首元から手を離し、その手を膝の上で握った。


 少年を担架へ移すと、その身体の下から拳銃が一丁見つかった。

 もう一丁も、すぐ傍らの土に半ば埋もれていた。

 魔力の奔流に削られ、銃身は煤けていた。それでも、イージス製の二丁は形を保っていた。


 アイリスは手袋で土を払い、握りの底を見た。

 見覚えのある、斜めの傷。

 ソーマの銃だった。


 もう片方も拾い上げる。

 いつも彼の両手にあったものが、今はどちらも冷たかった。


「……帰って、きなさいよ」


 思わず漏れた声は、誰にも届かなかった。

 こんなものだけ、帰してこないで。

 握りに残った傷を親指でなぞる。銃は黙って、両手に重く収まっていた。


 アイリスは二丁を並べて布で包み、回収用のケースへ収めた。


「ソーマの装備として記録を。二丁とも、本部へ持ち帰ります」


 隊員が頷いた。

 ケースの蓋が閉じるまで、アイリスは目を離さなかった。


 捜索は続いた。

 けれど、その町でほかに生存者が見つかることはなかった。


     *


 本部に戻ってから、アイリスは何度も通信記録を開いた。

 聞くべき報告は、すでに聞いていた。

 それでも、再生の位置を戻した。


『頼む』


 学校へ向かう前の、短い返事。

 まだ生きている声だった。

 再生が終わると、部屋が静かになった。


「……何が、頼むよ」


 端末を伏せた。

 すぐに裏返した。

 最後の音声になってしまったことが怖くて、消えていないか確かめずにはいられなかった。


 医療区画から、ミズキの容体は安定していると連絡が来た。

 了解、と返信した。

 それ以上の言葉を、打てなかった。


 ソーマは帰ってこない。

 あの子は、生きている。


 ――あの子が、ソーマを殺した。


 浮かんだ言葉に、アイリスは目を閉じた。

 違う。儀式を始めたのは別の人間だ。ミズキは利用され、ソーマは自分の意思で助けに行った。

 あの少年がソーマを殺そうとしたわけではない。

 何度並べても、胸の奥にある言葉は消えなかった。


 あの子に出会わなければ。

 あの子を助けに行かなければ。


 そこまで考えるたび、そんな自分が嫌になった。

 ミズキのいない世界を想像してソーマを取り戻そうとする自分が、嫌だった。


 机の端には、回収した二丁の拳銃のケースがあった。

 報告を終えたら、整備部へ渡さなければならない。

 分かっているのに、手放せなかった。


 アイリスは蓋に額を寄せた。


「止めれば、よかった……」


 一人で行かせなければ。

 もっと早く、到着していれば。

 今度は自分を責める言葉が続いた。誰を責めてもソーマが帰らないことだけが、変わらなかった。


「ばか……」


 いつもなら、向こうで笑う声がした。

 今日は、何もなかった。

 肩が震えた。口を押さえても、嗚咽が漏れた。


     *


 会議の前、アイリスは医療区画に立ち寄った。

 窓越しに見えるベッドで、ミズキが眠っていた。

 現場では土に汚れて分からなかった頬の幼さが、白い枕の上でははっきりと見えた。


 扉に伸ばした手が、止まる。

 目を覚ましたあの子に、何を言えばいい。

 無事でよかったと、言えるだろうか。


 ミズキの唇が動いた。

 室内の音を拾うモニターから、かすれた声が漏れた。


「……ソーマ……」


 アイリスは息を詰めた。

 その名前を呼ばないで、と思った。

 私だって、呼びたい。

 呼んだら返事をしてほしい。


 ミズキは目を覚まさなかった。

 眉を寄せ、空になった手を胸元で握り直した。


 アイリスは扉から手を下ろした。

 あの子も、ソーマを待っている。

 そのことが分かっても、すぐに優しい気持ちにはなれなかった。


 泣き腫らした目を指で押さえ、窓の横へ身を寄せた。

 会議の呼び出しが届くまで、そこに立っていた。


     *


 会議室の中央に、被災範囲を示す映像が浮かんでいた。


 赤い線で囲まれた町。

 消失した学校。

 そして、医療区画で眠るミズキの検査記録。


「回収された通信記録と現場の残留術式は一致している」


 一人の職員が報告書を閉じた。


「少年は人為的に造られた生命体であり、魔力を蓄積する能力を持つ。現時点で、その上限は確認できていない」

「再発の可能性は」

「否定できません。現在は抑制設備下で安定していますが、意識回復後の反応は未知数です」


 沈黙が落ちた。


「ならば、危険因子として排除すべきだ」


 アイリスは膝の上で手を握った。

 返すべき言葉が、すぐには出てこなかった。

 今ここで黙っていれば、あの子の顔を見ずに済むようになるのかもしれない。

 その考えに気づき、爪が掌へ食い込んだ。


「今回の規模で済む保証すらない。収容施設で暴走すれば、本部にも同じことが起こり得る」

「本人は儀式に利用された被害者です」


 口にした声が、少し震えた。

 これは事実だ。自分がミズキをどう思ってしまおうと、変わらない。


「実行者の指示で動いていたわけではありません。拘束され、魔力を奪われていた。それは現場の記録からも――」

「承知している。悪意の有無を論じているのではない」


 相手は声を荒らげなかった。

 その冷静さが、かえって部屋を冷たくした。


「制御できない力が、現に町を壊滅させた。その危険を、誰が引き受ける」


 アイリスは手元を見た。

 閉じた端末に、自分の顔が映っていた。


 定期報告はするからさ。

 サポート、頼んでもいいか。


 あの時、頷いた。

 次の報告も、また軽い調子で届くと思っていた。


「担当者を失ったことは理解している」


 向かいの席から、別の声がした。


「だが、ソーマの死を理由に判断を誤ることはできない」


 アイリスは顔を上げた。


「危険性を否定するつもりはありません」


 喉が痛かった。

 それでも、一語ずつ続けた。


「抑制設備も、継続的な観測も必要です。医療班と連携し、本人が魔力を制御できるよう支援する必要があります」

「それが可能だと?」

「少なくとも、ソーマの指導下では、自分の意思で魔法を使えていました。練習の記録も残っています」


 映像の片隅に、ミズキの顔があった。

 眠っていても、眉の間に力が入っていた。


「目を覚ました時、あの子は、自分に何が起きたのかを知らなければなりません。失ったものも、自分の力が起こしたことも」


 アイリスは息を継いだ。


「それを一人で受け止めさせることは、できません」


「……君が責任を負うというのか」


 机の下で握っていた手を、ほどいた。

 掌には爪の跡が残っていた。


 ミズキの顔を見るたびに、これからも思ってしまうかもしれない。

 どうしてソーマではなく、あなたが生きているのかと。

 そんな顔を見せない自信は、まだなかった。

 ソーマのように抱きしめてやれるとも、思えなかった。


 けれど、だからといって、この会議であの子の命を終わらせていいはずがない。

 ソーマが守った命だった。そして、今も自分と同じ名前を呼びながら、目を覚ませずにいる子供だった。


 胸に残った怒りは消えなかった。

 悲しみも、あの考えを抱いた自分への嫌悪も、そのままだった。

 それをミズキへぶつけそうになったら、自分一人で抱え込まずに助けを求めなければならない。

 守ると言うなら、自分の感情からも守らなければならない。


 アイリスは立ち上がった。


「ミズキは、私が保護します」



     *


 目を開けると、白い天井があった。


 ミズキはしばらく、それを見ていた。

 知らない匂いがする。窓の外は明るく、すぐ近くで規則正しい電子音が鳴っていた。

 左目の周りに、何かが貼られている。

 触れようとした手首には、薄い輪が巻かれていた。


「……起きた?」


 窓際に、女の人が座っていた。

 椅子から立ち上がりかけて、途中で動きを止める。


「ここは、イージスの医療区画。私はアイリス。ソーマと、一緒に仕事をしていたの」


 ソーマ。

 その名前で、喉が狭くなった。


 胸に触れていた腕。

 返事のなくなった声。


「……ソーマは」


 聞かなくても、知っていた。

 それでも、聞いた。

 あれは夢だったと、この人が言ってくれるかもしれなかった。


 アイリスは目を伏せた。

 膝の上で、指を組み直す。


「……亡くなったわ」


 電子音が鳴った。

 ミズキは毛布を見た。

 白い布に置いた自分の手が、ひどく遠くにあるようだった。


「学校の……みんなは?」


 答えが来るまで、時間がかかった。


「学校も、周りの町も、大きく壊れてしまった。捜索したけれど、あなた以外に、助かった人は見つからなかった」


 教室で椅子を引く音を思い出した。

 黒板に字を書く先生の背中。

 名前を呼ばれれば返事をする、そのくらいの距離にいた同級生たち。


「僕が……やったの?」


 アイリスはすぐに答えなかった。


「カラスマが、あなたを儀式に利用したの。左目の魔法陣で魔力を引き出して、生徒たちの命を、自分の娘を生き返らせるために使おうとした」

「……その後」


 ミズキは毛布を握った。


「ソーマが、動かなくなって……僕……」


 アイリスの唇が、かすかに震えた。


「あなたの魔力が暴走した。それが、町を壊した原因だと考えられているわ」


 毛布を握る指に、力が入らなくなった。


「僕、人間じゃないんだって」


 声が妙に平らだった。


「あの人が作ったって。魔力を溜めるために……僕、何も知らなくて」


 学校へ行っていた。

 ご飯を食べていた。

 ソーマが来て、毎日が楽しくなった。

 その間も、自分の中には人を殺すための力が溜まっていた。


「僕がいなければ……」


 アイリスの肩が動いた。


「ソーマも、みんなも……」


 その通りだと、言いそうになった。

 アイリスは息を止めた。

 目の前の少年が口にしたのは、自分が何度も考え、打ち消せなかった言葉だった。


 ミズキは顔を上げなかった。


「ごめんなさい」


 小さな声だった。


「ソーマを……ごめんなさい……」


 許すと言えばいいのだろうか。

 あなたは悪くないと、抱きしめればいいのだろうか。

 椅子の肘掛けを握った手が、動かなかった。


「……私も、まだ」


 アイリスは一度言葉を切った。

 喉の奥が痛かった。


「ソーマがいないことを、受け止められていないの」


 ミズキが、わずかに顔を上げた。


「うまく、話せないこともあると思う」


 ここから先を、ミズキに背負わせてはいけない。

 この子を責めてしまう自分の苦しさまで、謝らせてはいけない。


「でも、私の悲しみまで、あなたが引き受ける必要はないわ」


 言った途端、涙が落ちた。

 慌てて拭ったが、もう一滴、指先を伝った。


「……ごめんなさい。少しだけ、待って」


 ミズキも泣いていた。

 二人とも、しばらく何も言えなかった。

 枕元の機械だけが、変わらない速さで音を刻んでいた。


     *


「僕は、どうなるんですか」


 先に口を開いたのは、ミズキだった。

 手首の輪を、もう片方の手で覆っている。


「ここに、ずっと……?」

「まずは、身体を治す。その輪は、魔力の流れを安定させるためのものよ。今は外さないでね」


 ミズキは小さく頷いた。


「その後は、イージスの保護区画で暮らすことになる。検査を受けながら、魔力を自分で扱えるように練習していくわ」

「また……使うの?」


 指が、輪を強く掴んだ。


「もう、使いたくない」

「……うん」

「また誰かが、死んだら……」


 アイリスは椅子を少しだけベッドへ寄せた。


「すぐに始めなくていい。医療班と相談して、無理のないところからにする。あなたが怖いと感じていることも、ちゃんと伝えるわ」


 絶対に大丈夫、とは言えなかった。

 言ってしまえば、今だけは楽になるかもしれなかった。


「練習するときも、あなた一人には任せない」


 ミズキは黙っていた。

 やがて、窓の方を見た。


「……家も、ないんですよね」


 アイリスは頷いた。


 壁のカレンダーを思い出した。

 ソーマがつけた丸。

 来週になっても、あの日はもう来ない。


「僕、どこに帰れば……」


 言葉が途切れた。

 アイリスは膝の上の手を見つめた。

 まだ、抱きしめることはできなかった。

 けれど、ここを出ていくこともしなかった。


「退院したら、一緒に部屋を見に行きましょう」


 ミズキが振り向いた。


「足りないものを揃えて……その先のことは、一つずつ考えればいい」


 少年は何か言いかけ、やめた。

 代わりに、濡れた目を擦った。


 廊下の向こうで、配膳の台車が止まった。

 アイリスは時計を見て、立ち上がった。


「食事ができるか、先生に聞いてくるわ」


 ミズキの顔が強張った。

 毛布の上で、指先がわずかに浮く。


「……戻って、きますか」


 アイリスは扉の手前で止まった。

 振り返るまでに、一瞬だけ目を閉じた。


「ええ。先生に確認したら、ここへ戻ってくる」


 ミズキは頷いた。

 アイリスは廊下へ出て、壁に手をついた。


 胸は、まだ痛かった。

 ソーマの名前を聞けば泣きたくなるし、あの子の顔を見て浮かんだ思いも、消えてはいない。


 息を整えて、医師に声をかけた。

 食事の許可を確かめ、水と小さな盆を受け取った。


 病室の扉を開けると、ミズキは同じ姿勢で待っていた。

 アイリスを見て、毛布を握っていた手が少し緩んだ。


 ベッドの脇に盆を置く。

 アイリスは、さっきの椅子に座った。

ここまでがプロローグ?です。

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