第1話 帰る場所
タタオと申します。
この作品が初投稿となりますが、よろしくお願いします。
それは、ただひたすらに純粋な願いだった。
「もうすぐだ……」
かすれた声が、静かな部屋に溶けていく。
男はゆっくりと手を伸ばした。誰かの頬に触れるように、何もない空間を指先でなぞる。
「もうすぐ会えるからね」
応える声はない。
それでも男は微笑んだ。
「あと、少しだから」
*
イージス本部の管制室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
壁を埋め尽くすモニターには、観測中の世界の情報が絶えず流れている。その一角で、アイリスは通信端末を睨みつけていた。
「ちょっと、勝手に行動しないで。一人で行く気?」
画面の向こうで、青年が面倒くさそうに肩をすくめる。背後に見えるのは世界間転移施設の通路だった。
「偵察に行くだけだろ。一人で十分だよ」
「そういう問題じゃないの。世界を渡るには申請が必要なの、分かってるでしょ?」
「そのへんは、いつも通り上手いことやっといてくれ」
「もーーーっ!」
周囲のオペレーターが一斉に振り返った。
「どうした?」
「何かあったのか?」
「あ、あはは……ごめんなさい。ちょっと端末の調子が悪くて」
ぎこちない笑顔で取り繕う。皆が業務へ戻るのを待ってから、アイリスは声を落とした。
通信の向こうで、ソーマが笑いを堪えている。
「……笑ってる場合じゃないでしょ」
「悪い悪い」
「観測値は見た? 魔法のない世界に、あの魔力反応よ。普通じゃないの」
「だから見てくるんだろ」
ソーマは軽く手を挙げた。
「じゃ、あと頼むな」
呼び止めようとして、アイリスは口を閉じた。
代わりに、小さく息を吐く。
「……気をつけてね」
「ああ!」
画面が切り替わり、無機質な転移施設の表示だけが残った。
「ほんと……昔から変わらないんだから」
*
学校からの帰り道、変なやつに会った。
それが、彼への第一印象だった。
いつもの道を一人で歩いていると、突然、知らない男が目の前に立ちはだかった。
そして、大きく両手を広げた。
「才能に恵まれし少年よ! 今こそ我がお前の進むべき道へ導いて進ぜよう!」
ミズキは足を止めた。
数秒、男を見つめる。
「おい、なんか言え」
「……はぁ」
ため息をつき、男の脇を通り抜ける。
「待て待て待て待て! どこ行くんだよ!」
「不審者とは話しちゃ駄目だって」
「親にそう言われたのか?」
「……先生に」
「こりゃ失礼」
「じゃあ、これで失礼します」
「だから待てって!」
男が慌てて前へ回り込んだ。
「防犯ブザー鳴らしますよ」
ぴたりと動きが止まる。
男は少しだけ声を低くした。
「……お前、魔法が使えるよな」
「え?」
「あ、いや。まだ使えはしないのか」
「何言って――」
差し出された手のひらに、光が灯った。
小さな球体だった。夕方の薄暗さの中で淡く輝き、指から離れてふわりと浮かぶ。
ミズキは思わず目で追った。
糸も、仕掛けも見えない。
「……な?」
「……『な?』って」
「だから、教えてやるって」
男は得意げに笑った。
それが、ミズキとソーマの出会いだった。
*
「……ついてこないでください」
歩幅を速めても、後ろの足音は離れなかった。
「魔法教えるって言っただろ」
「今じゃなくてもいいでしょう。違う日でも」
「いや、そうなんだけどさぁ……」
急に歯切れが悪くなる。
「……なんですか?」
「この世界に来てすぐ、お前のところに来たもんだからさ」
「世界?」
「あ」
しまった、という顔をした。
「まあ、それは後で説明するとして」
誤魔化した。
絶対に誤魔化した。
「ここでの居住場所、確保してないんだよな」
「だから?」
嫌な予感がした。
男はにやりと笑い、親指を立てる。
「悪い! しばらくの間、お前の家で世話になるわ!」
「え?」
「よろしくな!」
「勝手に決めないでください!」
結局、押し切られる形で連れて帰ってしまった。
家に着くと、ソーマは狭い部屋をぐるりと見回した。
「綺麗にしてるんだな」
「まあ……」
流しに置かれた食器は一人分。玄関に並ぶ靴にも、家族のものらしい大小の違いはない。
ソーマが来た途端、部屋が急に狭くなった気がした。
「……ほんとに一人で生活してんの?」
少しだけ、真面目な声だった。
「いつから?」
「さあ。覚えてないです」
「覚えてない?」
「記憶がないんです」
ミズキは鞄を下ろした。
「でも、この学校に通うとか、お金は定期的にポストに入ってくるとか。そういうことだけは、なんとなく分かってて」
「……」
「なんで分かるのか、僕も分かんないんですけど」
以前は、思い出そうとしたこともあった。
けれど、考えると頭の奥がぼんやりして、何を探していたのかさえ分からなくなる。やがて、考えることをやめた。
学校へ行き、帰ってきて、食べて、眠る。
それで生活は続いていた。
ソーマは何かを考えるように目を伏せた。
そして、ぱん、と手を叩いた。
「まあでも! 今後はもう寂しくないな!」
「ほんとにここに住むんですか?」
「もちろん!」
満面の笑みだった。
「楽しい家庭にしような!」
「……はぁ」
今日だけで、何回ため息をついただろう。
けれどその夜、向かいに座る相手のいる食卓は、いつもより少しだけ明るかった。
*
ミズキの寝息を確かめてから、ソーマは通信機を起動した。
「……ああ、無事接触できた」
『偵察だけって言ったのに』
「そうだっけ?」
『そうよ!』
ソーマが慌てて音量を下げる。
『……で、どうするの?』
「とりあえずは様子見かな」
『危険はないの?』
「魔法がない世界でも、魔力を持って生まれることはあるだろ」
『その魔力量がおかしいんでしょ。人為的な何かがある可能性だってある』
「分かってるよ」
『ほんとに?』
ソーマは眠るミズキへ目を向けた。
布団の端から、細い手首が覗いていた。
「……ああ。その可能性も考えてる」
机には学校の教科書が積まれている。壁のカレンダーには、何も書き込まれていなかった。
「でも、こいつが何事もなく生きていけるなら、それが一番いい」
アイリスは黙って続きを待った。
「魔力を扱えるようになって、この世界で平和に暮らせるなら、それでいい。イージスのある世界へ来たいって言うなら、その時は招いてやればいい」
『……ほんとに大丈夫なの?』
「どうかなぁ」
『ソーマ』
「定期報告はする。妙なことがあったら、すぐ連絡するよ」
今度は笑わずに答えた。
「サポート、頼んでもいいか?」
通信の向こうで、小さく息を吐く音がした。
『……いいよ。付き合ってあげる』
「助かる。頼りにしてる」
ほんの数秒、間が空いた。
『……ばか』
通信が切れた。
ソーマはミズキの布団をそっと掛け直した。
「大丈夫だよ」
眠っている少年に、それだけ言った。
*
それから一週間。
放課後の河川敷で、ミズキは両手を前へ突き出していた。
光が一つ。
また一つ。
合計五つの球体が、夕暮れの空気に浮かび上がる。
「おー、うまいじゃないか!」
「集中してるんだから黙ってて!」
「おー、こわ」
ソーマは肩をすくめて笑った。
ミズキの額には汗が浮かんでいたが、光はまだ強い。
「よし、今日はここまでにするぞ」
「え? まだできるよ」
「分かってる。お前の場合、魔力が切れるまで待ってたら夜になっちまう」
「そんなに?」
「だから、才能があるって言ったろ」
ミズキは自分の手を見た。
一週間前まで、こんなものを出せるとは知らなかった。
「使った魔力って、なくなるんだよね」
「使った分はな。また溜まるけど」
「じゃあ、使いすぎたら?」
「普通は動けなくなる。だから無理はするなよ。魔力が余ってても、身体と頭は疲れるんだから」
ソーマはミズキの額を指先で軽く弾いた。
「ほら、終わり終わり。その玉しまえ。帰るぞ」
「……うん」
ミズキが光を消すと、ソーマは傍らに置いていた鞄を引き寄せた。
口が開いた拍子に、中の金属が夕日を反射した。
「……それ、何?」
ソーマはミズキの視線を追った。
「ああ。俺の仕事道具」
取り出したのは、二丁の拳銃だった。
同じ形をしている。銃身には細い線が幾重にも刻まれ、握りには小さな紋章があった。
片方の握りの底にだけ、斜めの傷がついていた。
「本物?」
「本物。でも、お前の世界の銃とはちょっと違う。自分の魔力を通して使うんだ」
「ソーマも、手から魔法を出せるのに?」
「狙ったところへ、狙った形で届けやすいんだよ。壊すばっかりじゃなくて、壁を作ったり、何かを繋ぎ止めたりな」
ミズキは黙って銃を見つめた。
「……持ってみるか?」
「いいの?」
「少しだけな」
ソーマは二丁とも魔力の供給部を外した。光の消えた紋様を確かめてから、一丁ずつミズキへ渡す。
「これで撃てない。でも、人には向けるなよ」
「うん」
受け取った瞬間、両手が下がった。
見た目より、ずっと重かった。
「……これ、二つも持って走るの?」
「格好いいだろ」
「重い」
「感想それだけ?」
ソーマが笑った。
ミズキは眉を寄せて二丁を持ち直した。握りは手に収まりきらず、片方の底についた傷が指の腹に当たった。
「その傷、どうしたの?」
「昔ちょっと、無茶してな」
「今もしてそう」
「お前、最近遠慮なくなったよな」
ソーマは片膝をつき、下がってきたミズキの手を下から支えた。
「でもまあ、ずっと付き合ってると、この重さが落ち着くんだよ」
その言い方が、さっきまでと少し違った。
ミズキは、掌にある金属をもう一度見た。
「……大事なんだ」
「ああ。何度も助けられた」
ソーマはミズキが返した二丁を、慣れた手つきで受け取った。
銃の重さがなくなっても、手のひらにはまだ、その感触が残っていた。
並んで土手を歩く。
二人分の影が、長く道に伸びていた。
「お前さ。学校どう? 楽しい?」
「普通」
「普通かぁ。友達とかと遊んだりしないの?」
返事がない。
「ていうか、友達いる?」
「ソーマうるさい」
「あっ、いねぇの?」
「うるさい!」
ソーマが声を上げて笑う。
ミズキは足元の小石を蹴った。
「いやでもさ。今後の学校行事とか気になるんだよな」
「……何が」
「授業参観とか」
足が止まった。
ソーマが二歩先で振り返る。
「……くるの?」
思ったより小さな声が出た。
「行く行く!」
何でもないことのように答えてから、ソーマは首を傾げた。
「……え? あんの?」
「……」
「いつ? もしかしてもうすぐか?」
ミズキは俯いた。
顔を見られたくなくて、そのまま走り出す。
「あ、おい! 待てって!」
後ろで足音が追いかけてきた。
「帰ったらちゃんと、いつあるのか教えなさいよー!」
夕焼けの中に、二人の声が響いた。
その夜、ミズキは鞄の底から折れ曲がったプリントを出した。
ソーマは何もからかわず、両手で紙を伸ばした。
「来週か。分かった」
「別に、忙しかったら……」
「行くって」
カレンダーに丸をつける。
何もなかった壁に、一つだけ予定ができた。
*
翌日の、帰りのホームルームだった。
先生が黒板に翌日の持ち物を書いている。
椅子を引く音。誰かが押し殺したあくび。開いた窓から、部活動の掛け声が届いていた。
ミズキは机の端に指を置き、光球を出す時の感覚を思い出していた。
今日は六つ、作れるだろうか。
帰ったらソーマに――。
黒板の前に、縦の線が現れた。
最初は目の錯覚かと思った。
けれど線は、黒板とは無関係に空中に浮いていた。紙を内側から裂くようにゆっくりと広がり、人が一人通れるほどの穴になる。
穴の向こうは、何も見えなかった。
先生が振り返った。
チョークが床へ落ちる。
男が出てきた。
痩せた顔に、落ちくぼんだ目。場違いなほど穏やかな足取りで教壇を降りる。
「どちらの方ですか。今は授業中――」
男は先生を見なかった。
教室を見渡し、ミズキのところで視線を止める。
「ようやくだ」
その声を聞いた瞬間、ミズキの指先が冷えた。
知らない人だ。
そのはずなのに、身体が動かなかった。
「必要な魔力量に達した」
誰かが笑った。何かの悪ふざけだと思ったのかもしれない。
ミズキは椅子を引こうとした。
男が片手を上げた。
左目の奥を、焼けた針で貫かれた。
「あ――っ!」
机に肩がぶつかった。
両手で目を押さえる。痛みは消えない。瞼の裏に、見たこともない文字が次々と刻み込まれていく。
円が重なり、線が結ばれる。
「やめ……やめて……!」
指の隙間から、赤黒い光が漏れた。
腹の底から何かを無理やり引きずり出される。ソーマと練習した時とはまるで違った。止め方を探すことさえできなかった。
「少し、遅れたね」
男が近づいてくる。
「余計な使い方を覚えてしまったからだ」
先生がミズキへ駆け寄ろうとした。
その足元から、黒い膜が噴き上がった。
窓の外が消えた。
夕方の空も、校庭も、向かいの校舎も。流れ落ちる墨のような闇が、学校を包み込んでいた。
教室の照明が何度か瞬き、白い光だけが頼りなく残った。
「全員、廊下へ! 落ち着いて――」
先生の声に、机が一斉に鳴った。
ミズキも立とうとした。
足が床から離れた。
見えない力に胸を引き上げられ、身体が宙へ浮く。
手を伸ばしても机に届かない。首を振っても、左目の光は消えない。
その周りに、黒い球体が生まれ始めた。
小さなものは拳ほど、大きなものは人の背丈ほどもあった。照明を映さない真っ黒な表面が、ゆっくりと揺れていた。
逃げる生徒の一人が、腕でそれを払いのけようとした。
触れた手の形が、崩れた。
指が垂れ、制服の袖ごと黒く濁ったものになって床へ落ちる。
一瞬遅れて、悲鳴が上がった。
「触るな!」
誰かが叫んだ。
廊下へ向かう背中の間に、別の球体が滑り込んだ。ぶつかった生徒の身体が沈み、伸ばした腕も、開いた口も、黒の中へ消えた。
ミズキは息を吸った。
助けを呼ぼうとした。
けれど喉から出るのは、途切れた悲鳴ばかりだった。
「大丈夫。お前は、そのままでいい」
男は微笑んでいた。
ミズキを見ているはずなのに、その目は別の誰かを見つめているようだった。
「もうすぐ、あの子が帰ってくる」
男が後ずさり、開いたままの穴へ半身を沈める。
黒い球体は、男を避けて流れていった。
教室の外からも悲鳴が聞こえた。
いくつも。いくつも。
ミズキは、届くはずのない手を伸ばした。
「……ソー、マ……」
*
買い物袋を提げたソーマが足を止めたのと、通信機が鳴ったのは同時だった。
『ソーマ! ミズキの反応が急激に変化してる!』
遠くで、空の一部が黒く盛り上がっていた。
学校のある方角だった。
「見えてる」
『周囲に大規模な結界。内側の観測が通らない。今、部隊を編成して――』
「先に入る。位置を送るから、追ってきてくれ」
『待って、一人で――』
「中に生徒がいる」
通信が一瞬、静かになった。
『……分かった。経路を確保する。回線は切らないで』
「頼む」
袋を道の脇へ置く。
ソーマは走り出した。
校門へ着いた時、学校は丸ごと黒い壁の向こうに沈んでいた。闇の表面が呼吸するように膨らんでいる。
掌を近づけると、皮膚がひりついた。
「外から閉じただけじゃないな。内側にも術式が走ってる」
『解析する。無理に触らないで』
ソーマは胸元からイージスの徽章を引き出し、指で押さえた。
魔力を流すと、紋章から光がほどけ、全身を包んだ。
普段着の輪郭が光に溶ける。その光が収まった時、ソーマはイージスの制服を纏っていた。
襟を正す間もなく、袖口から裾へ魔力を巡らせる。布地に織り込まれた防護の術式が、淡く浮かび上がった。
腰の前側には、二つのホルスターが並んでいる。
左右の手で、一丁ずつ抜いた。
握りの底についた古い傷に、指が触れた。
『外縁の一部なら干渉できる。今、座標を――』
「受け取った」
左右の銃身に刻まれた紋様が灯る。
右の銃口を、送られてきた座標へ合わせた。
「開けろ」
光の弾丸が、結界を穿った。
亀裂が閉じるより早く、左の銃から二発目を放つ。着弾点に広がった魔法陣が、裂け目を押し開いた。
ソーマはその間へ身体を滑り込ませ、校舎の壁へもう一発撃ち込んだ。
破砕音。
粉塵の向こうから、悲鳴が押し寄せた。
廊下に鞄が落ちていた。
その先に、片方だけの上履き。
壁際では教師が生徒の肩を抱いていた。生徒は袖の先を押さえ、声にならない声を上げている。
ソーマの顔から、表情が消えた。
「そこを動くな!」
ソーマは二人と黒い球体の間へ銃口を向けた。放った光が床に触れ、障壁となって立ち上がる。
接触した障壁が、端から削れていった。
「アイリス、負傷者多数。接触したものを溶かす黒い球体がいる。救護班も必要だ」
雑音が返ってきた。
『……ソーマ……中の……』
音声が途切れる。
視界の奥、開いた教室の扉から異様に濃い魔力が流れ出していた。
ソーマは左の銃から続けて光を放ち、二人の前へ障壁を重ねて固定した。
「光の内側にいてくれ。すぐ戻る」
教室へ踏み込む。
倒れた机の向こうに、黒い穴があった。その奥で、男の顔がこちらを向いた。
ソーマは足を止めた。制服の胸元で、イージスの紋章が淡く光っていた。
「境界守護機関イージス所属、ソーマ。世界間干渉および現地住民への加害を確認した。直ちに術式を停止し、武装を解除しろ」
ソーマは穴の奥にいる男の顔を見据えた。
手配資料で見た顔だった。
「指名手配犯のカラスマだな」
返事はなかった。
カラスマはソーマへ視線さえ向けず、教室の上方を見つめていた。
その唇が、何かを確かめるように小さく動く。
「……もう少しだ」
赤黒い光が、ソーマの目の端で瞬いた。
見上げた先に、ミズキがいた。
天井近くに浮かび、手足を垂らしている。左目に刻まれた魔法陣から、細い光の筋が四方へ伸びていた。
小さく開いた口が、かすかに動く。
「ミズキ!」
踏み出す足元に球体が現れた。
ソーマは机を蹴り、飛び越える。
「近づくな。まだ終わっていない」
「今すぐ止めろ!」
「止める? ここまで待って、ようやく足りたんだぞ」
カラスマの声が初めて荒れた。
「その器を作るのに、どれほどかかったと思っている」
ソーマは一瞬だけカラスマを見た。
「……作る?」
「魔力を、上限なく蓄積できる生命だ。私が作った。必要な知識を与え、暮らす場所を与え、ここまで育てた」
ミズキの首が、わずかに動いた。
意識があるのかは分からなかった。
「お前が消費の仕方など教えなければ、もっと早く済んでいた」
ポストに届く金。空白の記憶。
ソーマの中で、断片が結びついた。
「……何のために」
「娘を帰すためだ」
カラスマは、当然のことのように言った。
「力はその子が蓄えた。あとは、ここにいる命で補えばいい」
廊下で悲鳴が上がった。
カラスマはそちらを見ようともしなかった。
「あの子は何も悪くなかった。まだ生きるはずだった。だから、取り戻す。それだけだ」
ソーマは歯を食いしばった。
言い返すより先に、ミズキの身体が大きく震えた。
魔法陣が一段強く輝く。
「――今、助ける」
床を蹴った。
*
左目の魔法陣そのものを壊せば、ミズキの身体が耐えられない。
ソーマは伸びる光の筋を目で追った。
外へ流れる魔力。少年を吊り上げる拘束。互いに絡み合ってはいるが、同じ術式ではない。
右の銃へ魔力を集中させる。
狙うのはミズキではない。その上で、拘束の術式が結ばれている一点だった。
「邪魔をするな!」
カラスマの叫びとともに、球体が押し寄せた。
ソーマは左の銃から光を撃ち出し、球体との間に障壁を展開した。
一枚、二枚。黒い表面に触れるたび、光が濁り、崩れていく。
その間に、右の引き金を引いた。
弾丸が結び目を貫き、光の筋が切れた。
ミズキの身体が落ちる。
ソーマは二丁をホルスターへ戻しながら踏み込み、両腕で受け止めた。そのまま胸へ抱き込む。
すぐ脇で、最後の障壁が砕けた。
避ければ間に合ったかもしれない。
だが、避けた先にはミズキの頭があった。
ソーマは身体をひねった。
少年を覆うように、背を向ける。
左肩から脇腹に、冷たいものが触れた。
制服に走っていた防護の光が、接触したところから消えた。
布地が溶け、その下の身体も、輪郭を失っていく。
遅れて、息を止めるほどの痛みが来た。
「っ……!」
ミズキだけは離さなかった。
残った力で床を蹴り、球体の群れから転がり出る。
背中を壁へ預けた時には、制服の左側は半身の大部分とともに失われていた。
右腕の中で、ミズキは目を閉じていた。
息はある。
ソーマは震える指を、その頬に当てた。
「……よし」
球体は消えていなかった。
供給を絶っても、学校へ流し込まれた魔力はまだ術式の中を巡っている。
穴の奥で、カラスマが動いた。
「まだやり直せる。その器さえ――」
カラスマがこちらへ伸ばしかけた手を引っ込めた。
ミズキを膝へ抱えたソーマが、残った右手で拳銃を抜き、穴へ向けていた。
「逃がすかよ」
カラスマの背後に、別の裂け目が開きかけた。
ソーマは残る魔力を、握った銃へ注ぎ込んだ。
銃身の紋様が白く輝く。
引き金を引くたび、指先から感覚が遠ざかった。
放たれた弾丸が光の杭となり、穴の縁を貫いた。
カラスマが振り返る。
背後の裂け目が潰れた。穴の内側を走る光が、その空間ごと四方から縫い留めていく。
「何をした!」
「そっちも……この世界に、繋いだ」
ソーマの口から、血がこぼれた。
「もう、抜け道には……ならない」
穴はカラスマを隠すだけの袋小路になった。
どこへ退こうとも、この世界の外へは出られない。
銃身の光が消えた。
ソーマは拳銃を腰へ戻そうとして、指を滑らせた。
乾いた音が、すぐ傍らの床で鳴る。
拾い直す力はなかった。
残る一丁も、緩んだホルスターから抜け落ちた。
ソーマは二丁から手を離し、ミズキを抱き直した。
*
誰かが、名前を呼んでいた。
「……ミズキ」
目を開けると、ソーマの顔があった。
ひどく白かった。
ミズキは何か言おうとして、咳き込んだ。左目が熱い。頬に触れる指も、濡れていた。
「ソー、マ……?」
「おう」
いつもと同じ返事だった。
それで少し安心して、身体を起こそうとした。
ソーマの左側が、なかった。
見間違いだと思った。
制服の破れたところから、自分の膝が見える。そこにあるはずの腕も、身体も、見えない。
床に広がる赤が、ミズキの服へ染みていた。
「……なに、これ」
押さえようとした。
けれど、どこを押さえればいいのか分からなかった。
「なんで……ソーマ、なんで……」
教室を見た。
倒れた机。動かない人影。黒い球体。
途切れていた記憶が、耳の奥へ戻ってきた。
私が作った。
必要な魔力量に達した。
「僕……」
左目に手を当てる。
まだ、その奥に異物のような熱が残っていた。
「僕の、魔力で……」
ソーマが名前を呼んだ。
聞けなかった。
「僕がいなかったら……みんな、ソーマも……!」
息が吸えない。
自分の身体の中にあるものが怖かった。皮膚の下を流れるそれを、全部外へ捨ててしまいたかった。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……!」
右腕が背中へ回った。
強くはなかった。
それでも、ミズキの身体は止まった。
「こっち、見ろ」
顔を上げた。
ソーマが笑おうとしていた。
「お前が……謝ることじゃ、ない」
「でも……」
「お前は、助けてって……言っていいんだよ」
指が、髪を撫でた。
うまく動かないのか、途中で止まった。
「ソーマ、帰ろう」
ミズキはその手を握った。
「帰って……治してもらって。僕、ちゃんと練習するから。言うこと聞くから……」
ソーマの目が、少しだけ細くなった。
「……うん」
「参観日も、来るって……」
言った瞬間、ソーマの顔が歪んだ。
痛みのせいだけではなかった。
「……ごめんな」
ミズキは首を振った。
何度も振った。
謝ってほしくなかった。
ソーマは、もう一度だけ腕に力を込めた。
ミズキの額が、胸に触れる。
「お前と暮らせて……楽しかったよ」
耳元で、声がした。
「ちゃんと……飯、食えよ」
背中の手が、止まった。
しばらく、ミズキはそのままでいた。
続きを待っていた。
また何か、くだらないことを言うと思った。
「……ソーマ?」
返事がなかった。
「ねえ」
顔を見上げる。
身体が少し傾いた。
慌てて支えると、握っていた手から力が抜けた。
「……起きて」
肩を揺すった。
「ねえ、起きてよ」
昨日まで、うるさいくらいに喋っていた。
朝も、忘れ物はないかと聞いてきた。
帰ったら、いるはずだった。
「ソーマ」
胸に耳を押し当てた。
「ソーマ……!」
何も聞こえなかった。
*
最初に震えたのは、床だった。
ミズキの足元から、亀裂が伸びた。
左目の魔法陣が明滅する。途切れた術式が、残された魔力を繋ぎ止めようと走り、その形を保てずに崩れていく。
カラスマが穴の縁へ手をかけた。
「何をしている。やめろ」
ミズキには聞こえなかった。
ソーマの身体を抱いて、声を上げて泣いた。
光球を作る時は、息を整える。
身体の中の流れを感じる。
出したい分だけ、少しずつ。
教えてくれた声が、もうなかった。
胸の奥から、魔力が溢れた。
長い間溜め込まれ、儀式にも使い切られていなかった力が、抑える意思を失って噴き出していく。
窓ガラスが砕けた。
机が跳ね上がった。
黒い球体が押し潰され、内側から裂けた結界へ吸い上げられる。
「止まれ!」
カラスマは穴の奥へ逃げた。
新たな出口を開こうとした。
だが、ソーマの残した光の杭が、境界を離さなかった。
「まだ、あの子に――」
壁が消えた。
校舎が持ち上がり、形を失った。
闇の結界を突き破った魔力が、周囲の建物へ広がっていく。
道も、屋根も、街路樹も、白い奔流の中へ呑み込まれた。
ミズキの叫びは、その音にかき消された。
*
転移地点から見えたのは、立ち上る土煙だった。
アイリスは一歩、踏み出した。
事前に受け取った地図と、目の前の景色が一致しない。
あるはずの建物がない。
学校も、周囲の住宅も、道路の先も。
「……ソーマ」
通信機を押さえる。
「ソーマ、応答して」
雑音さえ返らなかった。
背後からイージスの隊員たちが続いた。
アイリスは喉を押さえるように息を飲み、振り返った。
「生存反応の捜索を。残留魔力に触れないよう、防護を維持して」
声は出た。
指示もできた。
それなのに、足だけが一瞬動かなかった。
通信機をもう一度押した。
「……来たよ。ソーマ」
誰も答えなかった。
捜索隊が瓦礫の間へ散っていく。
何度も確認の声が飛び交い、そのたびにアイリスは顔を上げた。
見つからないという報告が続いた。
やがて、隊員の一人が声を上げた。
「中心部に一名! 生存しています!」
アイリスは走った。
深く抉れた地面の底で、少年が横たわっていた。
制服は破れ、顔は土と涙で汚れている。左目の周囲に、消えかけた魔法陣の痕があった。
両腕を胸の前へ曲げ、何かを抱くような姿勢で気を失っていた。
ミズキだった。
アイリスは膝をついた。
首元に指を当てる。弱い脈があった。
安堵しかけて、周囲を見た。
ソーマの姿はなかった。
どうして、この子だけ。
指が止まった。
今、自分が何を考えたのか、分かってしまった。
「……担架を」
声を出すまでに、一呼吸かかった。
「魔力抑制具は、呼吸と循環を妨げない範囲で」
隊員が動く。
アイリスは少年の首元から手を離し、その手を膝の上で握った。
少年を担架へ移すと、その身体の下から拳銃が一丁見つかった。
もう一丁も、すぐ傍らの土に半ば埋もれていた。
魔力の奔流に削られ、銃身は煤けていた。それでも、イージス製の二丁は形を保っていた。
アイリスは手袋で土を払い、握りの底を見た。
見覚えのある、斜めの傷。
ソーマの銃だった。
もう片方も拾い上げる。
いつも彼の両手にあったものが、今はどちらも冷たかった。
「……帰って、きなさいよ」
思わず漏れた声は、誰にも届かなかった。
こんなものだけ、帰してこないで。
握りに残った傷を親指でなぞる。銃は黙って、両手に重く収まっていた。
アイリスは二丁を並べて布で包み、回収用のケースへ収めた。
「ソーマの装備として記録を。二丁とも、本部へ持ち帰ります」
隊員が頷いた。
ケースの蓋が閉じるまで、アイリスは目を離さなかった。
捜索は続いた。
けれど、その町でほかに生存者が見つかることはなかった。
*
本部に戻ってから、アイリスは何度も通信記録を開いた。
聞くべき報告は、すでに聞いていた。
それでも、再生の位置を戻した。
『頼む』
学校へ向かう前の、短い返事。
まだ生きている声だった。
再生が終わると、部屋が静かになった。
「……何が、頼むよ」
端末を伏せた。
すぐに裏返した。
最後の音声になってしまったことが怖くて、消えていないか確かめずにはいられなかった。
医療区画から、ミズキの容体は安定していると連絡が来た。
了解、と返信した。
それ以上の言葉を、打てなかった。
ソーマは帰ってこない。
あの子は、生きている。
――あの子が、ソーマを殺した。
浮かんだ言葉に、アイリスは目を閉じた。
違う。儀式を始めたのは別の人間だ。ミズキは利用され、ソーマは自分の意思で助けに行った。
あの少年がソーマを殺そうとしたわけではない。
何度並べても、胸の奥にある言葉は消えなかった。
あの子に出会わなければ。
あの子を助けに行かなければ。
そこまで考えるたび、そんな自分が嫌になった。
ミズキのいない世界を想像してソーマを取り戻そうとする自分が、嫌だった。
机の端には、回収した二丁の拳銃のケースがあった。
報告を終えたら、整備部へ渡さなければならない。
分かっているのに、手放せなかった。
アイリスは蓋に額を寄せた。
「止めれば、よかった……」
一人で行かせなければ。
もっと早く、到着していれば。
今度は自分を責める言葉が続いた。誰を責めてもソーマが帰らないことだけが、変わらなかった。
「ばか……」
いつもなら、向こうで笑う声がした。
今日は、何もなかった。
肩が震えた。口を押さえても、嗚咽が漏れた。
*
会議の前、アイリスは医療区画に立ち寄った。
窓越しに見えるベッドで、ミズキが眠っていた。
現場では土に汚れて分からなかった頬の幼さが、白い枕の上でははっきりと見えた。
扉に伸ばした手が、止まる。
目を覚ましたあの子に、何を言えばいい。
無事でよかったと、言えるだろうか。
ミズキの唇が動いた。
室内の音を拾うモニターから、かすれた声が漏れた。
「……ソーマ……」
アイリスは息を詰めた。
その名前を呼ばないで、と思った。
私だって、呼びたい。
呼んだら返事をしてほしい。
ミズキは目を覚まさなかった。
眉を寄せ、空になった手を胸元で握り直した。
アイリスは扉から手を下ろした。
あの子も、ソーマを待っている。
そのことが分かっても、すぐに優しい気持ちにはなれなかった。
泣き腫らした目を指で押さえ、窓の横へ身を寄せた。
会議の呼び出しが届くまで、そこに立っていた。
*
会議室の中央に、被災範囲を示す映像が浮かんでいた。
赤い線で囲まれた町。
消失した学校。
そして、医療区画で眠るミズキの検査記録。
「回収された通信記録と現場の残留術式は一致している」
一人の職員が報告書を閉じた。
「少年は人為的に造られた生命体であり、魔力を蓄積する能力を持つ。現時点で、その上限は確認できていない」
「再発の可能性は」
「否定できません。現在は抑制設備下で安定していますが、意識回復後の反応は未知数です」
沈黙が落ちた。
「ならば、危険因子として排除すべきだ」
アイリスは膝の上で手を握った。
返すべき言葉が、すぐには出てこなかった。
今ここで黙っていれば、あの子の顔を見ずに済むようになるのかもしれない。
その考えに気づき、爪が掌へ食い込んだ。
「今回の規模で済む保証すらない。収容施設で暴走すれば、本部にも同じことが起こり得る」
「本人は儀式に利用された被害者です」
口にした声が、少し震えた。
これは事実だ。自分がミズキをどう思ってしまおうと、変わらない。
「実行者の指示で動いていたわけではありません。拘束され、魔力を奪われていた。それは現場の記録からも――」
「承知している。悪意の有無を論じているのではない」
相手は声を荒らげなかった。
その冷静さが、かえって部屋を冷たくした。
「制御できない力が、現に町を壊滅させた。その危険を、誰が引き受ける」
アイリスは手元を見た。
閉じた端末に、自分の顔が映っていた。
定期報告はするからさ。
サポート、頼んでもいいか。
あの時、頷いた。
次の報告も、また軽い調子で届くと思っていた。
「担当者を失ったことは理解している」
向かいの席から、別の声がした。
「だが、ソーマの死を理由に判断を誤ることはできない」
アイリスは顔を上げた。
「危険性を否定するつもりはありません」
喉が痛かった。
それでも、一語ずつ続けた。
「抑制設備も、継続的な観測も必要です。医療班と連携し、本人が魔力を制御できるよう支援する必要があります」
「それが可能だと?」
「少なくとも、ソーマの指導下では、自分の意思で魔法を使えていました。練習の記録も残っています」
映像の片隅に、ミズキの顔があった。
眠っていても、眉の間に力が入っていた。
「目を覚ました時、あの子は、自分に何が起きたのかを知らなければなりません。失ったものも、自分の力が起こしたことも」
アイリスは息を継いだ。
「それを一人で受け止めさせることは、できません」
「……君が責任を負うというのか」
机の下で握っていた手を、ほどいた。
掌には爪の跡が残っていた。
ミズキの顔を見るたびに、これからも思ってしまうかもしれない。
どうしてソーマではなく、あなたが生きているのかと。
そんな顔を見せない自信は、まだなかった。
ソーマのように抱きしめてやれるとも、思えなかった。
けれど、だからといって、この会議であの子の命を終わらせていいはずがない。
ソーマが守った命だった。そして、今も自分と同じ名前を呼びながら、目を覚ませずにいる子供だった。
胸に残った怒りは消えなかった。
悲しみも、あの考えを抱いた自分への嫌悪も、そのままだった。
それをミズキへぶつけそうになったら、自分一人で抱え込まずに助けを求めなければならない。
守ると言うなら、自分の感情からも守らなければならない。
アイリスは立ち上がった。
「ミズキは、私が保護します」
*
目を開けると、白い天井があった。
ミズキはしばらく、それを見ていた。
知らない匂いがする。窓の外は明るく、すぐ近くで規則正しい電子音が鳴っていた。
左目の周りに、何かが貼られている。
触れようとした手首には、薄い輪が巻かれていた。
「……起きた?」
窓際に、女の人が座っていた。
椅子から立ち上がりかけて、途中で動きを止める。
「ここは、イージスの医療区画。私はアイリス。ソーマと、一緒に仕事をしていたの」
ソーマ。
その名前で、喉が狭くなった。
胸に触れていた腕。
返事のなくなった声。
「……ソーマは」
聞かなくても、知っていた。
それでも、聞いた。
あれは夢だったと、この人が言ってくれるかもしれなかった。
アイリスは目を伏せた。
膝の上で、指を組み直す。
「……亡くなったわ」
電子音が鳴った。
ミズキは毛布を見た。
白い布に置いた自分の手が、ひどく遠くにあるようだった。
「学校の……みんなは?」
答えが来るまで、時間がかかった。
「学校も、周りの町も、大きく壊れてしまった。捜索したけれど、あなた以外に、助かった人は見つからなかった」
教室で椅子を引く音を思い出した。
黒板に字を書く先生の背中。
名前を呼ばれれば返事をする、そのくらいの距離にいた同級生たち。
「僕が……やったの?」
アイリスはすぐに答えなかった。
「カラスマが、あなたを儀式に利用したの。左目の魔法陣で魔力を引き出して、生徒たちの命を、自分の娘を生き返らせるために使おうとした」
「……その後」
ミズキは毛布を握った。
「ソーマが、動かなくなって……僕……」
アイリスの唇が、かすかに震えた。
「あなたの魔力が暴走した。それが、町を壊した原因だと考えられているわ」
毛布を握る指に、力が入らなくなった。
「僕、人間じゃないんだって」
声が妙に平らだった。
「あの人が作ったって。魔力を溜めるために……僕、何も知らなくて」
学校へ行っていた。
ご飯を食べていた。
ソーマが来て、毎日が楽しくなった。
その間も、自分の中には人を殺すための力が溜まっていた。
「僕がいなければ……」
アイリスの肩が動いた。
「ソーマも、みんなも……」
その通りだと、言いそうになった。
アイリスは息を止めた。
目の前の少年が口にしたのは、自分が何度も考え、打ち消せなかった言葉だった。
ミズキは顔を上げなかった。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
「ソーマを……ごめんなさい……」
許すと言えばいいのだろうか。
あなたは悪くないと、抱きしめればいいのだろうか。
椅子の肘掛けを握った手が、動かなかった。
「……私も、まだ」
アイリスは一度言葉を切った。
喉の奥が痛かった。
「ソーマがいないことを、受け止められていないの」
ミズキが、わずかに顔を上げた。
「うまく、話せないこともあると思う」
ここから先を、ミズキに背負わせてはいけない。
この子を責めてしまう自分の苦しさまで、謝らせてはいけない。
「でも、私の悲しみまで、あなたが引き受ける必要はないわ」
言った途端、涙が落ちた。
慌てて拭ったが、もう一滴、指先を伝った。
「……ごめんなさい。少しだけ、待って」
ミズキも泣いていた。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
枕元の機械だけが、変わらない速さで音を刻んでいた。
*
「僕は、どうなるんですか」
先に口を開いたのは、ミズキだった。
手首の輪を、もう片方の手で覆っている。
「ここに、ずっと……?」
「まずは、身体を治す。その輪は、魔力の流れを安定させるためのものよ。今は外さないでね」
ミズキは小さく頷いた。
「その後は、イージスの保護区画で暮らすことになる。検査を受けながら、魔力を自分で扱えるように練習していくわ」
「また……使うの?」
指が、輪を強く掴んだ。
「もう、使いたくない」
「……うん」
「また誰かが、死んだら……」
アイリスは椅子を少しだけベッドへ寄せた。
「すぐに始めなくていい。医療班と相談して、無理のないところからにする。あなたが怖いと感じていることも、ちゃんと伝えるわ」
絶対に大丈夫、とは言えなかった。
言ってしまえば、今だけは楽になるかもしれなかった。
「練習するときも、あなた一人には任せない」
ミズキは黙っていた。
やがて、窓の方を見た。
「……家も、ないんですよね」
アイリスは頷いた。
壁のカレンダーを思い出した。
ソーマがつけた丸。
来週になっても、あの日はもう来ない。
「僕、どこに帰れば……」
言葉が途切れた。
アイリスは膝の上の手を見つめた。
まだ、抱きしめることはできなかった。
けれど、ここを出ていくこともしなかった。
「退院したら、一緒に部屋を見に行きましょう」
ミズキが振り向いた。
「足りないものを揃えて……その先のことは、一つずつ考えればいい」
少年は何か言いかけ、やめた。
代わりに、濡れた目を擦った。
廊下の向こうで、配膳の台車が止まった。
アイリスは時計を見て、立ち上がった。
「食事ができるか、先生に聞いてくるわ」
ミズキの顔が強張った。
毛布の上で、指先がわずかに浮く。
「……戻って、きますか」
アイリスは扉の手前で止まった。
振り返るまでに、一瞬だけ目を閉じた。
「ええ。先生に確認したら、ここへ戻ってくる」
ミズキは頷いた。
アイリスは廊下へ出て、壁に手をついた。
胸は、まだ痛かった。
ソーマの名前を聞けば泣きたくなるし、あの子の顔を見て浮かんだ思いも、消えてはいない。
息を整えて、医師に声をかけた。
食事の許可を確かめ、水と小さな盆を受け取った。
病室の扉を開けると、ミズキは同じ姿勢で待っていた。
アイリスを見て、毛布を握っていた手が少し緩んだ。
ベッドの脇に盆を置く。
アイリスは、さっきの椅子に座った。
ここまでがプロローグ?です。




