歩み
金曜日。時計の針は既に21時を回っていた。
残業を終え、缶ビール二本と幕の内弁当が入った袋をぶら下げ、最寄駅から自宅への道を歩いていた。家に帰り、電気をつけると視界には七畳程のリビングが広がる。壁際に20インチのテレビ、その目の前には背の低い木製の机が置いてある。
陽はテレビとは反対側の壁に設置してあるベッドへ袋を持ったままダイブした。
「ほんっとムカつく!なんで明らかに帰る準備してる人に追加の仕事投げるのよ」
枕元のクマのぬいぐるみに向かって愚痴ってみたものの返事が返ってくるはずもなく、十秒ほどの沈黙が続いた。
「まあ、こういう日は飲むに限るでしょ!明日は休みなんだし」
陽は袋の中にある日本の缶ビールのうち一本を机に置き、一本を冷蔵庫へとしまい、幕の内弁当をレンジで温めた。減っていくレンジの最初の10秒だけ見届けると、スマホで大好きなあいみょんの曲を流した。音量を最大まで上げたいところだが、なにせ、壁の薄いマンションで以前、隣の部屋の住人が管理人伝えでクレームを入れてきたので程々にしておいた。音源に合わせて歌詞を口ずさみながらレンジの残り一秒を見届けた。机の上に温めた弁当と先ほどのビールをセットし、テレビを付けたタイミングで「いただきまーす」と誰かに聞かせるように言い放ち、食べ始めた。テレビでは報道番組ばかりやっており、今日あった事件や事故などが流れていた。
「全く、今の世の中は本当に物騒だなー」
その発言に自分でも他人事だなと心の中で思った。
「あー、食べた食べた。お腹いっぱい!」
空の弁当を前にお腹を摩っていると、「ピロン」と携帯から音がした。画面を見ると会社からのメールで件名に「健康診断 結果通知」とあった。どうやら1ヶ月ほど前に受診した健康診断の結果が出たようで、週明けに渡されるとのことだ。
「そういや、受けたわね〜。すっかり忘れてた」
ヘラヘラとしながら冷蔵庫へと向かい、二本目のビールを取ると、その下にある冷凍庫から買い溜めしてあるアイスを一本取った。私はお酒が大好きだが、それと同じくらい甘いものも好きだ。特に、苦味のあるビールを飲んだ後に食べるとより甘さが強調され、それがなんとも言えないくらい美味しい。
「んーー!美味しい!」
あっという間に一本食べると止まらなくなってしまい、結局三本も食べてしまった。多少罪悪感はあるものの、このひとときの幸せを味わえるのなら別に構わない。そう、自分に言い聞かせてしばらくテレビを見ていると、急激に眠気が襲ってきたので、素早く歯を磨いてベッドに潜った。
「今週もお疲れ、私」
次の日、アラームなどかけていないはずの携帯からの音で目が覚めた。まだ半分似ているような状態で目を擦りながら画面を見ると、「桜子」と表示されていた。桜子というのは私の高校時代からの親友で本名を櫻井桜子という。まさに「サクラ」と言ったような感じの雰囲気の子で、こんな私の性格にも色々と合わせてくれるから本当にいい子だ。寝起きでパスワードを解除するのが難しく、ニ、三回間違えた後に電話に出た。
「もしもし…」
「もしもしー?陽ちゃん?」
「あれぇ…どうしたの?」
「やっぱり陽ちゃん、まだ寝てたー笑 今日一緒にケーキバイキング行く約束だったじゃん!」
その言葉を聞いた瞬間、一気に瞼が軽くなり、一度見たはずの時間を再度確認した。スマホには「10:30」と表示されていた。
「あれ?!集合は12:30だったよね?!まだセーフだよね?!」
「まだ全然セーフだよ笑 けど、一応電話しておいたって感じ」
桜子の行動は正しかった。あのまま連絡がなかったら私はお昼過ぎまで寝ていたかもしれない。「流石、私の親友!」と電話越しに勝手に誇らしくなっていた。
「ありがとー、桜子」
「全然大丈夫だよ、私も今日楽しみにしてたから。じゃあ、また十二時半にね!」
「了解!」
そう言って電話を切ると、そのままお風呂場へ直行し、素早くシャワーを浴びた。お風呂から上がると、冷蔵庫から作り置きしてある麦茶のポットを取り出し、コップに注いで一気飲みする。お腹も空いていたが、これからケーキを食べに行くので、何も食べなかかった。
十二時半。桜子と合流し、ケーキバイキングのある会場へと向かう。桜子の服装はまるで春の朝霞をそのまま仕立てたみたいだった。他の人ではこれほど着こなせないのではないかと思うほど桜子のイメージにぴったりだった。
「いやー、それにしても今日も可愛いねー」
私は本気でそう思っていたが、あまり真剣なトーンで言うと桜子を困惑させてしまうと思い、半分くらい、からかいの成分を含んだような言い方を選んだ。
「ありがと。陽ちゃんもとっても可愛いよ」
私は私で少し大人っぽい服装を選んでいた。桜子は童顔で背もあまり高くないため、並んで歩くとどうしても私が大人っぽく見えてしまうので逆に強調することにしている。あとは、もし桜子にナンパしてくるような男どもがいたら私が守ってあげると言う自分へのカルマを背負っている。
会場に到着すると、既に多くの人が集まっていた。若い女性や、子供を連れた母親らしき人も多く見られ、中にはスイーツとは無縁のように思える強面のおじさんも数人いた。
「すごい人だね! 早く食べないと無くなっちゃうよ」
興奮気味の桜子はそう言い放つと早歩きでケーキのある方へと向かって行った。私も少し興奮気味で変な顔になっていたと思う。
たらふくケーキを食べた私たちは帰路へとついていた。お互いにケーキの食べ過ぎで、「しばらく甘いものはいらないね」などと笑い合っていた。途中、桜子が「仕事用のノートとボールペンを買いたい」と言うのでそれに付き合い、家に着いたのは十七時ごろだった。ケーキの食べ過ぎで何も食べる気が起きなかったので、しばらくベッドに寝転がりながら、テレビとスマホを交互に見るような時間が続いた。不意に桜子から「今日は楽しかった。ありがとう」というメッセージが届き、「こちらこそ」などと返しているこの時、私は週明けに知らされる悲報をまだ知らなかった。
私の会社は、電車を乗り継いで大体四十分程の距離にあり、駅からもそれほど歩かないので通勤としてはとても楽だった。週明け、私が出勤すると、オフィスがいつもより賑わっていた。周りの人達の「よかったー」とか「お前どうだった?」とかいう会話を聞いた後に机の上に置かれている茶色い封筒を見て初めて察しがついた。
「あ、健康診断の結果か」
私は席につき、パソコンを開いてメールを確認した後、その封筒を開いた。中にはA4サイズの紙が二枚ほど入っていた。一枚目の紙に目をやると、上からA、A、B、B、A、C、Bと並んでおり、私は真っ先にCの項目に目をやった。詳細欄にはLDLコレステロール値が高いと言う記載があり、私の体は一気に冷や汗に覆われ、すぐにスマホを取り出し、検索欄に「LDLコレステロール 高い」と入れた。どうやら糖分の摂りすぎや運動不足が原因となることが多いらしい。私は頭の中で日々の生活を思い起こしてみたが、甘いお菓子やスイーツを食べてる姿が浮かび上がり、その中には先日、櫻子と行ったケーキバイキングも含まれていた。逆に、運動している姿はどこにもなかった。私はスマホの電源を落とし、「当然の結果か…」とスマの画面に映る自分の姿にわ語りかけるように小さく呟いた。
仕事が終わり帰宅した後、もう一度健康診断の結果を見直すと、コレステロールちに気を取られていて気づかなかったが、視力もかなり低下していた。これについても心当たりはある。
「陽ちゃんは多分、画面見過ぎだよ。テレビとか、スマホとか」
電話越しで桜子が答えを出してくれた。
「やっぱりそうかー…」
「コレステロール値はちょっと甘い物食べ過ぎてた?」
桜子は私を気遣ってか、トーンを抑えた柔らかめな声で尋ねた。
「んー、そうだと思う。この前のケーキバイキングもそうだし、コンビニでスイーツとかよく買っちゃうからなー」
「再検査はいつなの?」
「三ヶ月後。それまでになんとか改善しないとなー」
ベッドに寝転がり、伸びをしながら答えると、少し変な声になった。
「じゃあ、一旦甘いものは控えよう。私も一緒に我慢するから」
普段柔らかい桜子の声が少し強く感じられた。
「わかった」
私はそこで後先のことは何も考えず、甘い物を封印し、画面を見る頻度も少なくする決心をした。
ストイック生活一週間目。いつものように朝ご飯を食べ、会社に向かう途中にコンビニに寄る。会社近くのこの店舗はお昼時は特に混むので、いつも先に買うことにしていた。何も考えずに一通りカゴに入れ終え、レジに向かう途中でカゴを見直すと、ミートソース、ロールケーキ、ミルクティーが入っていた。私は慌てて全ての商品を元の位置に戻した。
「ダメだ、これじゃあ何も変わらない」
私は隣にいた人にギリ聞こえない程度でそう呟き、小さめの玄米弁当とヨーグルト、そして脂肪燃焼の緑茶をカゴに入れ、そのままレジに向かった。その時だけはレジのお兄さんが感心したような表情に見えた。
金曜日の夜。ストイック生活一週間目の平日が終わると桜子と電話で経過報告をした。
「陽ちゃん、一週間どうだった?」
聞き慣れているはずの親友の声はまるで母親のように聞こえ、私は自分が相当疲れていることに初めて気づいた。
「甘い物もテレビやスマホもかなり我慢したよー」
「陽ちゃん相当声が疲れてるね。ちょっと我慢しすぎなんじゃない?」
桜子も私の声を聞いて心配な様子だった。
「んー、それでも極端に制限しないと私の場合すぐに手を伸ばしちゃいそうで…」
「ならさ!」
桜子の声が一気にいつもの声に戻る
「これを機に別のものに挑戦してみたら!?」
「別のものって?」
「甘いものを忘れるくらい没頭できる何かを見つけるんだよ!」
「えー、何かあるあるかなー。ゲームとか?」
「それじゃあ、今より眼が疲れちゃうよー」
桜子は答えが既に知っているような言い方をし、私がしばらく正解を出せないでいると
「陽ちゃん!読書だよ!読書!」
私は桜子の大きな声に思わずびっくりした。
「読書?」
桜子はその見た目通りと言ってもいい趣味の一つで本を読むのが大好きだった。元々、女学生時代にも休み時間はずっと本を読んでおり、その姿があまりにも絵になり過ぎていて、「こんな可愛い子と友達になりたい!」と思ったのがきっかけだった。しかし、私はどうも字を読むのが苦手で、すぐ眠くなってしまうので桜子と友達になってからも一緒に本を読んだりすることはなかった。
「読書かー」
私は分かりやすく渋い声を上げた。
「私、文字読むと眼が疲れちゃうんだよね」
「別に眼が疲れたら休憩していいし、スマホとかテレビ見るよりは全然いいと思うよ」
桜子はまるで我が子に教えるような優しい口調で話した。
「そうかなー」
「それに、本を読むと自分の中の世界が広がるんだよ!」
「んー、よくわからない…」
「まあ、その辺は読み続けてれば分かるよ。とにかく私は読書おすすめ!」
「わかった。考えておくね」
そう言って電話を切ると、しばらくの間一人で沈黙を繰り返していた。
土曜日。窓の外では雨が降っていた。
電話を切った後も、私はベッドに寝転がったまま天井を見ていた。読書。私の人生の中で最も縁遠い趣味かもしれない。学生時代の読書感想文ですら、あとがきを読んでなんとか文字数を埋めていたくらいだ。
「読書ねぇ……」
呟きながらスマホに手を伸ばしかけて、私は手を止めた。
「……ダメだって決めたじゃん」
ベッドから起き上がり、なんとなく窓の外を見る。街灯に照らされた雨は、白い糸みたいに見えた。
気づけば私は部屋着のまま外へ出ていた。
駅前のショッピングモールの中に、小さな本屋がある。普段なら素通りする場所だったが、その日は妙に入り口の暖色の光が気になった。
店内は静かだった。紙の匂いと、控えめなBGM。私は場違いな場所に来てしまった気分になりながら棚の間を歩いた。
「うわ……何がなんだかわかんない」
小説、エッセイ、自己啓発、新書。タイトルを見ても全然頭に入ってこない。
その時、ふと一冊の文庫本が目に入った。
表紙には、どこか寂しそうな女の子のイラストが描かれていた。私はなんとなく手に取る。裏表紙のあらすじを読んでみると、不思議と少しだけ気になった。
「まあ、一冊くらいなら……」
そうして私は人生で初めて、自分の意思で小説を買った。
家に帰ると、早速ベッドに寝転がって本を開いた。最初の数ページは、正直全然頭に入ってこなかった。文字を追っているはずなのに、内容が右から左へ流れていく。
「やっぱ向いてないかも……」
閉じようとした時、桜子の言葉を思い出した。
『読み続けてれば分かるよ』
「……もうちょいだけ」
そこから十分。二十分。
気づけば私はページをめくる手を止められなくなっていた。
頭の中に景色が浮かぶ。登場人物の声が聞こえる。私はただ文字を読んでいるはずなのに、いつの間にか誰かの人生を覗き込んでいた。
「……なにこれ」
読み終わった頃には、窓の外が少し明るくなり始めていた。
私は本を閉じたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥に、小さな熱みたいなものが残っていた。
翌週から、私の生活は少しずつ変わり始めた。
コンビニへ行ってもスイーツコーナーへ直行することは減った。その代わり、本屋へ寄る回数が増えた。最初は桜子におすすめされた本ばかり読んでいたが、次第に自分でも選ぶようになった。
ミステリー。恋愛小説。エッセイ。
知らない世界が無限にあった。
特に不思議だったのは、甘いものを我慢する苦しさが少し薄れていたことだった。
本を読んでいる時間は、何かを食べたいという感覚を忘れられる。
もちろん、完全に変わったわけではない。仕事帰りにコンビニスイーツを手に取りかけることも何度もあった。でも、その度に「今日は帰ったら続きを読むんだ」と思えるようになっていた。
三週間ほど経った頃。
昼休みに会社の休憩室で本を読んでいると、同じ部署の先輩が驚いた顔をした。
「え、陽って本読むんだ」
「最近ちょっとだけですけどね」
「意外だなー」
自分でもそう思う。
以前の私なら、昼休みはずっとスマホを見ていた。
その日の帰り道、私はふと気づいた。
夜風が気持ちいい。
前まではイヤホンを付け、スマホを見ながら歩いていたせいで、こんなこと考えたこともなかった。
季節は少しずつ春から初夏へ変わろうとしていた。
ある日曜日。私は桜子とカフェに来ていた。
「陽ちゃん、最近顔色良くなったね」
「ほんと?」
「うん。前より疲れてない感じする」
そう言われて、私は少し考えた。
確かに最近、夜更かしが減った。寝る前に延々と動画を見ることもなくなったし、甘いものを食べる頻度もかなり減っている。
「まあ、読書効果かも」
「でしょー?」
桜子は得意げだった。
「でも意外だったなー。陽ちゃんがこんなにハマるなんて」
「私も」
私は苦笑した。
「なんかさ。本読んでると、自分の悩みって世界の全部じゃないんだなって思えるんだよね」
桜子が少しだけ目を丸くした。
「……うん」
「色んな人の人生とか考え方とか知れるからかな。うまく言えないけど」
「それが“世界が広がる”ってことだよ」
私は「あー」と小さく声を漏らした。
あの時、桜子が言っていた意味が少しだけ分かった気がした。
三ヶ月後。
再検査の日がやってきた。
病院の待合室で、私は落ち着かない気持ちで番号を待っていた。もし改善してなかったらどうしよう。結局また甘いもの食べてた日もあったし。
「神崎陽さーん」
呼ばれて診察室へ入る。
医師はパソコンの画面を見ながら言った。
「前回よりかなり改善してますね」
「……え?」
「LDLコレステロール値、正常範囲近くまで下がってます」
私は思わず顔を上げた。
「ほんとですか!?」
「急激なダイエットではなく、生活習慣を改善したのが良かったんでしょうね。このまま続けてください」
病院を出た瞬間、私はすぐに桜子へ電話をかけた。
「もしもし!?」
「陽ちゃん!?どうしたの!?」
「下がってた!!コレステロール!!」
電話越しに桜子の嬉しそうな声が響く。
「やったじゃん!!」
「ありがとう桜子!マジでありがとう!」
「いやいや、頑張ったのは陽ちゃんだから」
駅までの道を歩きながら、私は空を見上げた。
青空だった。
たった数ヶ月前まで、私は健康診断の結果に怯えて、好きなものを我慢することしか考えていなかった。
でも今は違う。
何かを失うためじゃなく、新しいものを得るために変わろうとしている。
「……なんか、不思議だな」
人って、案外変われるのかもしれない。
その日の夜。
私はコンビニに寄った。
スイーツコーナーの前で少し立ち止まる。
そして数秒悩んだ後、小さなプリンを一つだけカゴに入れた。
「まあ、今日くらいはいいでしょ」
部屋に帰り、机の上にプリンを置く。その隣には、今読んでいる途中の文庫本があった。
私はテレビを付けず、静かな部屋で本を開いた。
少し読んだ後、プリンを一口食べる。
「……ん、美味しい」
前みたいに無我夢中で食べたいとは思わなかった。
ちゃんと味わえる。
ちゃんと満足できる。
それが少しだけ嬉しかった。
ページをめくる音だけが部屋に響く。
ふと視線を上げると、枕元のクマのぬいぐるみが目に入った。
「今週もお疲れ、私」
そう呟くと、私はまた静かにページをめくった。




