19
焚き火の火が、静かに揺れている。
ラティアの「少しだけなら……見てみたいかも」という言葉は、まだ空気の中に残っていた。
カイルは満足そうに頷き、サラは穏やかに微笑む。
けれど、何も言わない男がひとりいる。
ユリス。
彼はカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
焚き火の向こうから、ラティアを見下ろす。
「少しだけ、か」
低い声。
責める響きはない。
ただ、確認するように。
ラティアは小さく頷く。
「……全部は、こわい」
正直な言葉。
ユリスは数秒、黙って彼女を見ていた。
やがて、視線を結界の縁へ向ける。
淡い光の向こうに広がる森。
そのさらに先に、雪山。
そして世界。
「なら」
短い間。
焚き火がぱちりと弾ける。
「俺が案内する」
静かに落ちた言葉。
ラティアの呼吸が止まる。
「……え」
カイルが吹き出しそうになるのを、必死に堪える。
サラは目を細める。
ユリスは続ける。
「遠くへは行かない」
淡々と。
「結界の近く。半日で戻れる距離だ」
それは任務の説明のようでいて、違う。
「危険があれば、俺が対処する」
断言。
迷いのない声音。
ラティアの胸が、大きく打つ。
守られる言葉。
けれど同時に、
“外へ出る前提”の言葉。
「……わたしが、ついていっても?」
かすれた問い。
ユリスはわずかに眉を動かす。
「お前が行きたいと言った」
事実だけを述べる。
「だから案内する」
それだけ。
余計な甘さはない。
だがそこには、はっきりとした選択がある。
ラティアの指先が震える。
怖い。
でも。
胸の奥が、あたたかい。
精霊たちがそわそわと舞う。
結界の光が、ふわりと広がる。
拒絶ではない。
むしろ、押し出すような揺れ。
カイルがにやりと笑う。
「お、初デートか?」
「違う」
即答。
だがほんの一瞬、ユリスの視線が逸れる。
サラが柔らかく言う。
「私たちも同行します。安心してください」
その言葉に、ラティアはほっと息をつく。
一人じゃない。
怖くても。
一歩目を踏み出すとき、隣に誰かがいる。
ユリスが手を差し出す。
触れない距離のまま。
「明日の朝だ」
低く言う。
「気が変わっても構わない」
逃げ道も用意する。
それが彼の優しさだ。
ラティアはその手を、見つめる。
触れれば、きっと本当に始まってしまう。
春の外へ。
世界へ。
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
そして——
そっと、ユリスの外套の端を掴んだ。
ほんの少し。
指先だけ。
「……いく」
小さな声。
でも、はっきりと。
結界の光が、静かに輝く。
春は、もう閉じた楽園ではない。
それは——
帰る場所になりつつあった。
そしてラティアは、
初めて“行く場所”を持った。




