18
湯気の立つティーカップを、ラティアは慎重に運ぶ。
さっきまで泣いていたせいで、少しだけ視界が滲む。
手元がぶれる。
ぱきん。
小さな音とともに、カップの縁が欠けた。
「あ」
一瞬固まる。
精霊たちが慌てて光を寄せる。
ラティアは息を整え、両手で包む。
淡い光が走り、陶器は元通りに戻る。
「……ご、ごめん」
「いや、割れる前提みたいになってんの何で?」
カイルが吹き出す。
「毎回壊してから完璧にするの、もはや儀式だろ」
サラがくすりと笑う。
「でも、不思議ですね。壊れたほうが、前より綺麗に見えます」
ラティアは小さく首を傾げる。
「……そう?」
「ええ」
サラは優しく頷く。
「傷を知っているからでしょう」
その言葉に、ラティアの指が止まる。
ユリスは黙って受け取る。
何も言わず、一口飲む。
「うまい」
短い一言。
それだけで、胸が少し温かくなる。
しばらく穏やかな沈黙が流れた。
焚き火がぱちりと弾ける。
そのとき、カイルが何気なく言った。
「なあ」
ラティアが顔を上げる。
「外、見たくならねえの?」
空気が、わずかに変わる。
責める声ではない。
好奇心の延長のような、軽さ。
ラティアはすぐには答えられない。
視線が自然と結界の縁へ向かう。
淡い光の向こうには森。
その先に雪山。
さらに遠くに王都。
人のいる世界。
「……こわい」
正直な言葉が落ちる。
カイルは頷く。
「だよな。俺も最初の遠征は吐きそうだった」
「え?」
「勇者様の付き添いでな。死ぬかと思った」
わざとらしく肩をすくめる。
「でもさ」
焚き火に枝を放り込む。
火の粉が舞う。
「怖いって思えるの、外を想像してるってことだろ?」
ラティアの瞳が揺れる。
「想像、してる……?」
「全く興味なきゃ、怖くもならねえよ」
軽い声。
でも、その言葉は静かに胸へ落ちる。
サラが続ける。
「世界は広いです。美しいものも、恐ろしいものも」
優しい微笑み。
「けれど、どちらも知っているからこそ、人は選べます」
選ぶ。
その言葉が、妙に重い。
ラティアはカップを握る。
壊して、直したカップ。
欠けた痕跡はもうない。
けれど、確かに一度割れた。
(わたしも……?)
外を知らないまま、守られ続ける春。
それは安全で、優しい。
でも。
今日みたいに。
誰かが去るだけで、泣いてしまう。
「……少しだけ」
自分でも驚くほど小さな声。
「少しだけなら……見てみたい、かも」
沈黙。
カイルがにやりと笑う。
「ほらな」
サラは柔らかく目を細める。
ユリスだけが、じっとラティアを見る。
その視線は、問いでも否定でもない。
ただ、覚悟を測るように静かだ。
結界の光が、ふわりと揺れる。
不安定ではない。
むしろ、広がるように。
ラティアは気づく。
怖い。
でも。
怖いだけじゃない。
胸の奥に芽吹いた感情は、
もう、春だけでは収まりきらない。
世界はまだ遠い。
けれど確実に——
彼女の中で、扉が開き始めていた。




