16
森を抜ける風は冷たかった。
春の結界を離れて、まだそれほど時間は経っていない。
それでも背後の気配は、もう遠い。
カイルが雪を踏みしめながら言う。
「……あの子、一人で平気かな」
軽い調子のつぶやき。
だが返事はなかった。
ユリスは歩みを止める。
わずかに、眉が寄る。
「……風が、違う」
「は?」
サラも足を止める。
次の瞬間。
空気が、微かに震えた。
それは魔物の気配ではない。
攻撃の兆しでもない。
もっと曖昧で、もっと繊細な揺らぎ。
遠く、春の結界の方角から、淡い光が脈打つ。
不安定な、呼吸の乱れのような波。
サラが息を呑む。
「……結界が揺れています」
「外からの干渉か?」
カイルが剣に手をかける。
ユリスは首を振った。
「違う」
その揺れは、侵食ではない。
拒絶でもない。
——感情だ。
理由は説明できない。
だが確信があった。
あの結界は、ラティアと同調している。
ならば。
揺れているのは。
「……戻る」
低く言い捨てる。
雪を蹴り、森を駆ける。
枝を払い、息を切らさず進む。
光が見える。
春の結界。
だが、その膜は今まで見たことがないほど淡く、震えていた。
波紋が幾重にも広がり、今にも崩れそうに揺れている。
「……これは」
サラの声がかすれる。
ユリスは躊躇なく光を越えた。
春の空気が頬を撫でる。
甘い匂い。
けれど、その中心で。
ラティアは、膝を抱えていた。
結界の縁近く。
俯いた肩が、小刻みに震えている。
ぽた、と涙が土に落ちる。
そのたびに、結界の光が揺れた。
「……いっちゃった……」
かすれた声。
「だって、ここは……わたしの場所だもん……」
止める理由はなかった。
止められなかった。
分かっている。
それでも。
胸の奥が、空っぽになった。
「さみしい……」
零れた本音と同時に、結界が大きく脈打つ。
ひび割れるような光。
精霊たちが慌てて飛び回る。
春が、乱れる。
その瞬間。
足音が近づいた。
ラティアが顔を上げる。
視界が滲んで、うまく見えない。
けれど。
そこに立っていたのは。
「……何を泣いている」
低く、静かな声。
ユリスだった。
ラティアの呼吸が止まる。
「……え」
結界の震えが、ぴたりと弱まる。
「どうして……」
「結界が乱れた」
短い答え。
だがその瞳は、真っ直ぐラティアを見ている。
責めてはいない。
ただ、確かめるように。
「……一人にした」
それは報告でも任務でもない。
ほんのわずかな、悔恨の色。
ラティアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「ちがう……わたしが、勝手に……」
言葉が続かない。
涙がまた落ちる。
だが、今度は結界は大きく揺れない。
ユリスが一歩、近づく。
距離は近いのに、触れない。
「寂しいなら、言え」
簡潔な言葉。
命令のようで、違う。
許可だ。
ラティアの喉が震える。
「……さみしい」
その一言が落ちた瞬間。
結界の光が、ゆっくりと安定していく。
春が、呼吸を取り戻す。
ユリスは小さく息を吐いた。
「なら、俺が戻る理由になる」
淡々とした声音。
だが、それははっきりとした選択だった。
守るためではなく。
任務でもなく。
——彼女が泣いたから、戻った。
ラティアの世界が、ほんの少しだけ広がる。
春は、もう閉じた楽園ではない。
誰かが戻ってくる場所になった。




