15
春の結界の縁は、朝の光に淡く溶けていた。
数日間。
勇者一行は、この春の中を拠点に北の雪山を調査していた。
夜明けとともに結界を出て、
白く閉ざされた峰を越え、
夕暮れには戻ってくる。
雪山の奥で確認された異様な魔力の痕跡。
黒く焦げた岩肌。
凍りついた魔物の残骸。
「確かに“何か”はあった」
カイルはそう言い、
サラは祈りを捧げ、
ユリスは黙って痕跡を辿った。
だが決定的な存在は見つからなかった。
そして今朝。
「調査は一区切りだな」
カイルが荷を締め直す。
「雪山の異常も、今は沈静化してる。王都へ報告だ」
サラは静かにうなずいた。
「聖女様のお告げが示した“大いなる魔力”は、少なくとも今は動いていません」
その言葉に、ラティアの指先がわずかに震える。
(……今は)
胸の奥で、あの黒い影の記憶が揺れる。
けれど、何も言えない。
ユリスが結界の光に目を向けた。
「ここは安全だ」
断言だった。
「この春が乱れる兆候もない」
ラティアは、ほっとするべきなのに、なぜか息が詰まる。
“安全”
その言葉は、別れの合図でもあった。
結界の縁に、三人が並ぶ。
淡い光が、朝の空気に溶ける。
カイルが振り返る。
「正直、雪山よりこっちのが好きだわ。あったかいし、飯うまいし」
笑って手を振る。
サラが深く一礼する。
「あなたの春に、祝福がありますように」
最後にユリス。
数日間、毎朝雪山へ向かった背中が、今は外へ向いている。
彼は一度だけ、ラティアを見た。
その視線は変わらず静かで、けれどどこか柔らかい。
「……異変があれば、すぐに知らせろ」
任務の声。
だが、その奥にほんの僅かな名残が滲んでいる気がした。
ラティアは唇を開きかけて、閉じる。
止める言葉が、見つからない。
カイルが光を越える。
サラが続く。
そしてユリスも、迷いなく結界を出た。
光が揺れ、三人の姿が森へと溶けていく。
雪山へ向かっていた数日と同じように。
ただ、今日は戻らない。
足音が遠ざかる。
春の音だけが残る。
ラティアはその場に立ち尽くす。
数日間、当たり前のようにあった気配が、消えた。
雪山の冷気が、わずかに結界を越えて流れ込む。
それが、やけに寂しかった。
「……いっちゃった」
小さな声が、朝の空気に溶ける。
結界は静かに閉じる。
何も変わらないはずの春が、
どこか広すぎる。
胸の奥で、まだ名前のない感情が揺れていた。
それは、雪山の異変よりも静かで、
けれど確実に——
ラティアの世界を変え始めていた。




