澪を選ばなかった朝
澪が死んだのは、文化祭の前日だった。
理由は分からない。
事故でも、病気でも、事件でもなかった。
ただ、翌朝、学校に来なかった。
それだけだ。
◆
前日の放課後。
教室は段ボールと色紙で溢れていて、甘いペンキの匂いがしていた。
「手伝ってくれない?」
澪が声をかけてきたのは、ちょうどそのときだった。
腕には画用紙。
相変わらず要領が悪そうで、でも楽しそうに笑っていた。
「悪い。ちょっと、あっち頼まれてて」
俺はそう言って、視線を逸らした。
クラスの中心では、実行委員が慌ただしく動いていた。
澪より、そっちのほうが“今やるべきこと”に見えただけだ。
澪は一瞬だけ、何か言いかけて――
すぐに、いつもの笑顔を作った。
「そっか。じゃあ、いいや」
軽い声。
軽い返事。
それで終わりだと思った。
◆
翌朝。
澪の席は空いていた。
最初は、寝坊だと思った。
次に、体調不良。
その次に、嫌な予感。
ホームルームが始まっても、澪は来なかった。
昼休み。
担任が、短く言った。
「……澪は、今日は欠席だ」
理由は説明されなかった。
それなのに、胸の奥が冷えた。
放課後、俺は澪の家の前まで行った。
インターホンを押す前に、救急車の赤いランプが見えた。
遅かった。
◆
目を開けると、自分の部屋だった。
カーテン越しの朝日。
スマホのアラーム。
聞き慣れた音。
カレンダーの日付を見て、息が止まった。
――文化祭、前日。
時間が、戻っていた。
意味が分からなかった。
夢だと思うには、あまりにも鮮明だった。
それでも学校に行った。
教室に、澪がいた。
生きていた。
友達と笑って、机に突っ伏して、欠伸をしていた。
俺の足が、止まった。
◆
放課後。
また同じ時間が来た。
同じ教室。
同じ準備。
同じ騒がしさ。
そして、また澪が近づいてくる。
「ねえ、これ――」
今度は、最後まで聞いた。
「一緒にやろう」
そう言って、澪の腕から画用紙を取った。
澪は目を丸くして、それから、少し困ったように笑った。
「……いいの?」
「うん」
それだけでよかった。
大したことはしていない。
ただ、澪を選んだ。
それだけだ。
◆
翌朝。
澪は、学校に来た。
何事もなかったかのように、席に座って、パンをかじっていた。
心臓が、遅れて音を立てた。
助かった。
理由は分からない。
でも、一つだけ、確信した。
澪を選ばなかった日、
世界は、彼女を消した。
そして――
俺が澪を選んだ日は、
何事もなく、明日が来る。
「……冗談だろ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
恋とか、好意とか、
そんな話じゃない。
これは選択だ。
澪を選ぶか。
それとも、失うか。
逃げ道は、もうなかった。




