澪が覚えていないはずのこと
澪は、以前よりも静かになった。
話さなくなったわけじゃない。
笑わなくなったわけでもない。
ただ、俺を見るときだけ、
ほんの一瞬、躊躇う。
◆
朝。
教室に入ると、澪がいた。
俺に気づく。
視線が合う。
そして、微妙に遅れて、笑う。
その間が、痛い。
◆
「おはよう」
澪が言う。
「おはよう」
返す。
それだけで、十分だった。
それ以上を望んではいけない。
◆
昼休み。
澪は、俺の隣に来なかった。
でも、離れた席から、何度もこちらを見ていた。
確認するみたいに。
俺が、そこにいるかどうかを。
◆
放課後。
澪が、昇降口で立ち止まっていた。
靴を履き替えたまま、動かない。
俺が近づくと、少し驚いた顔をした。
「……あのさ」
声が、低い。
◆
「最近、変な夢を見るんだ」
来た、と思った。
背中が、冷える。
◆
「夢?」
澪は、頷いた。
「何度も、同じ場面」
言葉を探すみたいに、少し間を置く。
「夕方。
校舎の裏。
あなたが、立ってる」
心臓が、強く打った。
◆
「私、何か言ってるんだけど……
途中で、止まるの」
澪は、眉を寄せた。
「言いたいことがあるのに、
言わせてもらえない感じ」
◆
偶然だ。
そう言い聞かせる。
でも、澪の声は、震えていた。
◆
「目が覚めるとね」
澪は、俺を見る。
「すごく、悲しい」
◆
何も言えなかった。
言えるはずがない。
◆
「……ねえ」
澪が、少しだけ近づいた。
距離は、ほんの一歩分。
それだけで、息が詰まる。
◆
「私、あなたに何か、
ひどいこと言ったことある?」
◆
その質問は、鋭かった。
覚えていないはずの、罪悪感。
◆
「ない」
即答した。
声が、硬い。
◆
澪は、納得していない顔だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
「……そっか」
それだけ。
◆
帰り道。
並んで歩く。
少しだけ、距離を空けて。
澪が、ぽつりと言った。
「私さ」
立ち止まる。
◆
「最近、あなたのこと、
好きにならないようにしてる」
足元が、揺れた。
◆
「理由、分からないんだけど」
澪は、苦笑する。
「好きになると、
何か、大事なものを壊しそうで」
◆
無意識の残滓。
覚えていないはずの恐怖。
◆
「だから」
澪は、俺を見た。
「少し、距離を取ったほうがいいのかも」
◆
来ると思っていた言葉。
それでも、胸が締めつけられる。
◆
距離を取る。
選ばない。
それが、何を意味するか。
◆
「……それは」
声が、震える。
◆
「澪が決めることだ」
やっと、それだけ言えた。
澪は、驚いたように目を瞬かせた。
◆
「いいの?」
確認。
選ばれない可能性を含んだ、問い。
◆
俺は、頷いた。
「いい」
それが、どんな結果を呼ぶか分かっていても。
◆
澪は、少しだけ笑った。
「ありがとう」
その笑顔が、やけに遠い。
◆
夜。
眠れなかった。
澪が、自分で距離を選ぼうとしている。
それは、正しい。
でも。
◆
翌朝。
目を開ける。
アラーム。
朝日。
心臓が、嫌な音を立てる。
カレンダーを見る。
日付は――進んでいた。
◆
生きている。
澪は、生きている。
◆
学校に行く。
教室に、澪はいた。
少し疲れた顔で、でも、確かに生きていた。
◆
俺は、分からなくなった。
距離を取っても、生きている。
条件が、揺らいでいる。
◆
それとも。
澪が、何かを“思い出しかけている”からか。
◆
世界のルールが、
静かに、崩れ始めている。




