傷つく役目
朝、澪は何もなかったみたいに教室にいた。
昨日のことが、夢だったかのように。
席に座って、友達と話して、普通に笑っている。
――それが、いちばん怖かった。
◆
俺が席に着くと、澪は一瞬だけこちらを見た。
目が合う。
すぐに逸らされる。
その速さが、胸に刺さる。
◆
「おはよう」
俺が言う。
澪は、少し遅れて答えた。
「……おはよう」
声が、低い。
昨日、言いかけた言葉が、
まだ喉に残っているみたいだった。
◆
授業は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートの端が、無意味に黒くなる。
澪は、前を向いたまま動かない。
俺を見ない。
それでも、分かる。
澪は、待っている。
昨日の続きが、来るのかどうかを。
◆
昼休み。
俺は、澪の席の横に立った。
逃げ道を、塞ぐ位置。
「……放課後、少し話せる?」
教室のざわめきの中で、澪が顔を上げる。
驚き。
戸惑い。
それから、ほんの少しの期待。
全部、見えた。
「……うん」
短い返事。
それだけで、喉が痛んだ。
◆
放課後。
校舎裏。
何度も立った場所。
何度も、同じ結末を迎えた場所。
夕焼けが、コンクリートを染めている。
◆
澪は、少し離れた位置に立った。
近づかない。
でも、逃げもしない。
「……話って?」
声が、少しだけ震えている。
◆
俺は、深く息を吸った。
ここから先は、
自分で傷つきに行く道だ。
◆
「澪のこと、好きだ」
言葉は、驚くほど素直に出た。
頭で考える前に、口が動いた。
澪の目が、大きく見開かれる。
◆
「ずっと一緒にいたい」
胸が、締めつけられる。
本音だ。
だからこそ、苦しい。
◆
澪は、何も言わなかった。
唇が、わずかに震える。
目が、揺れる。
昨日、言いかけた言葉が、
今度こそ溢れそうになる。
◆
俺は、続けた。
止まらなかった。
止まれなかった。
「……でも」
その一言で、澪の表情が曇る。
「付き合うとか、
そういうのは、考えられない」
自分の心臓を、握り潰すみたいな言葉。
◆
「俺は」
声が、少し掠れる。
「澪の気持ちに、応えられない」
◆
沈黙。
夕方の風が、冷たい。
◆
澪は、しばらく俯いていた。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
笑おうとして、失敗した顔。
「……それ、ずるい」
静かな声。
責めるでもなく、怒るでもなく。
ただ、痛そうだった。
◆
「好きって言って、
それで終わり?」
俺は、頷いた。
それしか、できなかった。
◆
澪は、深く息を吸ってから、言った。
「……ごめん」
その謝罪は、
本来、俺が言うべきものだった。
◆
「私も」
澪の声が、少しだけ震える。
「そういうふうには、見られない」
◆
フラれた。
今度は、確かに。
胸の奥が、音を立てて崩れる。
それでも、立っていられた。
◆
「……ありがとう」
俺は、そう言ってしまった。
澪の眉が、僅かに動く。
意味が分からない、という顔。
◆
澪は、それ以上何も言わずに、背を向けた。
歩き出す。
一度も、振り返らなかった。
◆
夜。
眠れなかった。
胸は痛い。
苦しい。
でも。
◆
翌朝。
目を開ける。
アラーム。
朝日。
心臓が、強く脈打つ。
カレンダーを見る。
日付は――進んでいた。
◆
学校に行く。
教室に、澪はいた。
生きている。
友達と話している。
昨日より、少しだけ距離のある笑顔で。
◆
それを見て、確信した。
俺の役目は、これだ。
想いを伝えて、
拒まれて、
澪を生かす。
◆
それが、どれだけ残酷でも。
それが、どれだけ澪を傷つけても。
◆
俺が傷つくことでしか、
澪が生きられないなら。
その役目は、
俺が引き受けるしかない。
逃げ道は、もうない。




