言われなかった言葉
その日は、朝から澪の様子がおかしかった。
話しかけてこない。
でも、離れもしない。
同じ教室にいて、同じ空気を吸っているのに、
間に、薄い膜が張られている感じがした。
◆
「おはよう」
俺が言う。
澪は一拍遅れて、笑った。
「おはよう」
声が、少しだけ硬い。
それだけで、嫌な予感がした。
◆
授業中。
ノートを取るふりをしながら、澪は何度も消しゴムを落とす。
拾うたび、指先が震えているのが見えた。
緊張。
決意。
どちらも、見覚えがある。
◆
昼休み。
澪は一人で屋上に行った。
珍しいことだった。
俺は、少し遅れて後を追った。
◆
屋上は、風が強かった。
フェンス越しに、空がやけに近い。
澪は、手すりの前に立っていた。
背中が、真っ直ぐすぎる。
「……来ると思ってた」
振り返らずに言う。
「うん」
それしか返せなかった。
◆
沈黙。
風の音だけが、間を埋める。
澪が、深く息を吸った。
「ねえ」
来る。
そう思った。
◆
「最近さ」
言葉が、途中で止まる。
澪は、フェンスを強く握った。
指先が、白くなる。
「……私、ずっと考えてた」
何を、とは言わない。
でも、分かる。
◆
告白。
その可能性が、頭をよぎった瞬間。
全身が、冷えた。
◆
もし、澪が俺を選んだら。
もし、想いが重なったら。
条件は、壊れる。
澪は、生きられない。
◆
「澪」
俺は、名前を呼んだ。
それだけで、声が掠れる。
澪が、こちらを見る。
期待と、不安が混ざった目。
◆
「……言わなくていい」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
澪の目が、見開かれる。
「え?」
「今じゃなくていい」
必死だった。
「考えてること、
無理に言葉にしなくていい」
◆
澪は、何かを言いかけて、口を閉じた。
そのまま、視線を落とす。
「……逃げてる?」
小さな声。
胸が、痛む。
◆
「違う」
嘘だった。
でも、本当でもあった。
「ただ……
今は、聞けない」
◆
澪は、しばらく黙っていた。
風が、二人の間を吹き抜ける。
やがて、澪は笑った。
少し、無理をした笑顔。
「そっか」
それだけだった。
◆
その日の放課後。
澪は、俺を待たなかった。
声もかけなかった。
廊下の向こうで、友達と話しながら帰っていく。
振り返らない。
◆
胸の奥が、じくじく痛んだ。
選ばれなかった。
今度は、俺が。
◆
家に帰っても、落ち着かなかった。
スマホは、鳴らない。
連絡も、ない。
それでも、分かっていた。
これは、ただのすれ違いじゃない。
澪は、踏み出そうとしていた。
俺が、止めた。
◆
夜。
眠れなかった。
澪は、何を言おうとしたのか。
言わせなかったのは、正しかったのか。
◆
翌朝。
目を開ける。
アラーム。
朝日。
心臓が、嫌な音を立てる。
カレンダーを見る前に、祈った。
◆
日付は、進んでいた。
◆
学校に行く。
教室に、澪はいなかった。
息が、止まる。
◆
担任の声が、遠くで響く。
「……澪は、今日は欠席だ」
理由は、言われない。
◆
分かってしまった。
告白を、止めた。
フラれる未来を、選ばなかった。
だから。
◆
目を開ける。
自分の部屋。
同じ朝。
戻っていた。
喉から、力が抜ける。
◆
救うためには。
聞いてはいけない。
応えてはいけない。
想いを、交わしてはいけない。
◆
それでも。
澪の、あの目が、離れない。
言われなかった言葉が、
胸の奥で、何度も反響する。
――もし、聞いていたら。
そんな考えが浮かんでしまう自分を、
俺は、強く嫌悪した。
◆
選ばれなければ、死ぬ。
選ばれたら、死ぬ。
その境界が、
少しずつ、近づいている。




