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第三章 八

この章が一番長いです。

雲海の上に浮かぶ白亜の回廊。澄み切った空気。規則正しく並ぶ光の柱。

天界は今日も、規則正しく世界を観測している。

そんな中、神様に後輩の失態を報告しなければならない事が、実に憂鬱だ。

「…神様には俺から報告しておく。お前はとっとと魔王を駆除してこい。」

生意気だが、俺なんかよりも遥かに才能に恵まれ、天使として完璧だった存在。それが俺の唯一の自慢できる宝物、天使体16番、イロだった。

アイツがこれまで使命を果たせなかったことはなかった。どこか気だるげに任務に取り組む姿勢があったが、必ずやり遂げて帰ってくる。先輩としてとても誇らしかった。

しかし数刻前、魔王討伐という過去最大の任務を与えられたイロは任務を遂行せずに帰還した。理由を問いただすと、

「天使のヤクワリは願いを望むものの願いを叶える。だから魔王の願いを叶え、延命させました。」

と返してきた。

確かに、天使としての最大の役割は願いを叶えることだ。余命僅かな人間の願いを叶えること、それが神様から与えられた存在意義だ。

しかし、今回は違う。討伐すべき悪の対象の願いを叶えるなど、あってはならない。最低限それぐらいの判断はできると思っていたが、俺の教育が間違っていたようだ。

だが、イロを極端に責めることはしない。後輩が失態を犯したなら、責任を取るのが先輩だ。イロへの説教は最小限にとどめ、神様への報告は俺がする。そう決めてイロを再度下界に送り出した。

パシッ

ほほを叩き、気を引き締める。

神様が知ったらどれだけ激昂なさるか分からない。どんな罰が下るのかも分からない。

それでも生意気な後輩のため俺は一歩を踏み出す。

それが俺の信じるタダシイ道だからだ。



「ハチ…さん……!」

目の前には明らかに殺気立った様子の天使長、ハチがいる。

「…俺が何故ここにいるかは分かるな?イロ。」

「………」

沈黙することしか出来ない。

「俺はお前に速やかに魔王を駆除するよう命じた。…異論はないな?」

「…お言葉ですが、本日中に魔王を殺すようにハチさんは言いました。今日はまだ半刻ほど残っています。」

「黙れ!!」

ハチさんが声を荒げる。

「…お前が生きていて、戦闘状態ではないということは魔王は既に討伐した。その認識が間違っているか?」

「………」

「俺はお前に十分な期待をしていた。はっきり言って、お前は歴代最強の天使だ。数多の神具を扱い、相手を圧倒するその力は、既に俺を超えている。そんなお前だからこそ、長年の悲願だった魔王の討伐を果たせると思っていたのだが……」

「…でも!」

無意識に口から言葉が漏れる。

「魔族にもいい奴はいます!彼らは互いを思いやる心があって、仲間だけでなく外部の者も受け入れる寛容さがあって!……ハチさんが思うような悪いやつらなんかじゃ、決してないです!」

この一日で感じた想いが次々と溢れ出る。自分の口から出た言い訳は、気付けば本心であることにボクは熱いものを覚える。

「…イロ。」

ハチさんが言葉を遮る。

「やはり、魔王に篭絡されていたか……」

「篭絡なんか……!」

「忘れるな。やつらは人を喰らう。―決して相容れない生物なんだよ。」

ハチさんは悲しい瞳をして、そう言った。直後、青い翼でボクのことを包み込む。

「お前が今日感じたものは、全て演技、虚実、戯言。…魔王がお前から殺されないようにするための作戦なんだ。」

「…………!!」

もがく。はなれない。

「……お前はもう退がっていていい。魔王討伐の任務は、俺が引き継ぐ。―辛い任務を与えて悪かったな。」

ハチさんの抱きしめる力が強くなる。

なんとか離れようとしても、放してくれない。

コン コン

廊下を歩く、音がする。

ボクは嫌な予感を見る。

「―だから大丈夫だってぇ!リンリン~!お前が自分のことどういう風に思っていたって、魔王様はお前のこと絶対見放したりはしないからさ~!」

「…そ、それでもボクは、今日一日、何もできなかったのは、王子としてよくないと、思うんだ。君がボクのことを、友達だと思ってくれているのは、嬉しいよ。でも、父上が自ら祭りの準備をしているというのに、ボクは部屋に閉じこもったままだ。」

―リンツとライブが並んで廊下を歩いていた。

「魔人…!!」

ハチさんの翼が臨戦形態に整えられる。

「―逃げ…!!」

――ダッ

スヒンッ!



どういうことだ。

手ごたえがない。

俺がたった今、槍で貫いたはずの魔人は、子供だったはずだ。この距離からの一閃をよけられるわけがない。

俺はさっきまで魔人どもがいた方を見る。

「…リンツ様、大丈夫ですかうま。ライブ様も。―ここは吾輩が食い止めますので、お二人は逃げてくださいうま。」

なんだあれは。

馬頭の魔獣。

まさかアイツが魔人どもを逃がしていたというのか?

「ヒ、ヒヒーン……」

「リンツ様、吾輩は大丈夫ですうま。やつは危険ですので早くここから離れるうま。」

リンツと呼ばれた魔人はどこか後ろめたそうにしていたが、

「リンツ!!」

もう一人の魔人に促されるままに、来た方向を駆けていく。

「―逃がすわけがないだろ。」

再び槍を構える。

キンッ

突進しようとしたが、何かに弾き返される。

「そっちこそ、ここを通すわけにはいかないうま。」

さっきの馬頭に道を阻まれる。

「…相手との力量差が分からない、見たまんまの愚かな頭だったとは。お前がやっていることは時間稼ぎじゃない。ただ俺を怒らせ死期を早めているだけだ。」

「…やってみなければ分からないうま。―王子様直属ケンタウロス族長、ヒヒ。いざ参る。」

両手に斧を携えた魔獣はこちらに敵意を剝き出しに突っ込んでくる。

「―やってみなくても、分かり切っているだろうがよ!」

俺は両手に槍を構え、突進に対応する。

ドッ

魔獣の姿が眼前で消える。すぐさま上を見上げる。天井に張り付いた魔獣が大きく天井を蹴り、こちらへ斧を振り下ろす。魔獣の両腕が唸りを上げる。筋肉が盛り上がり、握られた二本の戦斧が空気を裂く。斧の刃が振り下ろされる瞬間、空間がわずかに歪んだ。

俺は一歩も引かずに槍を逆手に構える。青白い光が槍身を走り、空気がビリビリと震える。斧と槍が交差した瞬間、金属がぶつかる甲高い音とともに、衝撃波が周囲を吹き飛ばす。石畳が砕け、粉塵が舞い上がる。黒く澄んだ回廊に、咆哮が鳴り響く。

「―その程度か?」

槍を傾け、体制を崩す。落下する魔獣に蹴り上げをかます。

「……グフッ…!」

しかし、魔獣は怯まずに蹄のような足で地を蹴り、再び間合いを詰める。斧を横薙ぎに振るうと、風圧が壁を削り、柱が軋む。

「王子様に指一本触れてみろうま!吾輩が必ずお前を赤く染め上げてやるうま!」

魔獣は両斧から猛攻を繰り出す。あまりの勢いに俺は槍の柄での防御に徹さざるを得なくなる。

ボゴッ

「ぐっ………!」

魔獣の両前足が大きく俺を蹴り飛ばした。ガードが間に合わず、大きく吹き飛ばされる。

「忘れるな。人間と違い、ケンタウロスには二本の腕と四足の足がある。これは圧倒的なリーチになるうま。」

「…ふざけやがって!」

壁にぶつかる前に軌道を変え、その勢いのままに相手に突進をしかける。



廊下を走る。

ただ、ひたすらに。

走るたび、胸の奥がきしむ。

ただ、がむしゃらに。

廊下の灯霊が、慌ただしく揺れながら後方へ流れていく。

ボクは先刻、ヒヒを見殺しにすることしかできなかった。

その事実が、足音に絡みついて離れない。

「……気に病むな、リンツ。あの状況下じゃ逃げることしかできなかった。だが、ヒヒーンはお前を逃がすために残ったんだ。お前が生きていること。それだけで、ヒヒーンの役目は果たされる。」

並走するライブが心を読んだのか、慰めの言葉をかける。

「……うん。………」

ボクはライブに感謝しつつも、本当にそうだろうかと疑問が生じる。

あの天使はイロさんとは違い、強い憎しみの目をしていた。ボクだけでなく、ライブも狙っていたことから、王子であるボクが狙いじゃない。おそらく魔物全て、彼にとっての殲滅対象だ。それほどまでに深い憎しみを宿したものが、ただ殺すだけで満足するだろうか?

…だとしたらヒヒーンはー

恐ろしい事実に気付いたボクの足が止まる。

「何やってー」

――ビュン

突然、黒い突風が隣を通り過ぎた。

「…うん、ごめん。」

ボクはヒヒーンの想いを無駄にしないためにも、再び一歩を踏み出す。



吹き飛ばしたやつは壁にぶつかる直前、空中に軌道を変え、こちらに突っ込んでくる。

最初の吾輩の突進に対して突進で返すとは。

吾輩は衝撃に耐えられるよう柔軟な体制になる。

ギュンッ

目の前でやつは消える。

どこだ。

辺りを見回すと、空中に浮かぶやつの姿が見える。

「同じ芸当しかできないうまか!大したことのないうまねぇ!」

「ほざけ!」

吠えつつもやつはこちらに向ける槍の速度を落とさない。受け止められるように両手前足を組む。

――ブオッ

音を置き去りに突風が吹く。予想外の攻撃に吾輩は後方へ投げ飛ばされる。

見ると、やつは吾輩に槍の穂先が当たる直前、体制を変え背中の両翼から疾風を巻き起こしていた。

まずい。体制をー

ドォォン!!

風に流されるまま、壁に激突する。

「くっ……!」

かなり深く壁にめり込んだようで、思うように身体が動かせない。

「―終わりだ。」

やつが槍の穂先をこちらに向け、今度こそこちらに突進してくる。

ダァン!

前足で壁から踏ん張り、後ろ足で大きく蹴ることでどうにか壁から脱出し、攻撃を回避する。しかしー

「…………!!」

「…大したものだな。だが、自慢の足は一本封じた。これでお得意のリーチとやらも、半減だな。」

壁を蹴る一瞬の隙を突かれ、右後ろ足を負傷してしまう。激痛が、遅れて爆ぜた。右後ろ足から、痺れが一気に駆け上がる。

「ぐ、ぅ……ッ!!」

踏み込もうとした瞬間、力が抜け、体勢が大きく崩れる。四足で大地を掴むはずの感覚が、一箇所だけぽっかりと欠け落ちた。

―まずい。

「どうした、さっきまでの威勢は。」

天使は空中で静止したまま、冷え切った声を落とす。

「魔獣にしては、よく動いた。だが――」

槍をゆっくりと構え直す。

「ここまでだ。」

吾輩は歯を食いしばり、斧を握り直した。

右後ろ足が言うことをきかない。踏ん張れば、骨の奥まで砕けるような痛みが走る。

―これは、一杯食わされたうま。

だが。

「……忘れるな、天使。」

血を吐き捨て、吾輩は笑った。

「ケンタウロスは、足だけで戦う種族じゃないうま。」

両斧を地面に叩きつける。

ドンッ!

衝撃で石床が割れ、粉塵が舞い上がる。

「目くらましか!」

天使は即座に後退するが――遅い。

吾輩は前足二本で体を支え、上体を強引に捻った。

負傷した後ろ足は、あえて引きずる。

「らあああああああァ!!」

右斧を、全力で投擲。

狙いは胴ではない。

翼の付け根。

天使が槍で弾く。

キィン!

金属音と同時に、斧の軌道が逸れる。

だが、それでいい。

「……?」

天使が一瞬、視線を斧に奪われた。

その刹那。

吾輩は、残った左斧を地面に突き立て、身体を引き寄せるようにして跳んだ。

三足跳躍。

無様でも、届けばいい。

「なっ――」

天使の瞳が見開かれる。想定外だったのだろう。

負傷した魔獣が、なおも間合いに入ってくることが。

――ギリッ

歯を噛み締め、叫ぶ。

「王子様に……ッ」

「指一本、触れさせるものかぁぁ!!」

斧を振り抜く。風を裂き、血を呼ぶ一撃。

――ドッ!!

手応え。

確かに、当たった。

当たった、はずだった。

「―残念だったな。」

天使はその身を純白の布で覆っていた。

当たったはずの斧は、布に触れている部分がへにゃへにゃとくたびれている。

不覚……!

即座に逃げようとする。―いや、逃げようとするという表現が出てくる時点でもう遅かった。

天使は両翼で吾輩の身体を包み込み、逃げないように周りを囲んでいた。

ドドドドッ!!

鈍い音とともに、槍がわが身に無数の風穴を開ける。

熱が、遅れて噴き上がった。

次の瞬間、それは痛みへと変わる。

「……ぐ、ぁ……」

息を吸うたび、肺が裂ける。吐くたび、血が溢れる。

視界の端で、白い布がゆらりと揺れた。

斧を殺した、あの布。

神気を織り込んだ、防刃の聖衣――そんな伝承が、脳裏をかすめる。

「魔獣の力は侮れないと聞いていたが……」

天使の声は、すぐ近く。

包囲する翼の内側で、逃げ場はない。

「やはり、所詮はこの程度か。」

槍が引き抜かれ、再び突き立てられる。

身体のどこを貫かれたのか、もはや分からない。

血の感触だけが、確かにある。

膝が、砕けるように落ちた。

四足の誇りが、石床に叩きつけられる。

「……っ、く……」

それでも、吾輩は前を見た。

「……何だ、その目は。」

わずかに、声色が変わる。

吾輩は、笑った。

「お前は……もう…終わりだうま……」

「下らん負け惜しみを……」

槍が振り下ろされる。だが、その槍は吾輩に当たることはない。

――ザシュッ!

黒い風を切り裂く音。天使の両翼が剥がれ落ちる。

「!?……くっ………!」

我らが主、ヤマターケル=ヤンヴァルド卿が片手に巨大な両刃を携え、到着していた。

「……遅れてすまないな、ヒヒーン。」

低く、よく通る声。その一声だけで、場の空気が変わる。

ヤマターケル=ヤンヴァルド卿。

我らが主にして、魔王。

巨大な両刃を肩に担ぎ、ゆっくりと歩み寄る。

「……ご、無事で……うま……」

吾輩の声は、もはや掠れていた。

「…もう、十分だ。」

主は、一瞥だけこちらに向けて言った。それだけで、胸の奥が熱くなる。

「下がれ。」

命令は短い。だが、拒む理由などない。

吾輩は全身を引きずりながら、一歩、二歩と後退する。

―ヒュン

後方から、何かがもの凄い速さでこちらに飛来する音が耳を切る。

「―ハチさん!!」

…天使、イロが到着していた。



ハチさんは神具、『天女の羽衣』を一瞬にしてボクにぐるぐる巻きにしたかと思うと、リンツとライブ目掛けて飛んで行った。

天女の羽衣は触れているものの力を消し去り、あらゆる物体の衝撃をゼロにする力がある。こと戦闘においては治療や防御に扱う神具としてこの上ない最強格のものである。その欠点として、一枚しか出すことのできない弱点がある。

天女の羽衣は、ボクの体に絡みついたまま、じっと動かない。身動きが取れないというより力が、抜け落ちていく感覚だった。

「……ハチさん……」

呼び止める声は、風にかき消される。

このままでは二人が殺されてしまう。

ボクはどうにかして拘束を解こうともがく。

ほどけない。

もがく。

ほどけない。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

少しずつ、少しずつだが拘束が弱まっている。最初はがんじがらめだった身体も、関節が動く程度にまで回復した。

あともう少し…

そう思った矢先、羽衣が消える。

羽衣が消えたということは、ハチさんがどこかで再度天女の羽衣を召還したということだ。

ボクはドアをすり抜け、廊下を見渡す。

先ほどリンツとライブを見た方向とは逆の方向からかすかに戦闘の音が聞こえた。

ボクは一目散にそちらへすっ飛んでいく。

金属がぶつかる甲高い音。空気を裂く、風の唸り。それに混じって、聞き覚えのある低い衝撃音。

―斧だ。

胸が、嫌な予感で締め付けられる。角を曲がった瞬間、視界が開けた。

戦場に到着すると、ヒヒーンは瀕死。特に右足が酷く負傷。ハチさんは両翼が破壊され、ヤキョウと対面していた。

「―ハチさん!」

ハチさんの羽には黒いもやがかかり、翼の再生を阻んでいるようだった。

振り向いたハチさんの顔は、驚くほど静かだった。だが、その背で広がるはずの青い翼は、もはや形を保っていない。

「……イロ。」

ヤキョウはボクの姿を確認すると、言い訳のようにつぶやいた。

「彼は君の同僚か?悪いが、ヒヒーンを今にも殺そうとしていたため、止むを得ず戦闘能力を剥がさせてもらった。」

「ヤキョウ!」

そんなことは分かっている。

ハチさんがリンツとライブを襲いに行ったことからも、魔物側に非はない。

それでも。

「………どうか、ハチさんを殺さないで。」

先輩に、死んでほしくなかった。

「…イロ………」



「…こいつが、ですか?」

天使長になって、最後に与えられた仕事は後輩の育成だった。

神様によると、多くの神具への適性があり、とんでもない才能を秘めているという。しかし、天使となって間もなく、前世の記憶もほとんど残っていないとのこと。

そこで、この世界の成り立ち、天使の仕事、その他あらゆるすべてのことを教えることとなった。

「面倒な役目だな……」

そう思ったのが、正直なところだった。

だが。

初めて会ったその天使体は、あまりにも小さく、あまりにも幼かった。

そいつは本当に何も知らなかった。

魔法について。魔物について。

人間について。世界について。

通常天使は人間だったころの記憶はあまり残っていないことが多い。だが、自分にとって大切だったものは覚えていたり、器として形に残っていたりすることがある。だが、こいつにはそれもない。

こいつの願いの器はペンダントだったが、それを見せても何かを思い出す片鱗もなく、

「………?」

と首をかしげるだけだ。

人間の頃の最後の記憶がよほどトラウマになっていて、心の芯が思い出すことを拒絶しているのだろうか。

「…俺と同じだな。」

そのときから俺は天使体16番に親近感を覚え、弟のように接した。

人間の願いを叶える。

神様の命令に従う。

魔物は悪。

そいつは驚くほどに覚えが早く、魔物との戦闘においても一切の隙を見せず、完璧な存在だった。

「……天使の鑑だな。」

そう評したのは、何度目だったか。

だが、不思議なことに、どれだけ成果を上げても、そいつは決して誇らな顔をしなかった。

「すごいな」と言えば、「ありがとうございます」と頭を下げる。

「よくやった」と言えば、「次も頑張ります」と微笑む。

そこには、“自分が何者なのか”という確信が、どこか欠けていた。

「―今回の任務、ご苦労だったな。」

「恐縮です。あの程度の敵、大したことなかったです。」

やはり自分に自信がないのだろうか。

「…イロ。名前が、お前への報酬だ。」

基本的に天使に名前はない。通常は番号で呼ばれる。

俺みたいな番号の個体なら名前としても機能するが、十六番は個体識別値として長すぎる。だから短い名称が欲しかった。

…そんなのは御託だ。俺はこいつ、イロに自信を持ってほしかった。

「ありがとうございます。」

イロは自身がついたのか、それ以来報告は

「あんなやつ、ボクの相手じゃないです。」

「今回の願いもボクにとって楽勝でした。」

…少し生意気になった。

それでも俺は嬉しかった。それまでただ“正しく動く器”でしかなかったこいつが、少しずつ、人間らしい色を帯びていくように見えたから。


「イロ!」

駄目だ。魔物なんかに頭を下げるなんて。

「俺のことはいい!翼が捥がれたぐらいで、まだ戦える!魔物なんかに、屈するな!」

「ハチさん……」

振り返ったイロの目は、軽蔑しきった眼差しで、

「あなたは少し、黙っていてくれませんか?」

完全に俺を拒絶していた。

「…何を言う。」

魔王が口を開く。

「私ははじめから、彼を殺すつもりはないよ。」

……


「…よかったうまな、お前。」

いつの間にか会話ができる程度には回復していた馬頭が俺に話しかける。

「イロ殿がいなかったら、お前、とっくに死んでいるうまよ。」



はじめヤキョウと出会ってから一日が経過した。

昨夜、ヒヒーンを殺しかけたハチさんに対してヤキョウは

「君にも部屋を与える。ただ、ヒヒーンがしばらくは動けそうにない以上、リンツの世話係は君にやってもらおう。」

と言い放ち、ボクだけでなくハチさんまでこの魔王城に居座ることとなった。これで天使が二人魔物の本拠地にいるという奇妙な状況が出来上がった。

ハチさんは反論するでもなく虚ろなままに

「………分かった。」

とだけ返事をして部屋に案内されていった。

コンコン

部屋を叩くノックの音。

「おはよう、イロ。朝食ができたから食堂に来なさい。」

やはりというべきか、ヤキョウが部屋を訪れていた。

「今行く。」

適当に返事をし、ヤキョウとともに食堂へと向かう。


食堂につくと、リンツ、ライブの隣にハチさんが席につき、食事をしていた。向かいには昨日みなかったオークと思われる魔獣と、こ洒落た服を着たスケルトンがいる。

ハチさんは、黙って皿に向かっていた。以前のような尊大さも、苛立ちもない。ただ、機械的に口へ運ぶだけだ。

「どうでっかぁ!?おいどんの飯は、うめえでっかぁ!!?」

「ちょっとあーた、やめなさいよ!彼、困っているじゃないの。」

「まあまあ。……でも、ボクも聞きたいな。ハチさん、ランドのご飯はどう?」

「………」

ハチさんは沈黙を貫いているようだ。

「お!イロ!おはよー!調子どーだー?」

こちらに気付いたライブがぶんぶんと手を振る。

「おはよう。……おかげさまで、元気だよ。」

ボクは小さくうなずく。

「だろー?ここのベッド、使用人にとってもどれも質のいいもんばかりだろー!」

「…だから君が威張ることじゃないだろう。ライブ、行儀が悪いから足を降ろしなさい。」

「へいへーい」

ライブはひょこっと足を降ろした。

「彼、ハイオークの方はランド。昨日も紹介したが、ここでオーク長と料理長を兼任してもらっている。そしてあの洒落たスケルトンの方が……」

ヤキョウの説明を遮り、スケルトンは自己紹介を始める。

「わたくしの名前はカルケル!見ての通りスケルトンよ!ここでは魔王国家大参謀とアンデッド総長、大魔道戦長をやらせてもらっているわ!以後、お見知りあそばせ。それよりあなた、イロちゃんね!ヤマちゃんから色々と聞いているわよお!」

飄々と語るその仕草は、カタカタと骨を鳴らす。

色々と奇抜なその存在、ドスのきいた甲高い声に、冷や汗が滲む。

「ふふっ、反応が初々しいわねぇ。嫌いじゃないわよ、そういうの。」

カルケルと名乗ったスケルトンは、骨だけの指で扇子を開く仕草をした。

どこから取り出したのかは、考えないことにする。

「魔王国家大参謀……?これが………?」

「そうよ。軍事、外交、内政、ついでに魔術体系の管理まで全部ね。忙しいのよ、これでも」

さらりと言われた内容が重すぎる。

「カルケルは優秀でね。」

ヤキョウが淡々と補足する。

「この国が機能しているのは、半分は彼女のおかげだ。」

「もう、ヤマちゃんったら。半分だなんて控えめねぇ?全部よ全部。」

くすくすと笑うカルケルの骨が、軽く鳴った。

その様子を、ハチさんは一切見ようとしない。視線は皿の上、動作は一定。まるで、ここにいないかのようだ。

「……さて、」

不意に、カルケルの視線がハチさんに向いた。

「あなたが例の“天使さん”ね?」

ハチさんの手が、ぴたりと止まる。

「随分と大人しいじゃない。昨日の報告書じゃ、ずいぶん派手に暴れたって書いてあったけど」

「……」

「カルケル。」

ヤキョウが静かに制した。

「今はいい。」

「はーい。上司命令なら仕方ないわね。」

カルケルは肩――いや、鎖骨をすくめる。

「まあ、今はいいわ。昨日ヒヒちゃんを随分痛めつけてくれたみたいだから、今日からリンツお坊ちゃまのお世話、ちゃんとしなさいよ。」

「…………」

ハチさんは無言で俯いた。

「そうだぞお前~、魔王様の独断で生かされているだけで、本来なら死刑もんだからなー」

先ほどヤキョウが注意したにも関わらず、いつの間にかまたテーブルに足をあげているライブが会話に加わる。

「ちょっとライブ坊ちゃん!マナーがなっていないんじゃなくて!?」

カルケルが甲高く発狂する。

ライブが「やべ」と足を降ろすがー

「再三注意されているでしょ、あーた!―もうわたくしは怒りました!今日はみっちり『講習会』を行います!」

その場にいた天使を除く全員が

「―げぇ!!」

と悲痛な声を漏らした。

「日時は朝食後すぐ!場所は大会堂!全員が出席しないと『補修』も行うこととします!」

「…おいどん、夕飯の買い出しが……」

ランドがそそくさと逃げ出そうとする。

「駄目よ!わたくしが星夜祭の準備をしている間、坊ちゃんの世話をしていたのはランピーとヒヒちゃんでしょ!連帯責任です!」

カルケルは何かしらの呪文を唱える。

直後、ランドのいる床からニョキニョキとツタが生え、ランドの両足をぎっちりと拘束する。

「…カルケルさん、ランドは食材の買い出しがあるんだし、行かせてあげた方が……」

リンツが引きつった顔でお願いをかける。

「あらぁ!リンツお坊ちゃん!貴方はいいのよ。マナーが完璧ですものね。ーでも、他は駄目よ!全員、必ず、講習に出てもらいますからね!それからー」

カルケルはキッとハチさんを睨みつける。

「あんたも例外!ランピーの代わりに、お坊ちゃまと一緒に買い出しに行ってきなさい!必ず役目を果たしなさいよね!」

ハチさんは相変わらず無言だったが、了承している様子だった。

「―私は、国家運営があるので、そろそろ失礼させてもらおう。」

昨日そんな大層な名前をつけられるような事はしていないだろと思いつつも、ヤキョウに続いて席を後にしようとする。がー

「逃がしませんわよ!」

ランドと同じく、両足が床に固定される。

「父君も息子に近づく者のマナーがなっていなかったら困るでしょう!それからイロちゃんも!生意気な後輩の話をハチちゃんから聞かせてもらったわよ!」

何やってくれてんだハチさん。

ハチさんの方を見る。

無言、俯いた表情のままだったが、

―いってこいー

何故か勝ち誇った顔にボクには見えた。

「―さあ、行きますわよ!」

カルケルに引きずられながら、ボクたちは嫌々大会堂に連行されていった。



血と怒号と死体が転がっている場所。それが、俺の中にあったイメージだ。

だが、現実は違った。

城門を出ると、昼の中央市は思っていた以上に賑やかだった。魔物の街、と聞いて想像していた暗さや荒々しさはなく、石畳の通りには露店が並び、笑い声が飛び交っている。石畳の通りに露店が並び、肉の焼ける匂いと甘い果実の香りが混じる。笑い声。口論。値切り交渉。どこにでもある、市場の音だった。

「……」

隣を歩くリンツは、小さな袋を両手で抱えている。

魔王の息子。

本来なら、真っ先に刃を向けるべき存在だ。

―昨日、俺はこいつを殺そうとした。

その事実が、背中に重くのしかかる。

「……重いなら、持ちましょうか?」

リンツが遠慮がちに言った。

「いらん」

即座に返す。

翼を失っても、腕はある。それ以上に、こいつに手助けされる資格が、俺にはない。

露店の前で足が止まる。

「お、王子様。今日は星夜祭の買い出しですかい?」

オークが気安く声をかけてきた。反射的に、身体がこわばる。

魔物だ。敵だ。討つべき存在だ。

だが、オークは俺を一瞥しただけで、興味を失ったように野菜を袋に詰め始めた。

「ほら、今日のは新鮮ですぜ。昨日みたいに馬のせいで無駄に日光を浴びてねえですんで…」

「ありがとう!」

リンツが礼を言う。

「……」

俺は、そのやり取りを、ただ見ていた。敵意も、警戒も、憎しみもない。

そこにあるのは、ただの商売と日常だった。

ふと、通りの向こうで子どもたちが走り回っているのが目に入る。

骨の犬。

スケルトンの母親。

転びそうになって、笑って、叱られて。

―家族。

胸の奥が、きしむ。

俺は吐き気をこらえ、両手の荷物を持つことに専念する。

「…大丈夫ですか?」

リンツは心配そうに声をかけてくる。

「…なんのことだ。」

「だって、今顔色悪いですよ。瞳にも、生気が宿ってないですし。」

「いらん心配だな。…人の心配をする暇があるなら、まず自分の身を案じたらどうだ。」

そうだ。

こいつは、昨日自分を殺そうとした者を護衛に付けている。しかも、単独行動ときた。殺されても文句は言えないはずだ。

「…うーん…………でも、ハチさんはもうボクを殺そうとしたりしないでしょう?」

「……何を根拠に。」

低く、吐き捨てるように言う。

「根拠、ですか?」

リンツは少し考えるように視線を上げてから、

「だって、今のハチさん、すごく――迷ってる顔をしてます」

「……」

否定しようとして、言葉が出なかった。

迷っている?俺が?

馬鹿な。

俺は天使だ。魔物をかばうことなど、有り得ない。

「それに」

リンツは続ける。

「その目からは、魔物を憎むことこそあっても、もう有無を言わさずに殺したりはしないことを物語っていますよ。」

昨日の自分を、思い出す。

剥き出しの正義。疑いのない殺意。魔物を滅ぼすためだけに研ぎ澄まされた刃。

ー今の俺は、どうだ。

市場の喧騒の中で、露店の呼び声に肩をすくめ、子どもの笑い声に吐き気を覚え、護るべき対象の言葉に、言い返せずにいる。

「……」

口の中が、やけに苦い。

「それに」

リンツは、こちらを見ないまま言った。

「ハチさん、さっきからずっと……前に立ってます」

言われて初めて理解した。

俺は、無意識にリンツの半歩前を歩いていた。通行人がぶつかりそうになるたび、進路をずらし、露店の角では、自然と身体を盾にしていた。

「……癖だ。」

そう言うしかなかった。

「そっか。」

リンツは小さく笑った。

「じゃあ、いい癖ですね。」

買い物袋が、やけに重く感じる。


「……リンツ。」

気づけば、名前を呼んでいた。

「はい?」

「……もし、」

喉が、詰まる。

「俺が……昨日の続きを、今ここで始めたら」

リンツは立ち止まり、こちらを見上げた。

「……その時は」

少しだけ、真剣な顔で、

「逃げます。」

しかし、どこかあどけない笑顔を見せた。

無謀だ。力の差など、理解していない。だが、その無防備さが、胸を締めつけた。

「……愚かだな。」

吐き捨てる。

「よく言われます。」

リンツは平然と返した。

沈黙が落ちる。

市場の喧騒が、再び耳に戻る。肉の匂い。笑い声。平和な日常。

―忘れるな。

こいつらは魔物だ。笑顔も、日常も、全部が虚像。今は油断させているだけだ。

いずれは牙を剥く。

その時は、こいつを人質に取ってでも、返り討ちにしてやる。

「ハチさん、次は香辛料ですね」

リンツが何事もなかったように歩き出す。

人質にするつもりの相手の背中を、俺は黙って追いかけている。通りの角で、露店の屋根がきしむ音がした。上から木箱が落ちてくる。

「――!」

考えるより先に、身体が動いた。リンツの襟首を掴み、引き寄せる。木箱は俺の肩をかすめ、石畳に砕け散った。

「……大丈夫ですか!?」

リンツが目を見開く。

「……チッ」

舌打ちで誤魔化す。

「前を見て歩け。死にたいのか。」

「え、あ、すみません……」

しゅんと肩をすくめるリンツ。

――違う。

今のは、護衛の動きだ。魔物を守る必要など、なかった。

露店の主人が慌てて駆け寄ってくる。

「す、すまねぇ!怪我は―」

「問題ない。」

俺は即答する。主人はリンツに頭を下げ、

「王子様に何かあったら大変だ……」

バツが悪そうに奥へとすっこんでいった。

「……行くぞ。」

「―はい!」

市場の喧騒が、また流れ込んでくる。

買い物袋は、さっきよりも重くなっていた。



「―で、あるからして我々魔物は現在までこの世に残っているのです。これは、人間達にはない最大の特徴であると言えー」

朝食からずっとカルケルはカタカタと詭弁を垂れる。

話の内容は、マナー講座とは名ばかりの、実質的な魔物の歴史についてだった。

―この話はハチさんから延々と聞かされていたんだけどなぁ。

ぼんやりと窓の外を眺める。他の受講者も退屈そうに机に突っ伏している。

「―じゃあ最後に、今日は自分にとって、一番大事なものについて、で話を閉めようと思います。―まずはライブ坊ちゃん!」

「ふぇ?」

寝起きのライブはすっとんきょうな声を上げる。

「貴方にとって、一番大切だと思うものは、次のうちどれかしら?

①絆

②正義

③過去

④未来」

「んあー……」

ライブは精一杯寝ている頭をはたらかせているようだ。

「自分の芯がしっかりしている者ほど、こうした問いに迷わないものですわ。」

カルケルは満足げに頷き、教壇の縁に指先を置いた。

「さあ、ライブ坊ちゃん。どれです?」

「ええー……ええーっと……」

ライブは腕を組み、うんうん唸る。

「…俺は①の絆だな!これからもリンリンやヒヒーンと一緒にいたいし!」

大会堂から拍手がおこる。

「―あ?俺今もしかしてすげえ恥ずかしいこと言った?」

「そんなことはありませんわ!友や臣下を重んじる心、とっても大切なことですわ!」

次第に顔が真っ赤になるライブをよそに、カルケルは話し続ける。

「ただ、もう少し自分のことを話せた方がいいわね。坊ちゃん、次回の講習までに言いたいことを言語化できる能力を高めておくんなまし!」

「―ちょっと待って、今のなし!」

「さて、次はランピー!」

話はランドに振られる。

「おいどんでっか?」

ランドは気だるそうに椅子から身を起こし、後頭部をぽりぽりと掻いた。

「えーっと……選択肢は、①絆、②正義、③過去、④未来、でっしたっけ?」

「ええ、そうですわ」

「んー……」

ランドは天井を見上げ、しばらく考え込む。

「……自分は③過去でごわすかねぇ。」

「過去、ですか。」

「はいでっす。」

ランドは、少しだけ困ったように笑った。

「おいどん、昔はただの野良オークで。食うもんも、寝るとこもなくて……」

ランドはちらりとヤキョウの方を見る。

「―今ここにおるのは、拾ってもらったおかげでっすから。」

大会堂の空気が、少しだけ静まる。

「昔を忘れちまったら、今のありがたみも分からなくなる気がしてでっすな。」

「……立派な答えですわ。」

カルケルは珍しく、即座に褒めた。

「じゃあ、イロちゃん!」

不意に名前を呼ばれ、びくっと肩が跳ねる。

「え、ボク……?」

逃げ場はない。大会堂の視線が、一斉にこちらへ集まる。

ライブはにやにやしているし、ランドは「がんばれだす」と小声で囁いてきた。

カルケルは楽しそうに扇子を鳴らす。

「①絆、②正義、③過去、④未来。あなたにとって、一番大事なものはどれかしら?」

大会堂の空気が、わずかに静まる。さっきまで退屈そうにしていた皆の視線が、こちらに集まるのが分かった。

「……」

口を開こうとして、すぐ閉じる。

正直、どれも簡単には選べなかった。

「迷っていますわね。」

カルケルは責めるでもなく、静かに言った。

「……はい。」

それだけが、やっと出た言葉だった。

「―理由は?」

理由?

なんだろう。

ここに来てから、頭の中はずっと曖昧だ。天使として教え込まれてきた価値観も、疑わなかった正しさも、この城に来てから少しずつ形を崩している。

ここで何かを誤ってしまったら、その全てが嘘になってしまいそうで、怖い。

これまで言語化できなかった本心が、少しずつ単語として組み合わさる。

ゴーン……

昼食のチャイムが鳴った。

「あら、もうそんな時間かしら?―イロちゃんは次回までに答えをまとめておきなさいね。」

カルケルは優しくそう言って、教卓を降りた。

「飯の時間でっかー!!」

ランドが猛スピードで廊下を駆けていく。

「ランピー!廊下を走るのはマナーがなっていないわよ!」

「知りませぬぅ!とっととおいどんは飯を作るでっかー!!」

カルケルが追いかける。

「やーーっと飯の時間だぜー。行こうぜ、イロ。」

ライブが声をかける。

「―選択できないというのも、一つの選択肢だよ。これからじっくり答えを出していくといい。」

ヤキョウが肩をたたきながらそう言った。

「―うん。」

ボクは少し間をおいて答え、二人のあとを追う。



昼食を終えると、リンツが椅子から降りて、こちらを見上げてきた。

「行きたいところがあるんです。付いてきてくれませんか?」

その声には、命令でも遠慮でもない、妙な静けさがあった。

俺は、即答できなかった。

―俺はこいつの護衛だ。

正確には、罰として付けられた監視役だ。従う理由はある。断る理由も、同じくらいある。

「……どこだ。」

短く問う。

「こっちです。」

リンツは場所を告げず、俺を先導する。

逃げ道を与えるような物言いに、それが余計に癪に障る。

油断するな。

こいつは魔王の息子だ。

どんな顔をしていようと、敵であることに変わりはない。

城の廊下を抜け、裏手の回廊へ出る。

「……ここに入るのか?」

俺は目の前に広がる、昼過ぎとは思えない完全な闇を見て言葉が漏れる。

「はい。」

リンツはお構いなしに、闇へと沈んでいく。

「―勝手に言いやがって。」

俺も後へと続く。


しばらく歩くと、独房が見えてくる。

「…監獄か?天使相手にこんなとこに連れ出すなんて、随分悪趣味だな。」

闇に慣れてきた目に、鉄格子と石壁がはっきり映る。湿った空気。古い血と錆の匂い。やはり魔物とは相容れない。

「もうすぐです。―ほら!」

リンツが指さす先には、人間が入った檻があった。

すぐさま槍を取り出し、穂先を首に突きつける。

「どういうつもりだ?気でも触れたか?」

槍の穂先が、リンツの喉元に触れる寸前で止まる。一息でも踏み込めば、皮膚を裂き、血が出る距離だ。

「言っておくが、俺は自分の命なんか捨てる覚悟でここに来たんだ。お前なんぞ、いつでも殺せる。」

この言葉に嘘はない。

こいつが魔王の息子だろうと関係ない。

人間に害をなす者なら刺す。それだけだ。

だが。

リンツは、動かなかった。怯えも、後ずさりもせず、ただ檻の中を見つめている。

「……その人は、先の戦争でボク達に敗北し、捕虜として捕らえられた人です。その戦争も、人間側から仕掛けてきたもので、魔物側も最低限の戦力で撃退したまでです。」

「…だからどうした。お前達魔物は人を喰らう。害をなす生物を駆除しようとするのは自然の摂理だ。」

「それでも」

リンツは、ゆっくりとこちらを振り返った。槍の穂先が、喉に軽く触れる。それでも、目を逸らさない。

「ボクはこの人たちを殺すことはできません。本来なら反乱の意思を積むのが王家の仕事。それでも彼らにだって、守るべき家族がいる。そのために戦にでました。そのことを責めることなど、できません。」

「………は?」

思わず、思考が止まる。

俺はこの人間が生きていることには何ら不満は感じていない。捕えていることに対して、この子供を責めている。

一体全体、何を言っているんだ?

「―おい、何言ってー」

さらに、こいつは人たちと言ったことに気付き、奥を見る。

幾千もの人間が牢獄に繋がれていた。

俺は槍を握る拳に力を入れる。

「どういうつもりだ!本当に気でも狂ったか!?俺は本当にお前を殺すぞ!!」

リンツの首から血が垂れる。

それでもこの子供は芯を持って話し続ける。

「明日、星夜祭があります。祭りで城中がお祝いムードになっている隙を見て、この人たちを逃がします。―本当は、ヒヒーンと一緒に逃がすつもりでした。協力してくれませんか?」

「……協力、だと?」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

槍の穂先に伝わる感触、温い。

血だ。

一歩でも踏み込めば、この場で終わる。

それなのに、俺の腕は動かない。

「城中が浮かれ、警備も緩む。その隙に、裏の水路から―」

「黙れ!」

叫びと同時に、槍を押し込む。皮膚が裂け、血がさらに滲む。

「ふざけるな……!魔物の、しかも王子が、人間を逃がす?この数だぞ……!」

視線の先。

鉄格子、鉄格子、鉄格子。老若男女、傷だらけの兵、くたびれ切った様子の子供兵。呻き声すら上げる力の残っていない者もいる。

「国が、戦争が、どうなるか分かって言っているのか。」

「分かっています。」

即答だった。

「これが知られれば、ボクは王子の地位を失います。……もしかしたら、処刑されるかもしれません。」

「なら、なぜだ。」

声が低くなる。

「なぜ、そこまでして―」

リンツは槍を押しのけ、牢屋へと向かう。

「勝手にー」

おもむろに懐からパンを取り出し、牢獄に入れる。

「……いつも、ありがとうごぜえやす!本当に、王子様には感謝の気持ちでいっぱいでー」

しゃがれた声。痩せた手が、震えながらパンを受け取る。

「礼はいりません。足りなければ、また持ってきますから。」

リンツは穏やかにそう言って、次の牢へ向かう。

リンツは、鉄格子の前にしゃがみ込み、次々とパンを差し入れていく。粗末だが、焼きたての匂いがする。城の食卓に並ぶものと、そう変わらない。

「……」

俺は、言葉を失ったまま、その背中を見ていた。

―処刑されるかもしれない、と言った口で。その覚悟を語った直後に。

この子供は、いや、この“男”は、何の躊躇もなく人間に食べ物を与えている。

「なぜだ。」

さっきと同じ問いを、今度は低く、噛み殺すように投げる。

「なぜ、そこまでして人間を―」

「なぜでしょうね。」

少し困ったような声音だった。

「たぶん……当たり前だからです。」

「……は?」

「お腹が空いている人がいたら、食べ物を渡す。傷ついている人がいたら、手当てをする。閉じ込められているなら、出してあげたい。」

リンツは振り返らず、鉄格子越しに中を見つめたまま続ける。

「それを“種族”で分けて考えられなかっただけです。」

胸の奥が、重く沈む。

神様からの言葉が脳裏をよぎる。

魔物は敵。情をかけるな。慈悲は弱さ。

だが、目の前にいるのは何だ?

血の付いた喉元を気にも留めず、牢に繋がれた人間に「また来ます」と微笑む、魔王の息子。

「……愚かだ。」

吐き捨てるように言う。

「―そうですね。」

リンツは微笑みながら返す。

「ボクは、僕は王子失格です。」

拳に力が入る。息が荒くなる。

そこではただ、立ち尽くし見守ることしか出来なかった。


夕食前、魔王を屋上へと呼び出す。

「話がある。すぐに来い。」

魔王は嫌な顔一つせずに従う。

「………何の用で呼びだしたかは分かっているな?」

「―何かこの城で気に入らないことでもあったかな?」

「違う!!」

威嚇する。声を荒げる。

「俺は!」

お前たち、魔物を殺しに来たんだ。

俺は、魔物を根絶やしにするためにここに来たんだ。

ここで、魔王であるお前を殺せば俺は自分のタダシサを証明できるんだ。

後に続く言葉は、脳内には次々と思い浮かぶのに口から発することはできない。決心して握っているはずの槍がゆるりと手から滑り落ちる。

槍は、乾いた音を立てて屋上の石床に転がった。その音が、やけに大きく響いた。

「……っ」

指先が震える。

魔王は、槍に一度だけ視線を落とし、それからゆっくりと俺を見る。

警戒も、失望も、勝ち誇った色もない。

「続きは?」

静かな声だった。その一言が、胸を刺す。

「……黙れ。」

喉の奥が、ひどく乾いていた。

さっきまで溢れかえっていたはずの言葉が、形を失っている。

殺す。

根絶やしにする。

―それが正義だと、疑うことなどしなかった。

だが。

牢の中でパンを受け取る人間の手。

血を流しながら、それでも人間を逃がそうとするリンツの目。

市場で笑っていた魔物の子どもたち。

それらが、脳裏で重なって、剥がれない。

「……オレは」

声が、掠れる。

「オレは、正しいことをしてきたはずだ。」

神に与えられた使命。

天使としての役割。

魔物は敵。情は不要。慈悲は罪。

そう教えられてきた。

そう信じてきた。

「なのに……」

魔王は、口を挟まない。ただ、風に揺れるマントを押さえながら、聞いている。

「……お前の息子は、人間を逃がそうとしている。俺は、それを見て……」

喉が詰まる。

「……間違っていると、言えなかった。」

屋上に沈黙が落ちる。遠く、城の中から夕餉の準備を告げる鐘の音が、微かに聞こえた。魔王は、そこでようやく口を開く。

「それで?」

淡々とした問いだった。

「それで、君は今、私を殺したいのか?」

「……オレは」

足元に転がる槍を見る。あれは、迷いなく振るうための武器だったはずだ。

「…………分からない……」

魔物を憎む心が、理解を拒み続ける。

恨みの深い痛みが、記憶の奥を刺激するー



少年は、とある農家に生まれた。

家族構成は、両親に父方の祖父、二人の弟だけのごく平凡な家庭だった。

それでも少年は、日々の暮らしに満足していた。

澄み渡った空気。自然が奏でる音色。広大な土地。

畑を耕す労働でさえ、少年は喜んでいた。

『兄として、弟を必ず守りなさい。』

少年が両親から日ごろ言われていた言葉だった。

少年は自身が弟を守れることを最大の誉れだと考え、この教訓を常日頃頭に入れていた。

少年には夢があった。

それは、小説家になることだった。

ある時街で両親に一冊の本を買ってもらったその時から、少年は夢への近道だと信じて毎日欠かさずに日記を書き続けていた。

日記はほとんどのページが家族のこと、弟たちのことで埋まっていた。

この日々が永遠に続くことさえできればいいと、少年は思っていた。

ある夏の日差しの強い日のことだった。

少年は、夏の畑の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、汗で濡れた手を拭った。

「こっちの方に行ったと思ったんだけどなー」

少年は、虫を追いかけていた。

少年の弟が言った。

「兄ちゃん、こっちの方に逃げ込んだのかも!」

弟が指さす先は、両親からきつく言われていた魔物の出る森だった。

「―いや、よそう。運が悪かったと思うしかないな。」

少年は弟を引き連れ、家へと帰っていった。

その晩のことだった。

少年がいつものように母の手伝いをしていると、祖父が弟の一人が帰ってきていないことに気付いた。

少年はまさかと思い、父親の静止を聞く暇もなく家を飛び出した。

少年は魔物がいると言われていた森へと向かった。

「どこに行ったんだ…!」

少年は必死に探した。

すると、赤い液体の跡が残っていた。

少年は恐怖で青ざめた。

だが、捜索をやめなかった。

朝になり、もしかしたら家に帰っているかもしれない、と淡い期待を持って少年は帰路についた。

家に着いた。

それを見た。

両親が惨たらしく地面に散乱していた。いなくなった方の弟の姿はそこにはなく、八体の魔獣がもう一人の弟の四肢をもいで喰らっていた。祖父は壁に磔になり、

「儂を痛めつけるのは構わん!どんな理由があろうと!子供には罪はない!どうか子供たちだけはやめてくれぇ!!」

必死の形相で叫んでいた。

少年は恐怖でその場に硬直することしかできなかった。

やがて、一体の魔獣は少年に気付いた。

「もう一匹、生き残りがいるみたいだな。」

魔獣がずんずんと近づいてきた。

少年は一目散に逃げ去ろうとした。

「―待てよ、ただ喰うだけじゃつまらねえ。ゲームしようぜ。」

いつの間にか後ろを取ってていた魔獣に足を掴まれ、宙づりになっていた。

そこから、地獄のような時間が続いた。

「お!?今度は死んだか!?」

「……ゲホッ!」

「っしゃあ!今度お前の番な!!」

魔獣が提案したゲーム、それは少年を殺さずに誰が一番長く首を絞め続けることができるのか、というものだった。

少年はその時間が永遠に続くかのように思った。

死亡。

覚醒。

死亡。

覚醒。

何度繰り返されても、自身の命が尽きるまでそのループは終わらなかった。

やがて、ペキョッと少年の首が折れる音がした。

「あーあ、つまんねーの。」

薄れかける意識の中、少年は弟を守れなかったことが深い後悔に沈んだ。


ある時、一体の天使が目を開けた。

「―今度はもう、失わない。」

無意識に出た言葉を残し、天使はその場を飛び立った。



俺は、首に刻まれた【8】の番号をおさえる。

「……お前たち魔物がしてきたことは、悪だ。番号の意味、お前は分かったか?」

「………」

魔王は無言で頭を下げる。

「…私達が人間にしてきたことは到底許されざることじゃないだろう。許されるのならば、私一人の命で贖罪させてほしい。」

「…オレは…………俺はあんたを殺さねーよ。」

魔王は頭を上げる。

「…俺は過去の憎しみに囚われたただの殺戮者だ。あんたを殺す判断には、どうしても過去を引きずっちまう。……あんたを殺すか決めるのは、過去を知らない後輩さ。」

「…………………………………ありがとう。」

魔王は長い間をためて、礼で返した。

「王子様が言っていたが、お祭り、明日なんだって?イロには三日後と昨日伝えていたのに何故変えたんだ?」

「それは……」

魔王の顔が曇る。

「……星夜祭には、必ず私が生きていなければならないからだ。」

「は?どういう……」

その言葉の意味に気付く。

明日。

夜。

まさかー

「―頼む。まだ、イロには伝えないでいてくれ。彼が自分でその意味に気付くまで、ここは彼にとって幸せな場所であってほしいんだ。」

「……何で…………そこまで…………」

夕焼けが沈む。

その日はもう見ることはなく、


痛いほどに光が、夜空を照らす。

ここまで見てくれて感謝します。

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