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第二章 願望

見てくれた方に感謝します。

天界に帰還したボクは、神様への報告の準備を始める。

「随分早い帰りだな。…お前の手にかかれば、魔王相手でも赤子同然だったのか?」

振り返ると、天使長、ハチさんがボクに話しかけていた。

「別に。そもそもボクは魔王と少ししかやりあってないし、まだ魔王は存命ですよ。」

ボクは手早く返事を済ませ、神様のもとへ向かおうとする。…が、ハチさんが肩を掴んで引き留める。

「…どういうことだ。」

ハチさんは険しい表情で腕組みをしてボクに迫ってきた。長い年月をかけて磨かれた青い翼が威圧的に広がり、その下から見える厳粛な眼差しには、明らかに不快感が滲んでいる。

「お前に割り与えられた任務は魔王の殺害だったはずだ。それなのに、魔王を生かしてきたとはどういうことだ。」

ボクは黙ってハチさんを見つめた。その紅色の瞳に映る自分の姿は、どこか他人のようだ。

「答えろ、イロ。」

ハチさんの声は低く重かった。これまでにも何度か叱責されたことはあったけれど、今日は違っていた。彼の深い憎しみの感情が表面に現れている。

「魔王と接触した時、奴は三日後に迎える魔国の国立記念日に参加するため、そこまでは生かしてほしいと『お願い』され、それに願いの器で答えました。」

ハチさんは大きくため息をつき、失望した眼差しを向け、こう言った。

「お前は相手を甘く見ている。いいか?相手は魔物、人類を脅かす恐怖そのものだ。奴らの矛先は常に人間に向かい、隙あらば食い殺そうとする。それが奴らの本性だ。」

「そうですか。ですがボクは神様からヤクワリを授かりましたが、それ以前に天使です。天使のヤクワリは願いを望むものの願いを叶える。前にあなたが言った言葉です。」

「相手が悪意のない人間だったらな……。神様が数多の神具を扱えるお前のことを高く評価し、俺もお前を紛れもなく歴代最高傑作の天使と見ていたが、どうやら高く見積もりすぎたようだ。」

「そうですか。ボクはただ天使としてのヤクワリを全うしただけですけどね。」

「…何故そこまで歯向かう。…まさかとは思うが、貴様、魔王に懐柔されたのか?」

耳を疑った。何故ボクが魔王の味方をしていることになっているのだろう。

「違います。奴は神様の天敵。神様を貶めようとする邪悪の化身。いくら願いがあろうとも、ボクは三日後に必ず奴を殺します。」

ハチさんはしばらく考え込んだ後、ようやく言った。

「そうか。そういえば前から生意気な奴だったな、お前。―神様への忠誠心は見せてもらった。だが、三日後は遅い。必ず明日魔王を始末しろ。」

「え?願いの力があるので無理ですが。」

「口答えするな。…神様には俺から報告しておく。お前はとっとと魔王を駆除してこい。」

ハチさんは一蹴し、半ば無理やりボクを天界から追い出した。


下界は薄暗く、冷たい夜気が肌を刺すように吹き抜ける。空には雲ひとつなく、数多の星々が光を放ち、遠く離れた二人が導くように、互いを結んでいる。ボクはゆっくりと地上へ降り立ち、足元の感触を確かめた。そこに広がるのは砂漠のように乾燥し、岩が点在する荒野のようだった。乾ききった砂漠の夜風に身を委ねるように、ボクは魔王城の方向に目を向けた。

魔王城はやはり遠くからでも圧倒的な存在感を放っている。巨大な構造物が暗闇の中にそびえ立ち、その屋根からは煙が立ち昇っているのが見える。城壁は高くそびえ立ち、内部に何が隠されているかを容易に想像させない。それほどまでに、魔王城はまさに恐怖を体現した象徴だった。

ふと、遠くから風に乗って運ばれてくる喧騒がかすかに耳に入る。その中には人々がどよめく声や怒号、悲しくむせび泣くが入り混じっているようだ。見ると、それは人間の国の方角で、人間国では揺らめく炎の橙色の灯りが夜空を明白に照らしている。

「先代国王に、敬礼!!魔王に死を!!!」

…先日、全ての寿命を捧げ死亡した国王の追悼を行っているようだ。

「先代国王に、敬礼!!魔王に死を!!!」

狂ったように繰り返される敬礼に、国王への大きな敬愛と魔王への深い憎しみが感じ取れる。荒野の向こうで響く怒号は、夜気を震わせ、星々の光をかき消すほどの熱を帯びていた。遠くで燃える炎の揺らぎが、冷えた心臓の表面をかすめるほどに。

「……愛されて、いたんだな。」

呟きは風に溶け、砂に吸い込まれる。国王の死を悼む声と、魔王への憎悪が混ざり合い、夜の底で渦を巻いている。その渦の中心に、ボクの存在もまた巻き込まれているのだと、どこか他人事のように理解した。

だが、ここに長く留まる理由はない。天界での叱責が胸に残っている。魔王の願いを叶えたことへの疑念と不信。それらを振り払うように、ボクは静かに翼を広げた。

夜風が羽根を撫で、冷たい空気が肺に流れ込む。荒野の熱気はすぐに遠ざかり、星々の光だけがボクの周囲を照らした。虚空を切り裂き、突き進む。冷たい風が羽根を撫で、荒野の熱気を一瞬で洗い流していく。下界の喧騒はすぐに遠ざかり、やがてただのざわめきに変わった。魔王城は、闇の中に沈む巨大な影のように見えた。

近づくほどに、その存在感は圧を増し、空気が重くなる。魔力が濃く、冷たく、肌を刺すようにまとわりついてくる様は、まるで城そのものが呼吸をしているかのように、脈動する気配があった。

―相変わらず、気味の悪い場所だ。

城壁の上空をゆっくりと旋回し、着地の場所を探す。魔王城は巨大で、どこもかしこも闇に沈んでいる。だが、中央の大門だけは、薄く灯る紫の炎が揺らめき、訪問者を誘うように光っていた。

ボクはその前に降り立った。

着地した瞬間、足元の石畳が微かに震えた。魔力が流れ込むように、冷たい波が足首を撫でる。歓迎される雰囲気ではないことは、城門の奥から溢れ出る禍々しいオーラが示していた。

城門は閉ざされている。だが、近づくと、まるでボクの存在を感知したかのように、重々しい音を立ててゆっくりと開き始めた。

ギィィ……

低く、湿った音が闇に響く。ボクは中からの攻撃に備え、臨戦態勢を整える。しかしー

「戻ったのか、イロ。」

中から現れたのは魔王だった。

「……お前、ここで何をしている。」

「君を迎えに来ただけだ。」

「迎える必要はない。ボクのヤクワリはお前の監視。お前がどこにいようと探し出す。」

「そうだな。だが、ここは魔国、闇の国だ。明かりも無しに私を探し出すのは難しいのじゃないかな?」

魔王は静かに微笑んだ。その表情には敵意も焦りもなく、ただ淡い安堵だけがあった。

「天界で、何かあったのだろう?」

「……別に。」

「そうか。」

魔王はそれ以上追及しなかった。ただ、遠くの炎の揺らぎを眺めながら、静かに言葉を続ける。

「…人間たちの声が聞こえた。“魔王に死を”と。」

「当然だ。お前は人間の敵だ。」

「そうだろうな。」

魔王はあっさりと認めた。その声音には、怒りも悲しみもなかった。

「…お前達は人類が何故魔物を憎んでいるのか知らないのか。」

「何でもないさ。ただ、君が戻ってきてくれて良かったと思っただけだ。」

魔王は城門へ向かって歩き出す。その背中は静かで、揺るぎなく、どこか疲れたようにも見えた。

「さあ、入ろう。三日間は、君もこの城で過ごすのだろう?」

ボクはしばらくその背中を見つめていた。魔王城の奥から吹き出す冷たい闇が、ボクの足元を撫でる。

――三日後、ボクはこの男を殺す。

その事実だけが、ボクの心を支えていた。

「……勝手に仕切るな。」

そう言いながら、ボクも城門へと歩き出す。

魔王城の内部は、外よりもさらに暗く、冷たかった。だが、不思議とそれはボクにとって安堵できるものだった。まるで城そのものが、ボクを奥へ奥へと誘っているかのようだった。


魔王城の奥へ進むにつれ、空気はさらに重く、濃く、まるで液体のようにまとわりついてきた。闇が深い。だが、不思議と息苦しさはない。むしろ、天界の澄んだ空気よりも、どこか落ち着くような感覚さえあった。

「イロ、こっちだ。」

魔王は振り返り、薄闇の中で淡く光る黄金の瞳を向けた。その光は、闇を裂くのではなく、闇に溶け込むように柔らかかった。

「……案内なんて必要ない。監視対象が勝手に歩き回られても困る。」

「そう言うと思ったよ。」

魔王は肩をすくめ、玉座の間とは別方向へ歩き出す。ボクは無言でその背中を追った。

やがて、重苦しい闇がふっと薄れ、代わりに微かな温もりが漂い始めた。通路の先に、淡い青白い光が揺れている。闇を押し返すのではなく、闇と寄り添うように淡く脈打ち、まるで呼吸しているかのように揺れている。

ボクは無意識に歩幅を狭めた。魔王城の内部で温もりを感じるなど、あり得ない。それは罠か、幻か、あるいは―

胸の奥がざわつく。天使としての本能が、警戒と困惑の狭間で揺れ動く。

青白い光は、闇の中でゆらりと形を変えながら、まるでボクを誘うように脈動していた。 近づくほどに、温もりは確かに強くなる。だが、それは炎の熱ではない。もっと柔らかく、もっと静かで、もっと……懐かしい。

「……これは、何だ。」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。

「灯霊だよ。」

背後から落ちてきた魔王の声は、いつもより低く、どこか遠い響きを帯びていた。振り返ると、仮面の奥の黄金の瞳が、淡い光を映して揺れている。

「灯霊?」

「我々魔族は、身体の構成が人間や他の種族と異なり、魔素でから成っているのは知っているだろう?…死ねば、形としての死体は残らずに灰となった魔素だけが残る。灯霊は、残された魔素の遺灰に炎を吹きかけ、疑似的に蘇らせた魂のようなものだ。個体差はあるが、生前の記憶を持ち会話する個体もある。」

「死者の魂……」

ありえない。

あらゆる生体は死後、輪廻転生し、別の世界で生まれ変わる。神様や天使、神獣のいる天国や、閻魔大王の支配する魔物や悪魔が徘徊する地獄で転生した個体には稀に前世の記憶を持つ個体がいることがあるが、それはもといた世界から魂が完全に移動した証。そもそも同一個体で世界を移動することができるのは天使や悪魔程度で滅多に存在しない。ましてや、死体に魂が残っていることなどなく、その魂に記憶が残っていることなど、ありえない。

「イロ。」

名を呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。だが、それは恐怖ではない。もっと別の……言葉にできない感覚だった。

「疑問かい?灯霊となったものに意識があることが。」

「…何故、彼らは記憶が残っている。万物は皆、死後転生をするはずだ。生きてその世界にとどまることなど、机上の空論に過ぎない。」

魔王は暗い仮面の奥をさらに暗い表情で覆い、話し続ける。

「我々魔物は、転生することはできない。」

その答えは、ボクにとって想定外のものだった。

灯霊の淡い光が揺れ、静寂が落ちる。魔王の暗い背中が闇に溶け、冷たい空気がボク達を覆う。胸の奥に沈んだ疑問は、灯霊の光に照らされてなお、形を持たないまま揺れている。

「私達は遥か昔、一人の強大な魔力を持つ人間によって造られた人口生命体、『スライム』の生き残りなんだ。その出自故に魂を持たず、生まれ変わったりということはできないんだよ。」

スライム。

ハチさんの話で聞いたことがある。かつて大きな野望を持つ悪意ある人間によって造られたという原初の魔物。その軟体な身体はあらゆる形に変化し、万物に成り得るという。強大な魔力を持つ生命体だったが、誕生の過程上経験が乏しく、その弱点を人間に突かれ弱体化し、自らの眷属にとどめを刺される末路を辿ったと聞いていたが…。

この男の発言が真実なら現存する魔物は、全てその眷属の遠い祖先ということになる。仮にそうなら、こいつらは皆魂を持たない故に転生することはない。

……好都合だ。20000年もの間、人間達を襲い続け、自らの渇望と繁栄のためだけに存在し続けた種族など、転生先でも悪さをするに違いない。三日後にこの場で消滅してしまったほうが世のためだ。

「…君は、何か悩んでいるのかい?」

魔王はこちらの考えを見透かすように疑問を投げかける。鋭い勘だ。

「―別に。」

即答したはずなのに、声は妙に重かった。自分でも驚くほどに。

何故だ?ボクはこいつら魔族を滅ぼすためにここにいる。魔族は悪だ。それは間違いない。

ボクは自分自身を奮い立たせ、魔王に向き直る。

「天使は、迷わないものだと思っていたよ。」

「迷ってなんかー」

ボクは言い返そうとしたが、相手の形相に言葉が詰まる。

魔王は灯霊の光の中に立ち、静かにこちらを見つめていた。その視線には、敵意も探るような鋭さもない。ただ、淡い興味と、どこか寄り添うような柔らかさがあった。

魔王はこちらの視線に気付くと、緩やかに視線を灯霊に移し、優しく両手ですくい上げるように触れる。光の粒子は、魔王が触れると綿毛のように拡散し、消える。魔王は灯霊が消えるとしばらくその場に立ち呆け、やがて両手で合掌を作り、再び一連の動作を繰り返す。

ボクは魔王のその所作一つ一つに心を奪われた。いや、魔王のような巨悪に心を奪われるなどあってはならない。

ボクは魔王のその動作一つ一つに視界をとられた。

―やがて灯霊の揺らぎが静かに収まり、通路には再び深い闇が満ちていく。魔王の背中が闇に溶けて見えなくなると、ボクは息を吐く。胸の奥に残ったざわめきは、まるで灯霊の残光のように消えずに残っている。

「……ボクは、天使だ。」

自分に言い聞かせるように呟く。だが、その言葉は闇に吸い込まれ、どこにも届かない。

歩き出すと、魔王城の奥へと続く通路は、先ほどよりも静かだった。灯霊の温もりが消えたせいか、闇はより濃く、より冷たく感じられる。

「こっちにおいで、イロ。」

ボクは魔王に誘われるままに、深い闇の中に足を踏み入れる。


随分長い間歩いただろうか。見える景色は暗闇、騎士像、独房、深炎と移り変わる。魔王は度々ボクに構造物について講釈を垂れる。ボクは話半分に聞きながらも、それらの歴史の深さに思わず関心が寄せられる。そんな観光旅行みたいな旅路はやがて、魔王が足を止め案内した部屋に辿り着く。重厚な扉が静かに開き、淡い光が漏れ出した。

「ここが、君の部屋だ。」

魔王は仮面越しに微笑んだように見えた。その声は、闇の中で不思議なほど柔らかく響く。

「……部屋なんて、いらない。監視ができればそれでいい。」

「監視するにも休息は必要だろう?天使といえど、疲労はするはずだ。」

「ボクは―」

疲れなど感じない。そう言おうとした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。

「……」

言葉が続かないボクを見て、魔王は静かに言った。

「君は、ずっと休んでいなかったのだろう。」

「……別に。」

「天使は嘘が下手だな。いや、嘘なんてついたことがないのかな?」

魔王は軽く肩をすくめ、部屋の中へと手を差し向けた。

「入るといい。ここは安全だ。少なくとも、私がいる限りは。」

その言葉に、胸がまたざわついた。

安全?

魔王が、ボクを守る?

そんなはずはない。そんなこと、ありえない。

「……お前は、敵だ。」

「そうだな。だが、敵だからといって、君を傷つける理由はない。」

「……意味が分からない。」

「分からなくていい。君には、休息が必要なんだよ。イロ。」

魔王はそれだけ言うと、静かに背を向けた。その背中は、灯霊の光に照らされた時と同じように、どこか寂しげに。

「…ボクはお前が怪しい動きをしないか、監視する。この三日間。」

自分に言い聞かせるように口に出た言葉は、魔王はどうでもいいかのようだった。

「私は君が三日間、自分の使命を忘れられる事を願っているよ。―これから半刻ほどで朝食がある。それまで休んでいなさい。」

魔王はそう言ってボクを置いて部屋から離れようとする。

待て。

咄嗟に出る言葉は何故か口から発せられることはなく、掠れた絞り声しか出なかった。しかし、魔王には届いたのか、戻ってきてボクに問いかける。

「君は私のことを名前で呼んでくれないのかい?イロ。」

わけが分からない。何故そんなことをする必要がある。

そう発しようとした声は、自分でも意味の分からない言葉に変換されて出力された。

「…ヤキョウ。お前はこれで十分だ。」

ヤマターケル=ヤンヴァルド卿、彼は少し黙ったのち、無邪気な笑い声を漏らす。

「ははははは!ヤキョウか!面白い仮名だ!…気に入ったよ、ありがとう!」

ヤキョウはそう言い残して通路の奥へと消えていった。

部屋には静寂だけが残る。ボクはしばらく扉を見つめたまま、動けなかった。胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。まるで、何かが胸の内側から叩いているような感覚。

「……何なんだ、あいつは。」

呟きは、部屋の闇に吸い込まれていく。

敵だ。三日後には殺す相手だ。それなのに。ボクの胸は、どうしてこんなに騒がしい。

ベッドに腰を下ろすと、柔らかな布が沈み、身体の緊張がほどけていく。初めて触れる、温かい感触。

「……休め、なんて。」

魔王の言葉が頭の中で反芻される。

休め? ボクに? 敵であるはずの魔王が?

「意味が分からない……。」

両手で顔を覆う。指先が震えていることに気づき、さらに混乱した。

天使は迷わない。

天使は揺らがない。

天使は、生き先短い人の願いを叶え、神の命に従い続ける存在。

それなのに―

灯霊の淡い光が脳裏に浮かぶ。ヤキョウの、あの優しい手つきが。

「……ボクは、天使だ。」

言い聞かせるように呟く。だが、その言葉は自分の中に落ちてこない。胸の奥に残るざわめきは、灯霊の残光のように消えずに残っている。

「……どうして、こんな……。」

答えは出ない。出ることはない。

ボクはただ、膝を抱え、静かに目を閉じた。闇が、ゆっくりと意識を包み込んでいく。それはボクが感じたどの光よりも暖かい闇だった。


コンコン

遠くで何かが叩かれる音がした気がしたが、眠気が勝ち、意識は沈む。

「……イロ。」

声がする。うるさい。

「イロ、起きなさい。」

肩が揺さぶられた。うるうるさい。

「……む……」

「起きろ。」

次の瞬間、身体がぐいっと引き起こされた。

「っ……!?」

目が覚めた。

強引に上体を起こされたせいで、頭がぐらりと揺れる。目の前には案の定と言うか、仮面の奥で黄金の瞳を光らせるヤキョウがいた。

「ようやく起きたか。夕食の時間だ。」

「……っ、何するんだよ……!」

寝起きの不機嫌さがそのまま声に出た。うるさいよ。

しかしヤキョウはまったく悪びれず、むしろ当然のように言う。

「何度呼んでも起きなかったからな。仕方ないだろう。」

「勝手に触るな…!」

「触らなければ起きなかっただろう?」

ぐうの音も出ない。だが、納得はしていない。

「……うるさい。寝てただけだろ。」

「寝すぎだ。天使でも疲れるのだな。」

「疲れてない!」

即答したが、声が裏返った。ヤキョウは小さく笑ったように肩を揺らす。

「そうか。では、立てるか?」

「立てる!」

勢いよく立ち上がったせいで、足元がふらつく。ヤキョウが支えようと手を伸ばしてきたが、ボクは反射的に払いのけた。

「触るなって言ってるだろ!」

「はいはい。では好きに歩くといい。」

ヤキョウは軽く手を上げ、部屋の外へと歩き出す。その余裕の態度が、さらにイライラを刺激した。

「……なんで起こすんだよ。夕食なんてどうでもいいのに。」

「どうでもよくない。君は監視役だ。私の食事を監視する義務がある。」

「……っ」

「それに」

ヤキョウは振り返り、仮面越しにボクを見つめた。

「君が食べずに倒れたら、私は困る。」

「……意味が分からない。」

「分からなくていい。さあ、おいで。」

その言い方がまた癪に障る。だが、腹の奥がかすかに鳴ったのを自覚し、ボクは顔を赤くした。

「……別に、腹なんか減ってない。」

「そうか。では、食堂で確認しよう。」

「……っ、うるさい!」

ギャーギャー騒ぐボクを、あろうことかヤキョウは抱えこんだ。

「さわるなあああああ」

「はいはい。お腹が空いているから不機嫌なのでしゅね。早く食べましょうねー」

赤子を諭すような言い方に怒りが頂に達する。バタバタと手足を振る。離さない。離せ。

「はなせえええええええ」

ヤキョウは無視して歩き続ける。

廊下には灯霊の淡い光が揺れ、静かな闇が広がっている。ヤキョウの歩幅は相ゆっくりで、ボクが振り落とされないように合わせているのが分かる。それがまた、妙に腹立たしい。

灯霊たちがボクの方を見て明らかに立ち止まっている。ようやく寝起きから覚醒してきたボクにとって、すごく恥ずかしい。

「降ろせ!別に一人で歩ける!」

「私のことは気にしなくていい。対して重くない。」

「うるさいよ!離せ!勝手に気を遣うな!」

「気を遣っているつもりはない。君が迷わないように歩くにはこれが一番手っ取り早いと思ってね。」

「それを気を遣ってるって言うんだよ!」

「そうか?」

「そうだよ!」

ヤキョウは小さく笑った。その笑い声が、なぜか胸の奥をざわつかせる。この時点で何を言っても無駄だと悟り、あきらめる。

「……もういい。黙って歩け。」

「了解した。」

素直に従うその態度が、また腹立たしい。

そんなやり取りをしながら、ボク達は食堂へと向かっていった。


広々とした食堂には、長い黒檀のテーブルが一本、中央に伸びていた。天井からは水晶のような鉱石が吊るされ、淡い光を放っている。壁には古の戦いを描いたタペストリーがかかり、静かな威厳を漂わせている。ヤキョウに案内されるままに席に着いた時には、すでに三人が卓についていた。

一人は小柄な魔人。黒の下地に金の模様が入ったスカーフを身に着け、ナイフとフォークを巧みに使って肉を口にほおばっている。その仕草からは一見凛々しさを感じるが、反面見た者を委縮させ孤高である気品からどこか内気な性格を宿していることが読み取れる。魔人はボクの視線に気づくと一瞬だけ肩を震わせ、スカーフの端をぎゅっと握りしめた。

その隣でバクバクと肉を放り込むのは大柄な魔獣。上半身は一見人型に見えるが、頭と下半身は明らかに人のそれではなく、四本の足とブンブブーン振り回す尾は馬のように見える。そして顔は完全に馬である。

小柄な魔人の向かいに座って談笑しているように見受けられるのは、こちらも小柄な魔人だった。しかし対面の子魔人と比べると、片足をテーブルに上げむしゃむしゃとフォークに刺さる肉を食べている様子からは気品を感じられない。

「…この者たちは?」

「私の息子とその配下、そして息子の友達だよ。―ライブ!行儀が悪いからちゃんと座って食べなさい。」

ライブと言われた子供は「へーい」と気の抜けた返事をしながら、しぶしぶ足を降ろした。

「彼が息子?」

「いや、彼は息子の友達だ。ライブという。私の息子はあっちの、独りよがりな方だ。」

ヤキョウが顎で示した先で、もう一人の子供がぴくりと肩を震わせた。

視線を感じたのか委縮し、こちらを見ることもなくぷいっと顔を背ける。

「…見ての通り、内気でね。自分に自信がなく、閉じこもっていることが多い。唯一心を開いているのが、魔族の家系のライブと目付け役のヒヒーンだ。」

バクバクと肉を食べていた馬頭がぴたりと咀嚼を止める。

「…ヤマターケル卿、初対面の相手にヒヒーンで紹介するのはやめるうま。」

ヒヒーンと呼ばれた馬面は立ち上がり、ボクの方へと向き直る。体躯は大きく、威圧感もあるはずなのに、その仕草は妙に律儀だ。

「ケンタウロス族長、ヒヒだうま。ここではリンツ様の目付け役を担当しているうま。以後、よろしくうま。」

そう言って、深く頭を下げ、前足を差し出す。

ボクはどう応じるべきか迷った。色々情報量のありすぎる魔獣に。

だが、何も言わないのも不自然で。

「……イロだ。」

そう告げて握手で返すと、ヒヒーンは満足したように頷き、席へと戻った。何事もなかったかのように、再び肉にかぶりつく。

ボクはひたすらに困惑した。

卓上には、いくつもの皿が並べられていた。新鮮な果実、煮込まれたスープ、骨ごと盛られた塊肉。赤黒いソースが艶を帯び、湯気とともに濃い香りを立ち上らせている。その匂いが、思いのほか不快ではないことに、まず戸惑った。

「冷めないうちに食べるといい。心配せずとも、うちのシェフの料理はまずいことはない。」

ヤキョウの声に促され、ボクは手を伸ばす。

ライブは待ちきれない様子で、フォークなど使わず、素手で肉を掴んだ。脂が指を伝って滴り落ちるのも構わず、豪快にかぶりつく。

「熱っ!うまっ!熱っ!」

声を弾ませながら、再び噛みしめる。

隣ではヒヒーンが、大きな顎で骨ごと肉を砕いていた。ごり、という鈍い音が卓に響く。咀嚼は荒いが、無駄がない。戦士の食べ方だ。

対照的に、リンツは皿に視線を落としたまま、ほとんど動かない。フォークを握る指先に力が入りすぎて、白くなっている。肉に手をつける気配はなく、時折、スープを一口含んでは、すぐに視線を伏せる。

「……食べないのか。」

ヤキョウが、さりげなく声をかける。リンツはびくりと肩を跳ねさせ、慌てて首を振った。

「……た、食べてる。」

そう言って、ほんの小さな切れ端を口に運ぶ。噛む動作は遅く、飲み込むまでに妙に時間がかかった。

―無理をしている。

その様子を見て、ボクはそう判断した。栄養の問題ではない。食事という行為そのものが、彼には負担なのだ。

「リンツ。」

ヤキョウは叱らない。ただ名を呼び、視線を向けるだけだ。

「残してもいい。だが、空腹のまま席を立つ必要はない。」

リンツは一瞬迷ったあと、小さく頷いた。

そのやり取りが、あまりにも自然で――胸の奥に、ざらりとしたものが残る。

ボクは胸に手を当てる。

「イロ、君の皿は?」

ヤキョウの視線が、こちらに向いた。気づけば、ボクの前の皿も、ほとんど手つかずだった。湯気はまだ立っている。香りも、悪くない。

「……天使は、食を必要としない。」

いつもの答えを口にする。

「だが、食べられないわけではないだろう?」

否定できない。ボクは、ためらいながらスープにスプーンを沈めた。

淡く光る液体をすくい、口に運ぶ。

――温かい。

舌に広がるのは、想像していたような魔力の刺激ではなく、穏やかな塩味と、じっくり煮込まれた骨の旨味だった。身体の内側に、じわりと染み込む。

「……」

言葉を失ったまま、もう一口すくう。

「どうだ?」

「……美味しい。」

自然とその言葉が口から漏れる。

ライブがこちらを見て、にっと笑う。

「だろ!うちのシェフは料理がクソうめーんだぜ!」

「…君は別にただの使用人だろう。」

ヤキョウは、軽く睨む。それと同時にー

「ブッピギィイイーー!!」

食堂の奥、調理場の方から、甲高くも力強い声が響き渡る。鍋を打ち鳴らすような音が続き、湯気と香りが一段と濃くなった。ボクは反射的にそちらへ視線を向ける。

「……今のは?」

「―料理長のランドだ。うちではオーク族長も兼任してもらっている。」

族長。その言葉が、静かに引っかかる。

料理長、という役割だけでも十分なはずだ。それに加えて、一族を束ねる立場の者が、こうして王城の台所に立っている。

「食は国を保つ。戦よりも、政治よりもね。」

その口調は淡々としていたが、揺るぎがなかった。

ボクは、もう一度スープを口に運ぶ。温度も、味も、先ほどと変わらない。それなのに、胸の奥に沈む重みだけが、確実に増していく。

この城では、王が食卓に座り、族長が自由に職に就き、子供が笑い、そして―天使が、同じ皿に手を伸ばしている。ヒヒーンの咀嚼音、ライブの笑い声、リンツが皿に触れるか触れないかの小さな動き。

そのどれもが、あまりにも「日常」で。

――三日後、この光景は失われる。

その事実だけが、異物のように、ボクの中で浮き上がっていた。

ボクは黙ってスープを飲み干し、空になった皿を見つめた。


食器を片付けるとヤキョウは

「二日間も部屋にいたら退屈だろう?我が城下町を見せてやろう。」

と言って強引にボクを外へと連れ出した。

城門を出ると、城下町は闇の色を帯びつつも活気に満ちていた。道を行き交うのは魔族だけではない。黒い毛皮の魔獣や、翡翠色の鱗を持つ小柄な魔人、空を舞う光翼の妖精……さまざまな種族が雑多に暮らしている。

「見たまえ、イロ。これが私が誇る城下町だ。」

ヤキョウの声は、闇の中で思ったよりも柔らかく響く。ボクは無言で周囲を見回す。人々の表情は険しくもなく、むしろどこか楽しげだ。市場では、魔人が手慣れた手つきで果物を売り、魔獣が荷車を引き、子供たちは灯霊を追いかけて笑っている。

「普通の町とあまり変わらない……」

ボクが小さく呟くと、ヤキョウはくすりと笑った。

「普通?魔王の城下町だからって、恐怖で支配していると思っていたかい?そんなことはないよ。」

ヤキョウはひらりと灯霊を飛ばし、ボクの前でくるくると舞わせる。

「この灯霊たちは、子供たちの遊び相手にもなるし、時には夜道を照らす役目も果たす。」

灯霊はふわふわと飛んでいき、やがて街灯のように整列する。

この街の人々は生きている。

それが最初の感想だった。

市場の角に差し掛かると、大柄な魔獣が店先で揉めていた。

「―だから兄ちゃん、いくら王子様だからって10ヴァルドも負けたら商売あがったりですよ。」

「ん-…じゃあ7ヴァルド、7ヴァルドでいいうま。王族特権うま。」

「3ヴァルド!これ以上は店として負けられないよ。」

「そこをなんとか5ヴァルドは下げてくれうま……」

…野菜の値段交渉で揉めているらしい。ボクが声をかけるより先にヤキョウはヒヒーンにすっ飛んでいく。

「…何をやっているんだ、お前は。―店主、申し訳ない。時価で構わないから買わせてくれ。」

ヤキョウは「痛いうまー」と情けない声を上げるヒヒーンを引きずりながら、店主に深く頭を下げた。耳を放されたヒヒーンは涙目で耳をさすりつつ、文句を言いたげにこちらを見てくる。

「王族を理由に値切るのはやめろって何度言えば分かるんだ、お前は。」

「だって安くしてくれると思ったうま……」

「思うな。」

即答。

店主は恐縮しきった様子で何度も頭を下げ、籠いっぱいの野菜を差し出す。ヤキョウはそれを受け取り、きちんと代金を置いてから、ようやくヒヒーンを解放した。

解放されたヒヒーンは「リンツ様~」といいながらパカラパカラと駆けていった。

「……普段から魔王自ら街を出歩いているのか。」

思わず口にすると、ヤキョウは肩をすくめる。

「城下の経済を知るには、実際に歩くのが一番だろう?数字だけ見ていても分からないことは多い。」

「……王がそんなことをする必要はない。」

「ああ、必要なんてない。」

短い言葉だったが、そこに迷いはなかった。

通りを進むと、今度は広場に出る。中央には大きな石造りの台座があり、その周囲で魔族の子供たちが忙しそうに行き来していた。灯霊達が紐で繋いで飾り付けをしたり、色とりどりの布を柱に巻きつけたりしている。

「星夜祭の準備か。」

「―そうだ。」

ヤキョウはまたしても即答する。しかし、何故か先ほどとは違いどこか影のある声だった。

問いただそうとしたところ、一人の小さな魔人の子供が、重そうな箱を抱えてよろけた。反射的に、ボクは前に出て箱を支える。

箱がぐらりと傾いた拍子に、子供の足がもつれた。が、ボクの手が箱の底を支えたことで重みは分散され、箱は床に落ちずに済んだ。

「……あ。」

子供は目を見開き、次いで、ほっと息を吐いた。

「ありがとう、天使さん!」

屈託ない微笑みを浮かべる子供のその言葉に、胸の奥がわずかに跳ねる。名前ではない。ただの呼び方だ。それなのに、何故か拒絶する理由が見つからなかった。

「……気をつけて。」

そう言った自分の声が、思ったよりも柔らかいことに、少し驚く。子供は「はい!」と大きく頷き、箱を抱え直す。近くで見ると、箱の中身は祭り用の飾りだった。色とりどりの布と、灯霊を留めるための細い紐。どれも壊れやすく、丁寧に扱わなければならないものだ。

「これ、星夜祭に使うんです!」

子供は誇らしげに言う。

「七年に一回だけで、とってもキレイで、すごいんです!」

「……そうか。」

言葉を返しながら、ボクは自分の手を見た。今しがた子供の手に触れたはずなのに、そこに残っているのは温もりではなく、触れた、という事実だけだった。それでも、その事実が胸に残る。

「―イロ、私と一緒に準備を手伝ってくれないか?」

「……ボクは、」

断ろうとして、言葉が詰まる。その理由を、即座に思い出せなかった。

「……少しだけなら。」

子供は嬉しそうに笑い、箱を抱えて広場の方を指差した。その背中を追いながら、ボクは思う。

――魔族は、敵だ。

――殺すべき存在だ。

そう理解している。

理解しているはずなのに。

灯霊の光の下で走る小さな背中は、

あまりにも軽く、あまりにも当たり前で、

とても三日後に終わる世界の住人には見えなかった。

胸の奥で、何かが音を立てずにほどけていく。それが何なのか、まだ名前をつけることはできない。ただ、冷たく整えられていたはずの思考に、わずかな隙間が生まれたことだけは、確かだった。


広場の空気は、思った以上に騒がしかった。笑い声、呼び合う声、木材を打つ乾いた音。

それらが混じり合い、時間の流れを曖昧にしていく。

最初は、ただ手を貸すだけのつもりだった。布を結び、紐を渡し、指示された場所に灯霊を運ぶ。どれも単純な作業で、思考を要しない。

……はずだった。

「天使さん、そっち持って!」

「イロ!ここを手伝ってくれ!」

「すごいなあの人。ずっと働き続けているぜ。」

「ここに星を飾るうま。遠くからもよく見えてリンツ様も喜ぶうま。」

声をかけられるたび、反射的に体が動く。効率的に。無駄なく。

それは任務の延長にすぎない―そう言い聞かせていた。

気づけば、空の色が変わっていた。頭上の光が柔らぎ、城壁に伸びる影が長くなる。

その事実を認識した瞬間、胸の奥が冷えた。

半日。

ボクのヤクワリは魔王の“観察“。それだけだったはずが、完全に作業に没頭していたことに今更気づく。

「……何をしているんだ、ボクは」

小さく呟いた声は、誰にも拾われなかった。

拾われなかったことに、安堵と焦りが同時に生まれる。

魔族の祭りだ。

滅びゆく国の、最後になるかもしれない行事だ。

その準備を、天使であるボクが手伝っている。

理性が、遅れて追いついてくる。

天使として許されないことだという判断も、警鐘を鳴らす。

それでも、手は止まらなかった。

「天使さん!」

振り返ると、最初に箱を抱えていたあの子供が立っていた。顔や服は汚れているが、表情は晴れやかだった。

「ありがとうございました!」

子供は深く頭を下げる。

「おかげで、当初の予定よりいっぱい準備できました!」

胸の奥が、きしむ。

感謝される理由など、ない。やったことは、ただの手伝いだ。…それも、本来すべきでない行為だ。

「……ボクは」

言いかけて、言葉が見つからない。

否定すべきか、訂正すべきか。どちらも、今さら遅い気がした。

子供は顔を上げ、無邪気に続ける。

「星夜祭、絶対きれいになりますよ!」

確信めいたように言われて、心臓が一度、強く脈打つ。

三日後。

その言葉を、子供は知らない。

「……ああ。」

肯定とも否定ともつかない返事が、口から零れた。それでも子供は満足そうに笑う。

「…天使さんはなんて名前なんですか?」

ふとしたところで子供が問う。

「ボクは…」

言いかけたところで子供が遮る。

「すみません!僕ったら、まず自分が名乗るべきですよね!―僕、トジッチって言います!」

「…ああ、イロだ。」

無意識に差し出した右手をトジッチは固く握りしめる。

「じゃあ星夜祭、絶対来てくださいね!」

トジッチは満面の笑みを浮かべ、再び作業の輪へ戻っていく。

その背中を見送りながら、ボクは立ち尽くす。

感謝された。喜ばれた。

必要とされた。約束をした。

それらはすべて、任務には不要なものだ。

それでも。

胸の奥に残った重さを「間違いだ」と切り捨てるには少しだけ重すぎた。


城の回廊は、夜になるとひどく静かだった。

昼間は気づかなかった自分の足音が、石床に小さく反響する。

コツン コツン

単調なそのリズムは、最初にここに来た時よりも明らかに音色を含んでいることに、いら立ちすら覚えない自分が苦しい。

外の城下町は、まだ起きているはずだ。星夜祭の準備で、灯霊が飛び交い、人々が行き交い、笑い声が途切れることはない。それを、厚い城壁が遮断している。

「……疲れたか?」

ヤキョウの声が、前を歩きながら投げかけられる。

振り返らない。

それでも、昼間とは違う声色だと分かる。

「……問題ない。」

即答したつもりだったが、声が少し遅れた。

ヤキョウは歩みを緩め、並ぶ。

夜の灯りが、彼の横顔を半分だけ照らしている。

「君は、よく働いていたな。」

「……観察の一環だ。」

言い訳が、口をついて出る。自分に向けたものだ。

ヤキョウは否定しなかった。その沈黙が、かえって重い。

「城下の者たちは、君を気に入ったようだ。」

「……それは、都合が良かっただけだ。」

灯霊の配置、紐の結び方、作業の速さ。合理的な理由はいくらでも並べられる。

「そうかもしれない。」

ヤキョウはあっさり認める。

「だが、それだけではないだろう。」

足が、止まった。

「……何が言いたい。」

問い詰める声音になっていた。自覚して、少し遅れて後悔する。

ヤキョウは夜空を見上げる。城の中庭から見える星は少ない。それでも、確かに瞬いている。

「彼らは願っているんだよ。君が星夜祭に笑って来てくれることを。」

「…何が言いたい!」

「だからー」

ヤキョウはボクの口に指をあてる。

「君は必ず彼らの願望を叶えなさい、イロ。」

「……!!」

何か言い返そうとしたが、口を押えられているせいか声が出ない。

…いや、言い返す言葉がないのかもしれない。

「さあ、今日はもうおやすみ。また明日。」

いつの間にか自分の部屋の前まで歩いていたボクを置いて、ヤキョウは闇に消えていく。ボクはしばらく茫然とそこに立ち尽くしていたが、やがて部屋に入る。

扉を閉めると、部屋の中は冷たく静まり返っていた。ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。手のひらにはまだ、ヤキョウの冷たい指の感触が残っている。

「……なんだ、あれは。」

声にならない声で呟く。頭の中で、ヤキョウの言葉が繰り返される。

「君は必ず彼らの願望を叶えなさい、イロ」

叶えろ、とは?

誰の、何の願いを?

ふと、窓の外に目をやる。

城の壁の向こうに、わずかな星の光。冷たい夜風がカーテンを揺らすたび、星がかすかに瞬く。その光は、まるで自分の胸の奥の迷いを照らすかのようだ。

ボクは膝を抱え、じっと目を閉じた。

言葉にできない重さが、胸を押し潰す。だが、その重さの奥に、微かな温もりがあることに気づく。

―自分のことを待っている。

―笑ってほしいと、願っている人がいる。

その瞬間、心のどこかで決意が芽生えた。

恐怖や戸惑いだけで終わらせてはいけない。

―星夜祭に行く。必ず。

ベッドに横たわっても、心はまだざわついていた。

窓の外の星は少ないが、確かにそこにある。小さな光でも、夜を切り裂く強さがあることを、ボクは感じていた。

そして、明日が来れば、すべてが少しだけ変わるのかもしれない―

そんな予感とともに、ボクはゆっくりと目をふさぐ。

―しかし、その瞳に闇が映ることはなかった。

眩しさに薄目を開ける。

遠くから、天使長ハチがこちらに向かっているのが、窓越しに見えていた。


灯霊(とうれい)

星夜祭(せいやさい)

なるべく早めに続きは投稿したいです。

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