第八話 揺れる夜
克之丞と四郎が駆けつけたときには、すでに二〇人ほどの若い藩士たちが集結していた。
その向かいには、大目付率いる藩役人たちが立ちはだかっている。町人たちも野次馬のように周囲を囲み、ざわめきが広がっていた。
大目付が一歩前へ出る。
「今すぐ退け! 従わぬなら、謀反の徒として召し捕る!」
威圧する声に、藩士たちがたじろぐ。だがその中の一人が、踏み出して言い返した。
「なぜ今さら城を捨て、仙台に与するのです! 徳川に加担など——ありえぬこと!」
ざわつく町人たち。声を押し殺して話す者もいる。
「また戦になるのか」「幕府が戻るってことか……?」
「静まれ!」
大目付が声を張り上げる。ひとまず場が収まると、彼は言葉を続けた。
「もはや隠すまい。昨日、宇都宮が徳川の残党の手に落ちた。会津ではこの報を受け、南下の動きがあると聞く。おぬしらも分かっていよう、我が藩は会津と境を接する。先の殿が整えた軍備があっても、会津や仙台が攻め込めば到底抗せぬ。我が藩を守るには——やむをえぬ選択だ」
緊張が走る。藩士の顔がこわばり、町人たちの不安が波のように揺れた。
そのとき、大目付が克之丞に目を止める。
「福田克之丞。謹慎中の身であろう。勝手な振る舞いは、御家老の立場をも危うくするぞ」
克之丞の隣にいた四郎にも視線が移る。
「益子四郎、お主も同じだ」
冷たい声音だった。その言葉が、藩士たちの怒りに火をつける。
「卑怯だぞ!」
「言葉で黙らせるつもりか!」
刀に手がかかる気配。緊張が空気を裂く。
——そのとき。
「そこまでじゃ!」
野太い声が響き渡った。町民の輪が割れ、二人の男が姿を現す。克之丞の伯父、五月女三左衛門。そして四郎の父、益子右近である。
「存念を申してみよ」
三左衛門が藩士たちの前へ進み出る。その声音に若侍たちは息を呑んだ。うながされるように、ひとりの藩士が声を上げる。
「朝廷への恭順は、もはや藩の方針にてございます。それを今になって覆すとは、不忠の極み。この決定が取り下げられぬ限り、我らはここを動きませぬ! 一戦交えるならば——それも覚悟のうえ!」
藩士たちが刀の柄に手を添える。対する役人たちも、息をひそめて構える。
「鎮まれい!」
三左衛門の怒号が、広場を叩いた。藩士たちの肩がすっと下がる。
「今、この藩の中で刀を抜けば、結城の二の舞となろう」
沈黙が辺りを支配する。結城藩——つい数日前、佐幕派と尊王派との間で武力衝突が発生し、旧幕府勢力や新政府軍も介入するまでに発展した結果、町が焦土と化していた。ここに居並ぶ者はその事実を知っていた。
「おぬしたちの国を想う心、よう分かった。明日、登城して思うところを正々堂々と申せ。それまでは……矛を収めい」
その言葉に、藩士も役人も視線を交わし、やがてわずかにうなずいた。大目付もまた静かに頷き、場はようやく収まった。
五月女三左衛門、五一歳。家老職に就いたのは増裕の逝去翌日。藩の要職を歴任し、その物腰と識見で広く信頼を得ていた。益子右近もまた、増裕の時代に一度家老を罷免されたものの、三月下旬に再び登用されたばかりである。
町人たちが散り、若侍たちが静かに道を空けていく中、克之丞が三左衛門の前に進み出た。
「申し訳ございません、伯父上……」
克之丞が深く頭を垂れる。三左衛門は腕を組んだまま諭した。
「良い。だが、今は極めて難しい時勢だ。皆、それぞれに最善を尽くしておる。その志を軽んじるような物言いは控えよ」
克之丞の顔がわずかに上がる。
「伯父上は、城を捨てることに賛同されたのでしょうか? 伯父上にとっての“最善”とは、いかなるものでございますか?」
背を向けた三左衛門の肩が揺れる。
「……当たり前のことを聞くな」
そして背中越しに続けた。
「近々、謹慎が解かれる。くれぐれも自らの言動には気をつけろ」
騒ぎがひと段落した後、克之丞は障子を開け、静かに中庭を眺めていた。
月明かりが梢に降りて、春の夜気が肌を撫でるように流れていく。初夏に向かうこの時期としては、ことのほか肌寒い夜だった。克之丞の傍らで火鉢の焔が不規則にきらめく。
「眠れないの?」
その声に振り向くと、那美が灯の下に立っていた。肩に羽織を掛けた姿が、月の光にふわりと浮かび上がる。
「ちょっとな……いろいろ、考えてしまって」
「何を?」
那美が隣に腰を下ろす。克之丞が視線を逸らしながら、ぽつりと答える。
「今頃、あいつ、どうしてるかなって。辰之輔……」
その名を聞いた瞬間、那美の表情がわずかに曇った。
「放っておきなよ。あんな奴!」
思ったより強く言ってしまったと気づいて、那美は少し唇を噛む。
「……ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃない」
再びの沈黙。冷たい春の夜の空気の一方で何かが芽吹く前の匂いがする。那美がふいに、くすっと笑った。
「克っちゃん。わたしが眠れないとき、どうするか知ってる?」
不意を突かれた顔の克之丞が那美を見つめる。
「誰かの気配を感じるの。誰でもいいの。ただ隣に、ちゃんと生きてる誰かがいるって、それだけで、ね」
増裕のことを言っているのだろうと克之丞は思った。その時、ゆっくりと克之丞の肩にもたれかかる那美。克之丞の身体が少しこわばったのがわかる。
「ねえ……眠れないなら、深川仕込みの手練手管、試してみる?」
囁く声は冗談のようでいて、どこか本気のような気がした。遊郭で過ごした歳月の名残りが、言葉の端に香る。
克之丞は驚き、とっさに距離を取って無言で那美の顔を見つめた。
「飲みすぎたのか?」
克之丞は、自分の口から出たその言葉に、少しだけ戸惑った。
「……変わった、って思った?」
いつもと違う那美の返し。声も、わずかに掠れていた。
「人は変わるの。昨日と今日、そして明日の私は全部別物。今の私は今だけしかいないの」
彼女の手がそっと克之丞の手に触れる。驚くほど柔らかく、けれど、離れようとはしない。
「……それでも変わらないものだってある。決して変わらないものが……」
立ち上がった那美は、振り返らずに一言だけつぶやいた。
「火が……消えちゃう」
障子に手をかけた彼女の背中に、克之丞は視線を注ぎ続ける。
そして那美は、ゆっくりと障子を閉めた。
朝の空気には、夜とは違う匂いがある。新緑の匂い、土の匂い、そして昨夜の火が残した名残りの匂い。
那美は布団の端に腰かけて、乱れた髪を指で梳きながら、静かに吐息を漏らした。
何も言わずに朝が来た。陽は東の山の端を照らし、障子のすき間から淡い光が差し込んでいる。
隣に人の気配はない。
「まったく……」
小さな吐息とともに発した那美の顔は、とても穏やかだった。
“今の私は、今しかいないの”
自分で言ったくせに、昨日の自分がまだ、胸の奥でそっと呼吸をしている。
那美は立ち上がり、鏡も見ずに、髪をひとまとめに結わえた。
薄紅の空が、障子の外にじんわりと広がっていた。
何が変わったわけじゃない。けれど、何かが、たしかに始まった。そんな気がした。