第七話 迫る戦火
辰之輔は増裕に視線を移した。増裕は穏やかな顔でうなずいた。辰之輔は、増裕の想いを代弁するつもりで言葉を返した。
「殿は、かつての陸軍奉行に続き、この度は海軍奉行という大任をお与えくださった幕府に深い恩義を感じております。幕府を立て直すことでその恩に報いる、忠義を尽くす。幕府を思って行動することは当然であると考えます」
「詳しいじゃねぇか。さすが、ただの家人じゃねぇな」
どことなく勝は嬉しそうだった。
「それも正しい。おめぇさんはどうだい?」
勝は克之丞に話を振った。
「良くわかりません。ただ、今であろうが先であろうが、国が一つにならなければならないことだけは正しいと思います。そうでなければ日ノ本も、藩も、そして身近な者たちを守ることはできません。そのためにできること、取り得る手立ては多いでしょう。今の日ノ本は混乱しています。時代の流れを見極めて、然るべき選択をする。これが肝要かと存じます」
「おめぇさんは優秀だね。おいらの弟子にしてぇとこだ。だが、おめえらの言う通り混乱の世の中だ。二人でこいつを助けてやってくれ。数少ないおいらの理解者、友人を、な」
「あの時は、お前の克先生に対す態度に心底冷や冷やしたぞ」
克之丞の言葉に辰之輔の口元が緩む。
「想いは同じでも……か」
辰之輔は川を眺めながら小さくつぶやくと、再び克之丞に質問を投げかけた。
「どうして芭蕉はここに長く逗留したと思う?」
元禄二年三月二十七日(一六八九年五月十六日)に江戸深川を出立した芭蕉は、門人の曽良を伴い、東北・北陸地方をめぐって八月二十一日に大垣に到着した。およそ一五〇日、五か月間にわたる二四〇〇㎞にも及ぶ旅の中で、芭蕉は四月三日黒羽に到着すると、『おくのほそ道』の旅程では最長になる十六日までの十四日間黒羽に逗留していたのである。
「なんだ。まだ歌ができないのか?」
仕方ないと思いながら、克之丞は辰之輔の問いに答えだした。
「ちょうど長雨の季節に当たってしまったこと、決死の覚悟で旅に出た芭蕉が奥羽に入る前に心の整理をつけようとしたこと。そして何より、黒羽の人々から温かいもてなしを受けて居心地が良かったこと。こんなところか?」
「そうだな。じゃあ、そのうち一つでも欠けていたら芭蕉はここに長く逗留しなかったってことか?」
「そんなことないだろう。どれが欠けても、どれ一つをとっても逗留する理由になるさ」
言い終えた克之丞は、辰之輔の表情の変化に気付いた。一声かけようとした時だった。辰之輔がかすかに雪をかぶった道端に正座し、両拳を地面に当てて頭を下げたのである。
「やめろ! 公の場以外ではそんな振る舞いはしないって、昔からの約束だったろう! 俺とお前に上下はないんだ!」
克之丞は慌てた。突然のことであったうえ、何よりも誰かに見られたら、と考えたのである。
「公……。そうだったな」
頭を下げたままつぶやいた辰之輔は、ゆっくりと立ち上がった。
「また身を隠すよ。お尋ね者だからな、俺は。しかし、ここも急に居心地が悪い場所になったもんだ」
立ち去ろうとして歩き出した辰之輔であったが、わずかに進むと突如足を止め、克之丞のほうへ振り返った。
「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」
詠み終えた辰之輔の口元が緩んだ。
「確かそれは……」
聞いたことのある歌であったが、克之丞の頭にその歌い手がすぐには思い浮かばなかった。
「行平だ。学んだだろ?」
「自分の想いを詠むと言いながら先人の歌を拝借する奴に言われたくないな」
克之丞の口元にも笑みが戻った。
「その時の心情に合わせて先人の歌を諳んじる。お前にはできない芸当だ」
辰之輔の言葉が、いつもの彼の言葉そのものだった。克之丞に安堵の想いが広がる。
「ご恩のある福田の家を裏切ることは決してしない。必ず戻る!」
言い終えた辰之輔は、軽い身のこなしで森の中に消えていった。
これ以降、辰之輔の音信は途絶えることになる。そして、克之丞はすべてのお役目を解かれ、謹慎を命じられたのであった。
辰之輩が姿を消した数日後、慶応四年(一八六八年)の年が明ける。京都では鳥羽・伏見で戦いが勃発した。生前、増裕が大政奉還後に朝廷に接近するため密かに送り込んだ藩士が太政官と薩摩藩に対して恭順の意思を内々に伝えていた黒羽藩は、新政府軍として戊辰戦争に参加していく。
同年四月二十日。総督府から会津討伐のため奥羽鎮撫使総督の指揮下に入り出兵するように命じられ、その準備を進める黒羽藩で騒動が起きた。
この日の夜、克之丞の屋敷に四郎が血相を変えて駆けこんできた。
「今しがた、父上から城を捨てて仙台藩を頼るとの内々の報せが届きました! 宇都宮落城の報せを受けたご家老たちが会津や仙台に背後を攻められることを危惧されたご様子です」
前日、旧幕府勢力によって、新政府に帰順した宇都宮藩の居城が攻め落とされた。宇都宮城陥落の報せは、黒羽藩などの近隣の小藩のみならず、新政府にも多大な驚きを与えていた。
「まさか!? 朝廷への恭順をやめ、徳川支持に回ると言うことか!?」
驚愕する克之丞。四郎が続けた。
「明日仙台に密使を派遣するとのことです。さらに、事もあろうに城を捨てるに合わせて大砲や武器の類を地中に埋めていくとのことです!」
「まさか、伯父上もそのような決定にご賛同を?」
直前の様子から一変して、どこか他人事のように落ち着いた様子で話す克之丞に対して、
四郎は語気を強めた。
「そんなことはどうでもいいじゃないですか! 亡き殿の想いのこもった武器です! それに、これを整えるために多くの民の汗が流された黒羽の魂ではありませんか! 既に多くの同志が武器庫に向かっています。行きましょう!」
促す四郎をよそに、克之丞は動こうとしなかった。そして、ゆっくりと口を開いた。
「いいのか? ご家老の嫡男であるお前が藩に弓引くような真似をして。それに今の俺は謹慎中の身。ここで軽率な行動を起こせば伯父上に迷惑がかかる」
克之丞の落ち着き払った言葉に、四郎の顔がにわかに赤みを帯びる。
「藩の存亡に係る事態とういうことがお分かりになりませんか!? 迷惑云々は関係ありません! 克之丞さんも私も、藩の行く末を担う家老の家中の者。それが指をくわえて見て見ぬふりをするわけにはまいりません!」
そして、さらに声を張り上げた。
「亡き殿の懐刀であった克之丞さんが何もしないでいることは、亡き殿を裏切ることになるのではありませんか!?」
四郎の最後の言葉が克之丞の胸に響いた。二人は武器庫へ向かって駆けだしていった。