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最後の川  作者: 氷乃士朗
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第六話 海舟の教え

 森を抜けた二人は、那珂川の西岸、蔵が立ち並ぶ街並みを抜け、人気の少ない土手へとやってきた。川の対岸にある丘陵の上に建つ黒羽城には、ぼんやりと明かりが灯っていた。

「こんなところに姿を見せたら、捕まえてくれって言っているようなものじゃないか」

 周囲には姿を隠せるほどの木々や建物はなかった。しかし、辰之輔は克之丞の言葉に耳を貸そうとせず、身動きすることなく城を見つめていた。

 降りしきる雪は、辺りを白く染め始める。雪の白さに反射した町の灯が周囲をほのかに照らし出し、川面には城を頂く丘陵の影が映る。水墨画の世界が目の前に現れたような光景。初めは、辰之輔の身を案じていた克之丞だったが、次第にその景色に目を奪われていった。冷たい風が二人を包み込み、時間が止まったかのように感じられるひとときだった。しばらくの間、二人は無言で立ち尽くし、ただ雪の舞う景色を見つめていた。

 ゆっくりと辰之輔が口を開いた。

「同じだな……」

 つぶやくように発した言葉に促され、克之丞は視線を移した。

「ちょうど今みたいに小雪が舞う頃だった。ご先代に引き取られたのは」

「俺は一人っ子だったから、兄弟ができたようでとても嬉しかったよ」

 克之丞の言葉を聞いた辰之輔も穏やかな表情のまま克之丞に視線を移した。

「親を亡くし、川のほとりに一人座って流れを眺めていた俺を、よその国の俺を、ご先代は実の子供のように育ててくれた。俺の父であり、奥様は母だ」

 二人はしばらく無言で川の流れを見つめた。

「川の水は海に向かって流れていく。今、目の前を流れる水の行き先は同じでも、途中で必ず違う流れになる。そして、別々に海に出る」

 辰之輔が漏らす言葉は、眼前に広がる侘びしさを語るようだった。

「二人見し 雪は今年も 降りけるか……」

 克之丞が口にしたのは、俳諧だった。

笈日記おいにっきか」

「さすがだな……」

 克之丞は微笑みを浮かべた。

 辰之輔が言う。

「御父上と御母上が学ばせてくれたからな」

「お前は小さい頃から文武両道だった。何をやっても俺より上だった」

 克之丞が微笑みを交えながら辰之輔に言った。

「剣術はちがった……よな?」

 辰之輔の返しに、克之丞は表情を変えずに川を見つめ続けていた。そして、しばらくした後で、わずかに口元に笑みをたたえた。これを見た辰之輔がしみじみとつぶやいた。

「俺は和歌の方が好きだな」

「ここへきて、意見が分かれたな」

 克之丞が静かに言うと、辰之輔は続けた。

「たった十七文字じゃ何も伝えられないだろ?」

「そうか?」

 克之丞が続けた。

「確かに俳諧の文字数は和歌の半分ほど。でも芭蕉が確立した俳諧は、和歌の伝統や仕掛けに縛られることなく、詠い手の感じ方で自由に心の中の景色を詠むことができる。だからこそ身分を問わず広まった。その意味じゃ、これからの新しい世の中に合うんじゃないか?」

「新しい世の中……か」

 つぶやいた辰之輔が続けた。

「文字数や縛りの問題じゃない。俳諧は受け手が同じ情景を浮かべないと詠み手の真意は伝わらない。今の俺たちのように。でも、和歌なら詠み手がより直接想いを伝えることができる」

「だったら今の想いを和歌で詠んでみろよ」

 克之丞が少し強い口調で言い放った。しかし、しばらく経っても辰之輔の口から歌が生まれることはなかった。

「言っている割には、想いを伝えることができないじゃないか」

 克之丞が意地悪く言うと、辰之輔は、かすかに笑みを浮かべて問いかけた。

「勝先生に会った時のことを覚えているか?」

「何だ? 急に」

 辰之輔は普段から口数が多い方ではなかったが、自分の考えを端的かつ理路整然に言う男だった。そんな辰之輔が急に話を変え、しかもいつになく饒舌だった。克之丞は少々違和感を抱いたが、久しぶりの人との会話がそうさせるのだと思い、答えを返した。

「もちろん。殿のお師匠様だからな。その意味では俺たちのお師匠様でもある。忘れるわけないだろう」


 三年前の慶応元年(一八六五年)六月十八日、増裕は再び江戸に上ると翌月八日には新設の海軍奉行に任じられた。幕府軍制改革の最大の柱である、全国規模の構想に基づいた大海軍建設という大役を任せられる人材として、増裕に白羽の矢が立ったのである。克之丞と辰之輔も増裕警護の役目を果たすため江戸に出た。

 七月下旬、増裕は二人を連れて赤坂氷川の勝の屋敷を訪れた。

「勝さん、ついにこの時が来ました! 今度こそはやり遂げますよ!」

「大口叩いて、前みてぇに途中で放り出すんじゃねぇぞ」

 楽しげに話す二人を、克之丞と辰之輔は不機嫌そうな面持ちで眺めていた。これに気付いた勝が二人に向かって口を開いた。

「若いの。何か文句でもあるのかい?」

 気風のいいべらんめぇ調で話す勝に、克之丞は臆することなく口を開いた。

「いかに殿よりご年長とは言え、勝様のお役目は海軍奉行配下の軍艦奉行。いささかお口が過ぎるのではないでしょうか?」

 克之丞の物怖じしない態度に勝は笑みを浮かた。

「で、こいつらは何なんだ?」

「私の近習、福田克之丞とその家人の結城辰之輔です。二人の腕前を見込んで抜擢しました」

 勝の問いかけに増裕が答えた。

「前に言っていた『黒羽一の剣士』福田何某ってのは、こいつか。確かに」

 勝は辰之輔に向かって話しかけた。

「福田克之丞はそれがしでございます」

 割って入るように克之丞は淡々と答えた。

 勝は、わずかに目を見開くそぶりを見せると、穏やかな笑みを浮かべた。

「それは失礼をした」

 そう言って勝は頭を下げた。間違えれば頭を下げ、面子にはこだわらない。勝海舟とは、そういう男である。

「頭をお上げください。お気になさらず。確かに辰之輔は当家の家人ではありますが、これはあくまで形の上でのこと。辰之輔と某は幼き頃から共に育ち、切磋琢磨してきた兄弟のような存在ですので」

 顔を上げた勝の顔には笑みが浮かんでいた。

「さすが増裕が見込んだ若者だ。しっかりしてるじゃねぇか。それに結城辰之輔。その目、嫌いじぇねぇぜ」

 克之丞が意見を述べている間、辰之輔は勝に鋭い視線を送り続けていたのである。辰之輔は、一連の勝の態度に穏やかならぬ感情を抱いていた。

「二人ともその辺にしときな。勝さんは、俺の一番の師匠だ。公の場では互いに筋を通して接してはいるが、それ以外はいつもこんな感じだ。お前らと同じだよ」

 増裕は二○歳の頃、勝の弟子である杉純道から蘭学を学び、勝からは臼砲(モルティール砲)の図面を伝授されるなど、勝から多大な影響を受けていた。

「先にご公儀にお役目を頂いた際は、幕府の力だけを高めようとする当時の幕閣に阻まれて、『日ノ本の軍隊』を作ることができませんでした。今回こそは、幕府を中心とした軍隊、海軍を実現してみせますよ」

 力強く語る増裕の言葉を受けた勝は、克之丞と辰之輔に向かって口を開いた。

「また言っているぜ。『幕府中心』なんてどうでもいいんだよ。要は西欧列強から国を守る『挙国一致の軍隊』が必要なんだ。昔からこの点だけは、こいつと意見が合わねぇんだ。もはや、この石頭を説き伏せる気力も失せちまったがな」

「いいえ、違うことはありません。まったく同じです。ただ、今は大きく国内が乱れています。このような時だからこそ、皆を率いる強い力が必要なのです。これがなくてはまとまるものもまとまりません。それをできる唯一の存在が幕府なのです」

 増裕が自説を述べると、勝はこれを無視するかのように、再び二人に向かって口を開いた。

「いつもこんな感じだ。増裕と俺の根底にある『挙国一致』という想い、考え、道は同じだ。唯一違うのが視点の置き場よ」

「視点……ですか?」

 克之丞が尋ねた。

「そう、視点だ。今を見るか、もっと先を見るか、ってとこよ。増裕は今を、俺はもっとずっと先を見ている。まぁ俺は増裕の師匠だから、先を見れるのは当然なんだがな。一日の長ってやつだ」

 勝の言葉に、傍らの増裕は苦笑いを浮かべていた。

「不満かい?」

 勝は、にわかに表情が硬くなった辰之輔に声を掛けた。

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