第五話 疑惑の人相書き
翌日十二月十一日、那珂川の少し下流で遺体が上がった。
前日朝から辰之輔の姿が見えない。その知らせを聞いた克之丞は、胸騒ぎを感じながら、遺体の上がった河原へと急いだ。
「佐良土村の儀兵衛さんだとさ。可哀そうに……」
人だかりから聞こえる声に、克之丞の胸騒ぎはひとまず収まった。
「あいつ、いったいどこに?」
少しの苛立ちを感じながら、克之丞は帰路についた。藩主死亡という一大事から二日しか経っていないというのに、目に映る町並みはいつもと変わらず、いつもの日常の風景が広がっていた。その景色が、どこか不自然に感じられ、苛立ちがかすかな違和感に変わったころ、自分の屋敷が視界に入ってきた。街並みとは違い、日常とは程遠い景色だった。屋敷の周りは、多くの役人に囲まれていた。足を止め、その異様な雰囲気に胸騒ぎを覚える克之丞。すると、その役人たちの脇を抜けるように、彦助が血相を変えて克之丞に向かって駆け寄ってきた。息を切らせ、呼吸を整える暇もなく、彦助は手に握りしめた紙を克之丞に突き出した。
「これは!」
克之丞は目を見開いた。
「少し前に、お役人が来て。旦那様には急ぎ城に上がれとのお達しが」
「いったい何があった?」
克之丞は彦助の答えを待たず、城へと向かって走り出した。
その夜、克之丞の屋敷の周囲には、提灯の灯りが小刻みに揺れ、深夜の静けさを破っていた。
深夜、屋敷の裏木戸を叩く音が鳴る。
「克之丞さん、四郎です」
四郎の小さな声に気づいた克之丞は、急いで彼を屋敷内に招き入れた。
「この寒空の中、お前まで駆り出されていたか。我が家の件で苦労を掛けてすまないな」
「良いのです。父上が一日でも早く藩の要職に復帰できるよう、私も仰せつかったお役目を果たすまでです」
言い終えた四郎が、意外なことを口にした。
「辰之輔さんが近くまで来ています。隙を見て招き入れますので、裏木戸の鍵は外しておいてください」
「大丈夫なのか?」
克之丞は、心配そうに尋ねた。
「私にとって辰之輔さんは、克之丞さんと同じく兄のような方です。気にしないでください」
周囲を警戒しながら屋敷の外に出ていった四郎は、しばらくするともう一人を連れて裏木戸から戻ってきた。克之丞は、一言も発することなく、二人を屋敷の奥へと誘った。
「いったい何があった?」
人相書きを広げ、血や土で汚れた服をまとった辰之輔に、克之丞は問い質した。辰之輔は下を向いたまま、沈黙を続けた。しばらくして顔を上げ、視線を克之丞に向けると、すぐさま四郎の方に眼を動かした。
「すまない。席を外してくれるか?」
「木戸のすぐ外にいます。何かあれば呼んでください」
察した四郎は、そう言い残すと、二人の前から静かに去っていった。入れ替わりに訪れたのは、那美だった。辰之輔はわずかに驚きの表情を見せた。
「しばらくこの屋敷にいてもらうことにした。実家もなくなっているしな」
増裕を亡くした那美を心配した克之丞が、呼び寄せたのである。
「残ってたって、あんな家に戻るもんか!」
那美は語気を強めた。
「先年の流行病で父上と母上を同時に亡くして以降、俺とお前、そして彦助の三人では、この屋敷は広すぎるからな」
克之丞が言い終えると、那美は膝をついて、持っていたお茶を辰之輔に差し出し、そのまま頭を下げた。
「この前はごめんなさい。あれは事故だっていうのに、辰っちゃんを責めたりして。辰っちゃんは悪くないわ……」
那美がさらに続けようとすると、辰之輔は静止するように、那美に手のひらを向けた。これを見た克之丞は、那美にこの場を外すように促した。那美が部屋を出ると、辰之輔は湯飲みを手に取り、これを一気に飲み干した。
「まずは傷の手当てを」
克之丞に呼ばれた彦助による処置が行われ、一息ついた辰之輔が、昨日の顛末を語り始めた。
「川から上がったのは、俺を襲った薩摩の刺客だ。やったのは俺だ。仕方なかった。やらなければやられていた。裏で糸を引いているのは藩の上の方だ」
「まさか!?」
克之丞は耳を疑った。
「骸が川から上がったことが何よりの証拠だ。俺はあいつを山奥に埋めた。それなのに川から上がった。さらにこの人相書きだ」
辰之輔は続けた。
「昨日の今日で、どうしてこんな人相書きが出回る? しかも俺にそっくりの。事情を知っている奴の仕業としか思えない。そして、この人相書きは誰が作った? 誰でもわかる結論だ」
辰之輔は人相書きを握り締め、畳に叩きつけた。
「お上の方々が殿を殺めるのに一役買ったとでもいうのか? ありえない! 今のご家老は殿が抜擢した方々だぞ」
克之丞の顏に困惑が浮かぶ。
「大隊調練は年明けに実施されるそうじゃないか」
「中止せず、延期してでも実施する。このこと自体が殿の御遺志に従うということではないか!?」
辰之輔の言葉に克之丞はわずかに気色ばんだ。
「お前のように思わせるのが狙いだったとしたら?」
言い終えた辰之輔はじっと克之丞を見据え、動かない。
「もしや、かつて殿に罷免された方々と言いたいのか?」
辰之輔の眼差しは厳しいままだった。
「四郎のお父上に限って、そんなことはない!」
「たとえ右近様ではなかったとしても……だ」
すると、何かに気づいた克之丞の表情がみるみるうちに強張っていく。
(あの時、四郎は殿のご逝去をお父上から聞いたと……)
うなずく辰之輔が続けた。
「真偽はどうでもいい。殿の御最期に疑いを持った俺に嫌疑がかかった。紛れもない事実だ」
頭を抱え込む克之丞。そのまま絞り出すように口を開いた。
「潔白を明らかにするため、明日出頭しよう。俺も一緒に行く」
しかし辰之輔はすぐさまこれを拒んだ。
「藩は『黒』だ。ノコノコ出ていけば、まともな裁きもなく打首だ。ひとまず俺は身を隠す。迷惑かけてすまない」
辰之輔がそう言うことは分かりきっていた。克之丞は混乱していた。立ち上がる辰之輔の足元で、頭を抱え続ける克之丞は黙って首を横に振った。そんな克之丞に声を掛けることなく、辰之輔は裏木戸の方へと去っていった。
数日後、小雪が舞い散る中、克之丞は増裕の庵へ向かった。夕暮れ時が近づき、薄暗い森の中を克之丞は歩を進めた。
「克之丞か?」
無人であるはずの庵の中から声が響いた。辰之輔の声だった。用心しているのだろう。辰之輩は姿を見せなかった。
「大丈夫。つけられてはいない」
「そのようだ。人の気配や音を感じない」
雪が草木をたたく音が微かに聞こえる以外、周囲は静まり返っている。警戒しながら庵の中から姿を現した辰之輔を見て、克之丞は安堵の表情を浮かべた。
「すまない。呼び立てたりして」
「ずっとここにいたのか?」
「ああ。灯台下暗しってやつさ。まさかここに身を隠しているとは思わないだろう? でも、灯りもつけず音も立てず……、結構きつかったぞ」
穏やかな表情で話す辰之輔に克之丞が言った。
「俺を呼び出すなんて危険だ。今のところ俺はお役目を解かれていないどころか、謹慎も命じられていない。おそらく俺を泳がせてお前の居所を探っているのだろう」「それを分かっているお前だからこそ、呼べたんだ」
呆れた奴だと思いながら、克之丞は口元を緩めた。
「ちょっと出ないか?」
「いいのか? あまり表に出ると……」
「お前と話ができたせいかな。ちょっと外の空気も吸いたくなった」
辰之輔に誘われるまま、二人は那珂川へ向かって森の中を歩き出した。