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最後の川  作者: 氷乃士朗
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第四話 刺客の影

 翌日十二月十日、辰之輔は一人、城下はずれの茶屋に来ていた。

 結局、昨夜は一睡もできなかった。眠気に襲われながらも、辰之輔はぼんやりと茶をすすりながら考えていた。

(殿のお命を奪った弾丸は、殿の左耳のあたりから右耳の上を貫いたと目付役は言っていた。確かに現場で拝見した殿のお姿もその通りだった。しかし……)

 何かに気づいたように、辰之輔は湯飲みを置き、腰の刀を外してこれを銃に見立て、まるで銃を構えるかのように構えた。

(正面だ。銃を構えてどうすれば左から右、ほぼ水平の弾道になるのか……?)

 その疑問に没頭していると、突然、背後から威勢の良い声が響いた。

「飲み終わったら、さっさと行きな!」

 虚をつかれた辰之輔は、思わずせき込んだ。視線を移すと、先程お茶を運んできた女将は、何事もなかったかのように他の客と会話をしている。その笑顔は自然で、気さくに見える。決して威勢の良い声を張り上げた後とは思えない。気のせいかとそのまま向き直ろうとした瞬間、店の建屋の左に立つ地蔵菩薩が目に入った。

(考えすぎるなという教えだ)

 座り直し、心を落ち着けるため再び湯飲みに口を付けようとしたその瞬間だった。再び女性の声が響いた。

「ぐずぐずするんじゃないよ!」

 振り返った辰之輔は、ふと何かに気づいたように、急に勢いよく立ち上がった。

「すまぬ」

 立ち上がると同時に、湯飲みが地面に落ち、割れてしまった。辰之輔は小銭を椅子に置き、地蔵の方に向かって走り出した。

「!」

 店の並びに立つ地蔵の背後には急な下り坂があり、その先には道が通っていた。辰之輔の目に百姓の親子が映った。母親は急ぎ足で歩き、幼子は遅れながらついていく。その親子の歩みが、先程の声の正体だと気づいた瞬間、辰之輔の眠気は吹き飛び、全身に警戒感が走った。

 駆けだす辰之輔。息を切らしながら走るうちに、増裕が命を落とした森の中へ足を踏み入れた。

(おかしい!)

 この場所は、昨日藩主が命を落とした場所である。にもかかわらず、ここを見張る役人の姿はなかった。辰之輔は不安を感じながらも、周囲を警戒しつつ増裕が命を落とした場所へと進んだ。生々しい血の跡が、地面に残っていた。思わず胸が苦しくなり、湧き上がる思いを堪えきれずに、辰之輔はその場から足を一歩踏み出す。増裕が命を落としたその時、自分がどこにいたのかを確認するためだ。目を凝らしてその時の自分の位置を確かめ、現場と自分がいた場所を結ぶ線の反対側へ歩みを進める。

「これだ!」

 辰之輔の目の前には、大人がかがむと見えなくなるほどの深さの窪地が口を開いていた。

 辰之輔は、窪地に飛び降りた。

 概ね幅一・五間(約三m弱)の穴だ。穴の中で立ち上がった辰之輔は、穴から周囲を見渡した。そして、穴の周囲に立つ木立を確認し、次の動作を決めた。辰之輔は、素早く穴から跳び出すと、最も近くの木立に向かって走り出した。辰之輔はその木立の根元の枯葉をかき分けた。手元には僅かに枯れ葉がこびりついていたが、それを払う間も惜しんで木の根元を調べる。しばらくすると、手のひらに微かに残る縄の切れ端のようなものを見つけた。辰之輔の眼差しが鋭くなった。

「何か見つけました?」

 その声に、辰之輔は瞬時に振り向いた。視線の先には、右手に鎌を握った百姓が立っていた。

(こんな近くに来るまで気付かなかった!)

 辰之輔は、これまでにない背筋の寒さを感じた。その刹那、辰之輔はただならぬ気配を感じて右側に跳んで一回転し、すぐさま体勢を整えて百姓に対峙した。

「その身のこなし、さすが藩で一番の使い手ですなぁ」

 警戒する辰之輔に向かって、百姓は不敵に笑みを浮かべて言葉を続けた。

「皆の衆はあんたの御主人が一番と勘違いしているようですが。分かる奴に分かりまっせ」

 そう言うなり百姓は辰之輔に鎌を投げつけ、間髪入れずに背中に隠していた刀を抜いて斬りかかった。寸でのところで初太刀を交わす辰之輔。百姓の不敵な笑みは言葉とともに続いた。

「やはり来ましたな。こそこそ嗅ぎ回るネズミがいれば始末しろとのご沙汰がありましてな……」

 直後、辰之輔は瞬時に腹部にわずかな痛みを感じた。かわしたはずの初太刀が、ほんの少しだけ体をかすめていた。百姓はかなりの手練れだった。

「何者だ?」

「ただの善良な領民でさ」

 辰之輔の問いに、百姓は余裕の口ぶりで答えた。

「善良な領民がなぜ刃を向ける?」

 百姓は、溜息を一つ吐いた。

「土地の者ではないな?」

 辰之輔の目に力が宿る。これに気づいた百姓の顔から笑みが消えた。

「そういえば、栃木宿のあたりで何やら騒いでいるそうだな。幕府に弓引く不逞の輩が結集して暴れまわっているとか……。ここにも幕府から国境の警備を強化するようにとのお達しが出ていたようだが」

 数日前の慶応三年(一八六七年)十一月二十九日、野州出流山満願寺(現・栃木県栃木市)で尊王攘夷・討幕を唱える一団が挙兵した。十二月十三日までの約二週間、その周辺で幕府軍と戦闘を繰り広げた、いわゆる『出流山事件』である。この事件は、武力討幕を企てた薩摩藩の西郷隆盛が、幕府側を挑発して開戦に導くために行った後方攪乱であり、東国の各所で挙兵することで幕府の戦力分散を狙ったものと言われている。

「西国の奴らが裏で手を引いていたとの噂だが……。もしやお前は?」

 百姓は再び不敵な笑みを浮かべた。

「西のお偉いさん連中は東国の動静を掴むために至る所に間者を放っている。そんなところですかね」

 百姓は、刀を持った右手を耳の辺りまで上げて、左手を軽く添えた。

「その構え……。なるほど。江戸でも騒ぎを起こしていた奴らがいたな」

「徳川がまつりごとを投げ出したとたん、尻尾を振ってくる藩が粗相をしないようにしっかり躾ける。これがわしの役目。なんせお宅の亡き殿様は、ご公儀の役職を返上せずに帰国したって言うじゃねぇか。加えて会津ともえれぇ仲がいいと聞く。いつ手のひらを反すかわからねぇ、そんなところよ」

 辰之輔は、ジンジンと腹をさすりながら立ち上がり、刀を抜くと同時に口を開いた。

「殿は日ノ本の将来を考えていた。朝廷につくことが日ノ本のために最良の選択であると判断したからこそ、朝廷に恭順の意を示したまでのこと。刺客風情が知ったような口をきくな!」

 辰之輔の怒声が響き、周囲の空気が一瞬で張り詰める。

「たいそうな口ぶりですが、お手元が震えてますよ。人を斬ったことはなさそうだ。どんなに腕が立っても人を斬ったことがなければ怖いだろ?」

 辰之輔は、必死に震えをこらえた。

「幕府に忠義立てしたところで、その幕府はもうなくなったんですよ」

 百姓の意外な言葉に、辰之輔は虚を突かれ、一瞬の隙が生まれた。その瞬間、百姓は素早く刀を振り下ろし、斬りつけてきた。

 辰之輔は咄嗟に刀で初太刀を受け止める。しかし、腹部に傷を負っていたうえ百姓の一撃が想像以上に重かった。思わず辰之輔は持っていた刀を手放してしまった。すぐさま後方に跳び、脇差を抜く辰之輔。

「さっきお前は、俺を黒羽一の使い手と言ったな。そう思うなら、いたずらに命を粗末にすることもないだろう」

「命乞いにしか聞こえませんよ」

 そう言いながら、百姓は刀を構えたまま辰之輔に正対しつつ後ろに歩を進めた。

「何の策もなく、あんたの前に立つわけないでしょう」

 百姓は、辰之輔の動きを目で抑えながら、両足で地面の土をかき分けるようにして動き、刀を放り投げると、しゃがみ込んで藁に包まれた棒状のものを取り上げた。

「!」

 百姓がはぎ取った藁の中から現れたのは、かつて増裕が辰之輔に見せた最新式の鉄砲だった。

「昨日もこいつの訓練を受けましたな。因果なもんだ。一生懸命わしら『善良な領民』に教えたこいつでお命を失うとは」

 辰之輔が後ずさりすると、百姓は鉄砲を構えながら、冷徹な目で辰之輔を見つめ、口を開いた。

「薄々気づいているでしょう。わしの雇い主は……」

 銃声が響いた。

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