第三話 はじまりの夜
克之丞と辰之輔、そして那美の三人は、しばらく驚きで言葉を失っていた。そんな三人以上に驚きの表情を見せる増裕が沈黙を破る。
「なんだい、知り合いだったのか?」
「辰之輔と那美、某はともにこの地で生まれ育った幼馴染でございます。ですが一〇年前、私共が一〇のとき……」
「父の借金の形に売り飛ばされたってこと」
克之丞が言葉を選んでいると、那美は特に気にすることなく口にした。言い終えた那美は、増裕に向かってほほ笑んだ。
「なんだい、なんだい。てことは、俺ら三人穴兄弟ってことかい? そりゃ奇遇! 運命だな、これは!」
「馬鹿なこと言わないの! 十そこそこの子供にそんなことあるわけないでしょ!」
克之丞と辰之輔は、わずかに顔を赤くしながら視線を落としていた。嬉々として笑う増裕をたしなめる那美の頬も、ほのかな赤みを帯びていた。
「でも、お殿様にお身請けしてもらったからこそ国に戻れて二人に会えたのだから、逆に良かったのかも。すべてお殿様のおかげね」
笑顔で話す那美に、克之丞と辰之輔は戸惑いを隠せなかった。かつての、あの純粋で無邪気な那美の変わり様に。
「入って。すぐにお酒の用意をするから」
何事もなかったように二人を導く那美。克之丞と辰之輔は増裕に続いて庵の戸口をくぐった。
那美は黒羽城下の商家の次女。商いに行き詰まった那美の父は、高利の借金を背負い込んでいた。しかし、結局商いは立ち行かなくなり、那美は借金返済のために江戸の花街に出されていた。
「さわりは聞いていたが……」
そう言いながら杯を干す増裕の表情は、どこか不機嫌に見えた。
「俺がもっと少し早く大関家を継いでいれば、お前ら三人が離れ離れになることはなかったかもしれねぇな……」
増裕が言うと、那美は少し黙った後、静かに言葉を続けた。
「でも、だからこそ、こうしておそばにいられるの」
「ちげぇね」
次々と杯を空ける増裕と那美。
「おいおい、久しぶりに幼馴染みに逢ったからって、飲みすぎるなよ」
増裕の忠告をよそに、那美は楽し気に杯を口にし続けた。
「こいつな、飲みすぎると何しでかすか分からねえんだよ。……江戸の頃からずっとな」
二人の間にある、言葉では触れられないほどの絆を感じながら、克之丞と辰之輔はただ黙って杯を傾けた。
「過ぎたことは仕方ねぇ。見てな。明日からやってやるぜ。お前らみたいな者を作らないようにな」
増裕の言葉が、静かな決意を含んで響いた。その眼差しは真剣であり、どこか藩の未来に賭ける重さを感じさせるものだった。克之丞と辰之輔は、一礼して杯を飲み干した。
固めの酒宴が終わりを告げ、二人が帰り支度を始めた時だった。
「お前たちが近習として奉公することは、俺から皆に伝えておく」
克之丞は深々と頭を下げた。
「かしこまりました」
克之丞が深々と頭を下げると、次いで増裕は辰之輔に向かって口を開いた。
「あくまでも、お前はこいつに仕えているという形を取ってくれ。いきなり近習にするのは、いろいろややこしくなりそうだからな」
辰之輔はしっかりと頭を下げた。下げた頭を上げると増裕と目が合う。増裕の口元がわずかに緩んだ。
「あてにしているぜ」
その言葉には、辰之輔に対する信頼と期待が込められていた。
「また遊びに来てね。昔話をこの人に教えてあげなくちゃ。あんた達の情けないとことかね」
「ほう、それは楽しみだな」
克之丞と辰之輔が庵を出ると、戸が閉まる甲高い音が静寂の中に響いた。
こうして藩政改革に乗り出す増裕は、町人や百姓に高利貸しを行っていた家老をはじめとする重臣たちを更迭し、若く実力のある者たちを登用して幕末の風雲に乗り込んでいくことになる。
辰之輔は屋敷に戻った。那美の悲しみに暮れる姿を目の当たりにし、言葉をかけることができなかった。寝床に横になり、目を閉じた辰之輔は、昼間の目付役の尋問を思い返していた。
「お主は殿から少し離れた場所で銃声を聞いたのだな?」
「はい。すぐさま銃声の方に向かいました。そこには殿が……」
辰之輔が続ける言葉をためらうと、目付役は無表情で淡々とした口調で尋ねた。
「周囲に不審者はいたか?」
「私は一足先に八幡宮の裏手に入り、一通り周囲を確認しました。殿がお越しになった後も引き続き周囲を警戒していましたが、不審な者は見当たりませんでした」
辰之輔の返答に、目付役は頷きながらも、さも納得したような表情を浮かべた。
「やはり何者かの手によるとは考えられないということか……」
「しかし、銃声の方向は同じでも、身近で放たれたものと比べると、かすかに小さく感じました」
辰之輔はわずかに語気を強めた。その言葉に目付役の目に鋭さが増した。
「お主がいた位置から銃声の大小など聞き分けられるのか? それに、風の音や周囲の雑音で音が小さく聞こえることは普通であろう。仮にお主の言うことが正しいとして、あの辺りは木々が多い。その中で離れた場所から狙撃できるものだろうか?」
目付役は理詰めで迫り、冷徹な眼差しで辰之輔を見据えた。その鋭さに、辰之輔は少し体を縮めるように視線を下げた。
「……いいえ」
返す言葉を失った辰之輔は、下を向いたまま答えることができなかった。
「さらに……」
目付役は冷徹に続けた。
「仮にご自害であったとしよう。であれば、それは殿の御意思。それに疑いの目を向けることは、殿のご遺志に異を唱える、不忠者でないだろうか?」
その言葉が、辰之輔の胸に重くのしかかった。彼の心の中で何かが鈍く響き、疑念が深くなっていくのを感じた。
目付役による検分は終わった。返す言葉を失った辰之輔は、目付役に促されるまま、その場を後にした。足音が静かな廊下に響き、心の中でただ一つ、疑問だけが残る。
考えれば考えるほど、辰之輔には目付役の質問が事故や自害に誘導するようなものであると感じられてならなかった。その思考の渦が、彼をさらに深い迷いへと引きずり込んでいく。