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最終話 最後の川

 朝靄の中、那美は川辺の高台に立っていた。

 ここから、戦場を望むことができる。

 ここまでは、銃弾は届かない。

 見えるのは、旗の色、隊の動き、そしてわずかに響いてくる銃声、砲声、馬蹄とラッパの音。

 那美は知っている。あのどこかで、克之丞と辰之輔が、互いの正義をかけて剣を交えていることを。

 前の晩、克之丞は多くを語らなかった。ただ静かに戦支度を整え、「行ってくる」とだけ告げた。

 “また一人になっちゃう……”

 あの夜、そう呟いた言葉が、今も胸の奥でくすぶっている。

 那美は密かに後を追った。不安ではない。ただ、ふたりの魂のぶつかりを、誰よりも知っている者として——見届ける義務があった。

 もう、あの人の遺志ではない。彼らは、自分の意志でそこにいる。過去や誰かに追われるのではなく、“今”を選んで、そして“明日”を見つめてそこに立っている。

 那美は目を閉じた。風の音が、木々のざわめきが聞こえる。交差する刃の音が聞こえるような気がした。二人の心の叫びとともに。

 祈りの言葉は浮かばなかった。ただ、ふたりの魂が交わり、引き裂かれずに済むようにと——

 それだけを願った。


 克之丞の目の前に立つ男は、かつての家族、親友であり、今は敵となった男だった。克之丞は声を張り上げた。心の中のやるせない想いと怒りが声となって爆発した。

「それほどまで俺たちが憎いか!?」

 辰之輔は言葉を返さなかった。背を向け、歩き去ろうとする。克之丞はさらに叫んだ。

「見ろ!お前たちが放った火が村を焼いている!お前たちがしていることは、お前が忌み嫌う奴らと何も変わらない!」

 その言葉が辰之輔を止めた。彼が振り向くと、克之丞は再度、言葉を強く放った。

「もう一度聞く!お前の忠義とは何だ?」

 辰之輔はただ黙って立ち尽くし、克之丞の言葉を受け止めた。だが、その目には怒りが灯っていた。両手が拳を作り、震えていた。克之丞は、そこには辰之輔の苦しみを感じた。

「俺たちが知っている辰之輔は死んだ!今すぐここから去れ!未来は……那美の明日は俺が守る!」

 その言葉が辰之輔を突き動かした。振り返った辰之輔の目は、ただの怒りではなく、深い苦しみと決意に満ちていた。次の瞬間、懐から取り出した短刀を抜き、猛然と克之丞に向かって駆け出した。

 刀と短刀がぶつかり合う音が響く。鋭い音とともに二人の間に緊張が走る。克之丞は必死に防御し、攻撃を仕掛ける。しかし、辰之輔はそのすべてを巧みにかわす。二人の鍔迫り合いが続いた。

「お前に何が分かる!」

 叫ぶ辰之輔が前蹴りで克之丞を後ろに飛ばす。克之丞は地面に倒れこみながらも、素早く体勢を立て直す。二人は再び対峙する。目と目が合った瞬間、奇妙にも二人は心が一つになった感覚を抱いた。

「忠告したはずだ!」

 辰之輔の声が空気を切り裂くように響く。その言葉に続けて、克之丞の刀が空を切る。交わし、避け、刻々とその動きは激しさを増していく。二人の間に目に見える火花が散り、互いに殺意を込めた一撃が繰り返される。

「迷いが消えたか?」

 辰之輔の表情には、わずかな余裕が浮かんでいる。心底楽しんでいるようにも見えるその表情に、克之丞の心はさらに揺さぶられる。

「俺の中で迷いを生んでいたもの。それはお前だと思っていた。だが違った。昨夜の那美の涙を見て分かった」

「何がだ?」

 克之丞は歯を食いしばりながら、声を震わせて言った。

「お前は亡霊だ! 俺や那美を縛る亡霊だ! 俺は今日それを斬る!」

 辰之輔の目が紅潮し、怒りと悲しみが入り混じった表情が一瞬にして顕れる。

「亡霊に、好きな女一人幸せにできない男に、負けるわけにはいかない!」

 息を切らせながら克之丞が叫ぶ。その声には、内心の葛藤と、今ここで何かを断ち切らなければならないという覚悟が込められている。

「それがお前の正義なら、俺の正義のために負けるわけにはいかない!」

 言い終えた辰之輔の目に更に力が宿る。

「いくぞ!」

 辰之輔の吠えるような声と同時に、再び刀が交わる。克之丞の攻撃を避け、辰之輔はさらに素早くなった動きで間合いを詰めていく。だが、克之丞は逃げずに踏みとどまり、二人が互いの間合いの中で刀を振るう。刹那、辰之輔の動きがわずかに乱れた。それを見逃すわけにはいかない。克之丞の渾身の一撃を振るう。辰之輔の誘い。辰之輔の目に光が走る。克之丞の刃をかわし、密接な距離へと踏み込む。次の瞬間、短刀が疾風のように走った。

 克之丞に迫る刃。脳裏に浮かぶ那美の面影。その時、ふと辰之輔の剣先が鈍った。二人の視野の片隅にぼんやりと浮かぶ赤い影。直後、辰之輔の目に映る光景が回る。

(お前も持ってたんだな……)

 地面に横たわる辰之輔の目の前には青空が広がっていた。不思議と辰之輔の心も青空のように晴れやかだった。

 辰之輔の動きが微妙に乱れた刹那、克之丞は深く腰を落とし、瞬時に左のつま先を軸に独楽(こま)のように回転し、右脚で辰之輔の脚を払った。

 辰之輔の眼前の青空に影で隠れる。仰向けに倒れこんだ辰之輔に、馬乗りになる克之丞。その拳が幾度となく辰之輔の顔に打ち下ろされていく。

(やはり『黒羽一』だ……)

 辰之輔の口元は自然とほころんでいた。

「いつも心にもないことばかり言いやがって! お前に俺を殺せるわけないじゃないか! 俺だってそうだ!」

 克之丞の心からの叫び。次第に振り下ろされる拳の勢いは落ちていく。殴る克之丞、殴られる辰之輔、二人の目に涙が浮かぶ。ただの激しい戦いではなかった。お互いがずっと心の中に抱え続けた思いの爆発だった。

 そんな中、ほんの一瞬、あるものが克之丞の目に映った。辰之輔の胸元から見えるもの。古び、汚れ、ほつれた布。克之丞は、驚きとともにすぐにそれが何であるかを理解した。自分の腰に掛けているものと同じだと。那美の御守り、心だと。

 克之丞の拳が止まる。克之丞はそのまま手を伸ばし、辰之輔の襟元を掴む。その手は小刻みに震えていた。

「これでいい……」

 辰之輔がゆっくりと、そして深く息をついて口を開いた。その顔は、殴られ血まみれで腫れ上がっていたが、その表情はとても清々しく、どこか安堵の表情が漂っていた。そう、共に新しい世の中を願い、増裕の下で励んでいた頃のような。その顔を見て克之丞の胸は張り裂けそうになった。辰之輔は続けた。

「確かめたかった。殿が望んだ新しい世とは何か……。今頃分かった……。馬鹿だな、俺は……」

 辰之輔の両目は涙で覆われた。

「そんなことで多くの血を流させてしまった。俺は、殿の命を奪った奴らと同じことをしてしまった。……済まない。」

 辰之輔の声は震え、目の奥に深い痛みと後悔が宿る。それが克之丞の胸をさらに痛めた。

 辰之輔の襟をつかむ克之丞の両手に再び力が入った。

「そうさ! お前は馬鹿だ! 馬鹿なんだから分からなければ言えよ! 聞けよ! ちゃんと言葉で! 俳諧より和歌が好きなんだろう!」

 克之丞の目にあふれた涙が辰之輔の頬を打つ。次第に二人の涙が交わり、静かに辰之輔の顔を伝って落ちていく。それが、長い間言葉にできなかった二人の絆を象徴しているようだった。

「俺は言うぞ! お前と腹を割って話せて、真剣勝負ができて、そして勝った。こんなに嬉しいことはない! そして……やっと本当の兄弟になれた!」

 川の対岸の脱走軍から、離脱を急かす声が響く。辰之輔の上体を起こすと、克之丞は強く抱きしめた。

「行くな……」

 克之丞は嗚咽を堪えながら絞り出した。

 溢れ出る涙を拭うことなくゆっくりと克之丞の両腕をほどいた辰之輔は、克之丞の前に正座した。そして両拳を地面に当て、涙と血まみれの真っ赤な顔を地面すれすれまで近づけた。これを見た克之丞は胸が締め付けられ、言葉がでない。辰之輔は声を絞った。

「那美殿に伝えていただきたい。ご多幸あれ、と」

 立ち上がった辰之輔は川に向かって歩き出した。その背中が遠くなる中、克之丞は声を張り上げた。

「待っている! 俺も、那美も!」

 辰之輔の背中に向かって叫んだ克之丞は、辰之輔のかすかな声を聞いた。歌だった。

 その歌は、小雪が舞い散る那珂川の畔で辰之輔が口にしたものではなかった。

 その歌は、平安時代に歌われた恋の歌だった。


 野州の空は、静かに晴れていた。

 戦も、涙も、声も過ぎて。

 川は、ただ流れていた。

                   完

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