第二十一話 願わくば——
昔話がわずかに二人の空気を和らげる。
「あの時、俺はお前たちが川原で逢い引きをしていたと勘違いして、焦って那美に想いを伝えたんだ。後で那美が江戸に行ってしまったことを聞いた時、あの時の答えは黒羽を離れるからだったと、子供心に言い聞かせた。でも、同時に分かった。あいつは、お前のことが好きなんだと。今も昔も。増裕様が亡くなられたときに見せた涙。そこには、那美がお前への想いに気づいた涙も含まれていたんだと……」
克之丞はしみじみと語った。冷たい夜風が二人の間に吹き抜け、言葉の重さが静寂の中に溶け込んでいった。ほんのわずか、襖に向けて動く辰之輔の瞳。
「知っていたさ」
辰之輔は小さな声で答えた。その表情には、どこか遠くを見つめるような寂しさが漂っている。
「だったら、なぜ!?」
声を荒げる克之丞。辰之輔は少し間を置いて、ゆっくりと続けた。
「俺は、俺を認めて導いてくれた殿への忠義に生きると決めた。だから、那美の気持ちに応えることはできない」
克之丞の耳が赤くなった。
「那美の気持ちに応えることは、忠義に劣るものではないはずだ!」
克之丞の声は力強かったが、言葉の奥にある自分の葛藤を隠すことができなかった。それを感じた辰之輔は、深い沈黙の後に静かに答えた。
「そう言えるお前こそ、那美を幸せにできる」
その言葉に、克之丞は胸の中で何かが揺れ動くのを感じた。だが、その感情を振り払うように、再び静寂が二人を包んだ。
「どうしても行くのか?」
辰之輔は無言で首を縦に振った。その決意を示すように、克之丞は立ち上がり、刀を手に取りながら、視線を外すことなく言った。
「力づくでも止めると言ったら?」
その言葉に、辰之輔も無言で立ち上がり、目を合わせた。お互いに刀を手にしたその瞬間、屋敷の襖が勢いよく開かれ、声が響いた。
「もうやめて!」
那美の叫びが部屋を震わせる。その声は、悲鳴のように空気を引き裂いた。彼女の顔には不安と恐れが色濃く浮かんでいた。背後に控える彦助も心配そうに見守る。
「下がっていろ」
克之丞の声は冷たかった。その一言に、彦助は後ずさりながらも、那美を守るように体を向けた。刀が鞘を走る。克之丞は、そのまま辰之輔に刀を構えながら詰め寄った。辰之輔は後ずさりしながら距離を保つ。辰之輔の背中が障子戸を倒す。これを合図に二人は庭に出て対峙した。克之丞が言う。
「まさか素手でやるつもりじゃないだろうな?」
辰之輔は、無言のまま背中に隠し持っていた短刀を取り出し、鞘から抜いた。
「そんなもので……また手加減するつもりか?」
克之丞の言葉に辰之輔は一瞬、微かな笑みを浮かべた。
「お前の手加減のせいで、俺は『黒羽一の剣士』という肩書を背負うことになった。それがどれほど屈辱的か、分かっているのか?」
克之丞はその言葉に歯を食いしばり、溜まった想いを吐き出した。
「家人が主人を立てるのは当然だ。それが嫌なら、本気で相手してやる」
克之丞は、辰之輔から放たれる異様な雰囲気を感じ、背中に寒気が走る。しかし、克之丞はその恐怖を振り払うように息を深く吐き出し、震えをこらえた。辰之輔もまた、克之丞の微細な変化に気づいた。
「臆したのか? 手加減してやろうか?」
その挑発に、克之丞の目に決意が宿る。同時に震えは止まり、克之丞の中で何かが変わった。
「お前だって人殺しだってことを忘れるなよ。俺と何も変わらない。違うのは覚悟だ」
辰之輔の言葉を聞いた克之丞は大きく息を吐いた。そして気持ちが落ち着くやいなや素早い踏み込みで初太刀を入れる。
辰之輔はわずかに身をよじり、最小限の動きで彼の一撃をかわした。それはまるで、三斗小屋で会津兵と対峙した時のような、余裕を持った動きだった。
瞬間、辰之輔は克之丞との距離を一気に詰める。克之丞の左側にぴったりと寄り添い、密着した辰之輔は、すばやく克之丞の両腕を脇で抱え込み、彼の動きを完全に封じ込めた。そして、辰之輔は短刀を克之丞の喉元に向けて寸止めする。
一瞬の出来事だった。腕を抱えられた瞬間に肘を極められていた克之丞は刀を手放した。辰之輔は抱えていた克之丞の両腕を放し、呆然と立ち尽くす克之丞から距離を取った。
「俺はあの日、殿と初めて会った日から密かに技を磨いてきた。銃を持つ敵に勝つために、殿をお守りするために」
克之丞はその言葉に応えることなく、ただ呆然と立ち尽くした。克之丞の手から落ちた刀を拾い上げる辰之輔。克之丞の手にそれを差し出し、厳しい顔で続けた。
「俺たちは最新の武器と十分な弾薬を持っている。行動を共にする者たちは歴戦の強者。黒羽は俺たちの敵ではない。お前と戦うつもりはない。川を越えれば水戸領だ。願わくば見過ごしてくれることを……」
辰之輔は深々と頭を下げた。しばらくして頭を上げた辰之輔が背中を見せると、克之丞はその背中に向かって言った。
「お前の忠義とはなんだ? 増裕様は新しい世の中を夢見ておられた。であればこそ、明日の世のために尽力することこそが増裕様への忠義。それに引き換え、今のお前はどうだ? ただ周りが見えなくなっているだけで、増裕様の名を借りて自分勝手な思い込みで行動しているだけじゃないのか?」
克之丞の言葉は鋭く、辰之輔の背中を刺すように響いた。辰之輔の足が止まる。克之丞が続けてさらに強い口調で言った。
「戦から黒羽に戻ったとき、那美は何事もなかったように接してくれた。そんな那美を見て思った。大したことじゃない。俺はただお前や那美と、戦のない平穏でありきたりな日々を送りたいだけだと。お前も本当はそうじゃないのか?」
その言葉は、辰之輔の心に深く刺さった。
縁側に立ち尽くして二人のやりとりを見届けていた那美の目に、涙がこぼれ落ちる。那美の目は真っ直ぐに辰之輔の背中を見つめ、胸の内に言いようのない痛みを抱えながらも、克之丞の言葉を追っていた。何も言えず、ただ涙が頬を伝っていった。
辰之輔は背を向けたまま動かず、しばらくの沈黙が続いた。やがて、ようやく口を開いた。
「俺のことは忘れろ」
振り返った辰之輔は克之丞に視線を向け、その後、那美に視線を移した。その目の中には、どこか達観したような冷徹さと、彼自身の苦しみが見え隠れしていた。しばし無言で見つめ合う辰之輔と那美。再び克之丞に視線を戻す。
「明日、俺の前に立つな。それが那美の幸せのためだ」
その言葉と共に、辰之輔は夜の闇に消えていった。
那美は、膝から崩れるようにその場に座り込んだ。克之丞は駆け寄り、無言で彼女を抱きしめる。
「……また、一人になっちゃう」
那美の嗚咽が闇ににじんだ。
泣き崩れる那美を強く抱きしめながらも、克之丞は言葉を持たなかった。
守りたかった。彼女の身も、心も。けれど、その心を守ることはできなかった。
「増裕様……申し訳ございません。お叱りは、そちらで受けます」
克之丞の呟きは、那美の耳には届かない。ただ、那美は彼の胸で泣き続けていた。




