第二十話 交わらぬままに
二日前、九月二十四日。会津藩領、田島宿。
ここには二千人規模の会津、長岡、そして水戸藩兵や旧幕府勢力の残党が集結していた。彼らに、二日前の二十二日、会津藩が新政府軍に降伏したとの知らせが届き、続けて若松城への移動と武装解除の命令が出された。
「ここにいたか」
一人座り込んでいた辰之輔の元に、数人の男たちが歩み寄る。男たちは気まずそうに視線を交わしながら、辰之輔の周囲に静かに集まった。
「ご無事でしたか?」
「会津では世話になった。おかげで、こうして皆生き延びている」
そのうちの一人が辰之輔の傍らに腰を下ろす。沈黙が支配する中、晩秋の冷たい空気が辺りを包み、焚き火の揺れる炎が顔を照らす。
「俺たちは水戸へ行く。お前はどうする?」
辰之輔はうつむきながら、その言葉を聞いていたが、やがて顔を上げた。目の前の男が話を続ける。
「水戸諸生党の市川さんが水戸藩士を引き連れてここを出る。行先は水戸だ。若松城で水戸藩の連中を見かけ、今、水戸が手薄だと判断したらしい」
市川三左衛門――水戸藩の佐幕派であり、幕末の水戸天狗党の乱を経て水戸藩の実権を握った諸生党の領袖。王政復古のクーデター、鳥羽・伏見の戦いで敗北を喫した後、三月十日に水戸を脱藩し、その後奥羽越列藩同盟に参加して会津や長岡と転戦していた。
「確か、新選組の山口さんは武装解除に応じるとのことでしたが……?」
「最後まで会津に殉じる。あの人はそういう人だ。でも、俺たちは違う。行き場のない俺たちは、戦い続けるしかない」
行き場のない——男の言葉に、辰之輔は静かに目を閉じた。沈黙の後、男が再び口を開く。
「お前もどうだ?」
「水戸を拠点に戦い続けるということですか?」
辰之輔が尋ねると、男は頷きながら言葉を続けた。
「市川さんはその気らしいが、俺たちは違う。水戸には留まらず、船を仕立てて北へ向かう」
「北へ?」
「そう、北だ」
突如として語られた話に、辰之輔は驚きの表情を隠せなかった。
「新選組の土方さんを知っているか?」
「……噂は」
「北に行けば、土方さんがいる。俺たちは水戸で船を仕立て、北へ向かうつもりだ。北に向かう道はほとんどが敵に抑えられているからな」
辰之輔は視線を落とし、心の中で渦巻く思いに苦しんだ。
「居場所はない。俺たちは戦い続けるしかない。理由は聞かない……。戦い続ける理由、それがあるなら俺たちと来い」
男がそう言い終えると、立ち上がった。
「聞けば、水戸の出らしいじゃないか。それがどうして黒羽にいたのか……。そんなことはどうでもいい。水戸への道中、黒羽を通る。黒羽を越えれば水戸領だ。そのまま国に残る、水戸へ向かう、俺たちと北へ向かう。それとも、ここで終わりにする。選ぶのはお前だ」
言い終えた男が辰之輔に視線を移した。辰之輔の顔を見た男の口元が緩んだ。
「明日の夜明け前だ」
言い残すと、男たちは辰之輔の前から去っていった。
男の名は久米部正親、元新選組隊士である。久米部と共にいた男たちも元新選組隊士であった。この後、久米部たちは北へ向かうことなく、高崎藩領松岸村(現・千葉県銚子市)で新政府軍に降伏することになる。
そして日付が変わった二十五日早暁、水戸藩・長岡藩兵を中心にした総勢約六〇〇名の脱走軍は、田島宿を出発し、三斗小屋経由で水戸を目指した。
「すべてお前の手引きか?」
克之丞の声が低く、鋭く響く。広谷地に陣を敷いた黒羽兵が脱走軍を待ち構えていたが、脱走軍は予想外に黒羽兵をかわすように南下し、さらには新政府軍が駐屯する大田原城を迂回し、無事に片府田村に宿陣したと報告があった。
「戦を避けるためだ」
辰之輔の静かな言葉に、克之丞の眼光がますます鋭くなる。怒気を含んだその眼差しが辰之輔を捉え、冷徹に問いかける。
「進む道を示して、道をあけろということか?」
辰之輔は無言で克之丞を見つめた。
「水戸へ行ってどうする? まだ戦い続けるつもりか? 戦いは終わったんだ。戻って来い。」
その一言が克之丞の全身からの呼びかけのように響き渡った。しかし、辰之輔はその言葉を受け流し、静かな声で返す。
「今の俺にあるのは、殿への忠義のみだ。」
辰之輔の言葉は静かでありながらも、底知れぬ決意を含んでいた。
「殿のお命を卑怯な手で奪った奴らが作る国、そんな国を俺は認めない。だから俺は戦い続ける。」
辰之輔の目は揺るがない。それが真実だと、克之丞はその目に感じ取った。
「忠義……」
克之丞の心に何かが刺さるような感覚が走った。亡き黒羽藩主・大関増裕が思い描いた国のため、二人の意志は一つだった。だが、今、その意志はどこで歯車が狂ったのか、完全に分かれてしまったように感じた。
「那美と離れ離れになった日のことを覚えているか?」
克之丞は一度襖に目をやった後、突如として尋ねた。
「今度はお前が昔話か?」
軽く答えた辰之輔ではあったが、克之丞の真剣な眼差しを見て、辰之輔の表情も一変して堅くなった。しばらく静寂が続く。すると辰之輔の表情がわずかに緩んだ。
「いいだろう」
辰之輔は小さなため息をつくと、かすかに笑みを浮かべた。
「別れ際にお前の口から那美にふられた日のことを聞こう。餞としてこれ以上のものはないだろう」
十五年前、三人がまだ一○歳の頃である。
ある日、辰之輔は一人、那珂川の川原に寝転び、ぽつんと空を眺めていた。風が川面を撫で、草の間からこぼれ落ちる日差しが彼の顔を照らす。その時、ふと何かに気づいて辰之輔は目を細め、身を起こした。草の間から聞こえてきた微かな音に反応したからだ。
川べりに、無意識にしゃがみ込んでいる一人の女子がいた。その姿に、辰之輔はしばらく目を留めた。彼は何気なく声を掛けた。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
振り返ったその女子は、那美だった。少し戸惑うように辰之輔を見つめ、やがて辰之輔だと認識すると、那美の顔はみるみるうちに紅潮していった。
「辰っちゃんの馬鹿!」
那美の声は、振り向いた瞬間の怒りと切なさが混じった叫びだった。その目には、はっきりと涙が浮かんでいた。那美は息を荒げて川辺を駆け抜け、足元も見ずにどこかへ消えていった。辰之輔はその後ろ姿を呆然と見送るだけだった。自分の言葉がどれだけ不器用で、彼女を傷つけたのか、理解できないまま。
しばらくして、克之丞が駆け寄ってきた。
「那美が泣きながら走っていったけど……。那美に何をした!?」
その瞬間、克之丞が無言で殴りかかる。しかし、辰之輔はこれを難なくかわす。克之丞は怒りに駆られて幾度となく拳を振るうが、そのすべてが滑稽なまでに空を切った。結局、克之丞は無言でその場を去り、那美を追った。
翌日、二人は再び那美の屋敷へと向かった。屋敷が近づくと、克之丞は辰之輔に一言告げた。
「ここで待っててくれ」
辰之輔は、ただ黙って頷いた。克之丞はゆっくりと屋敷へと歩み寄った。一輪の花を握り締めながら。緊張の面持ちの克之丞。すると屋敷の前で、タイミングよく那美が現れた。克之丞は、花を差し出し、二言三言交わした。間を置かず、那美が静かに頭を下げ、克之丞の前から走り去っていった。呆然とした克之丞の手から、花がゆっくりと地面に落ちていった。
その光景を複雑な気持ちで見守っていた辰之輔だったが、走り出した那美が近づいてきた。辰之輔に気付いた那美が足を止める。那美の目に涙が浮かぶ。その涙を拭うことなく、那美は背を向けて走り去った。離れた場所からその後ろ姿が見ていた二人は、ただ茫然と立ち尽くしていた。
二人が那美の姿を見たのは、これが最後だった。




