第十九話 三人、再び
「昨夜もうなされていたわ」
那美は茶をすする手を止めずに、静かに言った。ほんの少しだけ、視線が克之丞の顔をかすめる。
明治元年(一八六八年)九月二十六日、克之丞が黒羽に戻って一ヶ月が過ぎていた。
克之丞は箸を置いた。帰国後、彼は毎晩のようにうなされていた。
彼女が眠りに就いたすぐ後、またあの夢が来る。二本松、三斗小屋、地獄のような戦場。そして決まって最後には——血まみれの辰之輔が、無言で彼を見つめている。
隣に温もりがあったのに、あの夢だけはどうしても消えなかった。
「……すまない」
克之丞は軽く頭を下げ、縁側へ出て空を見上げた。春の日差しがまだ浅く、空には白い雲が浮かんでいる。
那美は膳を片付けながら、ぽつりと呟く。
「もうすぐ……みんな帰ってくるのね」
どこか晴れやかな、けれど少し遠い声だった。克之丞はその横顔に目を細めた。
「そうだな……」
「克っちゃんは伯父様の身内でよかったわね。一足先に黒羽に戻れて。……てっきり、死んだかと思ったわ」
声音に、棘と優しさが混じる。克之丞は苦笑しながらも、うなずいた。
「次はちゃんと挨拶するし、便りも出す」
「ほんと駄目。克っちゃんも、あいつも——」
那美は微笑んだ。けれどその目元が、少しだけかげっていた。そのかげりが、克之丞の胸にひっかかる。克之丞はゆっくりと立ち上がり、彼女の前にしゃがみ込んだ。突然の距離に、那美の手が止まる。ふと目が合った。短い沈黙。那美はすぐに目を逸らし、膳を整え始める。
「……戦の最中、辰之輔に会った」
その言葉に、那美の手から湯呑みが滑り落ちた。音が、畳に響く。しばらく那美は動かなかった。やがてゆっくり湯呑みを拾い、震える指で布巾を取る。その目は克之丞を見ず、ただ静かに拭き続けていた。
「それで、辰っちゃん……は?」
絞り出すような声だった。小さく、けれどはっきりと揺れていた。
克之丞は答えず、ただ目を伏せる。喉が、張りついたように動かない。
「……あいつに会った後、会津の間者が斬られたという話を聞いた」
「それで?」
那美の声が冷たくなった。まるで、何かを責められているような、されていないような、不思議な距離感。克之丞がその目を見つめ返すと、那美の瞳はうっすらと赤く濡れていた。
「……克っちゃんの、ばか」
那美は膳に手をかけたまま、それを置くこともできずに立ち上がると、屋敷の奥へと走っていった。
克之丞はその背を、呼び止めることもできずに見送る。胸の奥に、静かに残るのは——怒りではない。責められたという痛みでもない。ただ、守りたかった女性の心に、自分が傷を残してしまったかもしれないという不安と、どうしようもない恐れだけが残った。
その日の夜、黒羽の克之丞の下に三左衛門から命が届いた。黒羽城の南約二里十町(九㎞)の佐良土村に陣を張れというものだった。会津藩降伏時に田島に駐留していた会津軍の一部が三斗小屋を南下し始めたからである。
会津藩が降伏する数日前、三斗小屋は会津軍の焼き討ちを受け、無残な姿をさらしていた。まさにその頃、若松城に入れなかった会津軍が野州を目指しているという報せが白河口総督府に届いていた。黒羽隊は急遽帰国を命じられた。黒羽隊は会津藩が降伏した二十二日、那須湯本の南方・広谷地に本営を設置し、周囲に部隊を展開し警戒にあたった。そして二十六日、脱走軍が佐良土村の西北西、一里半の片府田村に到着したとの報告が届く。これを聞いた黒羽隊と奥州道中の宿駅・大田原にあった新政府軍は、翌二十七日早暁、大田原藩をはじめとする諸藩が脱走軍の北面から攻撃を仕掛け、黒羽藩は南東の佐良土村でこれを待ち受けて挟撃する作戦を立てたのである。
克之丞はこの報せを受け、深夜、急ぎ出陣準備を始めた。留守居役の家老の指示を受けて、全ての準備を整えた後、仮眠を取るべく屋敷に戻った。しかし、心は落ち着かなかった。
その時、屋敷の裏から物音がした。身を起こした克之丞は、廊下を小走りに駆け寄る音を聞いた。何かが起きていると感じて目を覚ました那美だった。
「克っちゃん……」
無言で頷く克之丞は、異変に気づいて駆けつけた彦助と那美を部屋に残し、刀を手に屋敷の裏へ向かった。薄暗い中に動くかすかな人影。克之丞の手が無意識に刀の鯉口に触れた。
「慌てるなよ、克……」
小さく、低く、落ち着いた声が聞こえた。知っている声だった。その声が克之丞の鼓動をわずかに早めた。
「辰……」
すぎに安堵の気持ちが広がり、克之丞は刀を鞘に戻した。その時だった。克之丞を心配して襖の陰から様子を見ていた那美が、驚いて姿を現した。
「辰っちゃん……」
那美の瞳には、涙が滲んでいた。その目が、克之丞の心を一瞬で引き寄せる。彼女の混乱と安心、そしてその瞳に浮かぶ深い感情が、克之丞には痛いほど伝わった。
「那美……」
一言つぶやいた辰之輔は克之丞に視線を移した。
「やはりな。向かうのは佐良土、挟み撃ちか?」
克之丞は瞬時に状況を察した。その瞬間、安堵の気持ちは霧のように消え失せ、再び警戒心が高まる。低い口調で辰之輔に尋ねた。
「様子を探りに来たのか?」
そう言いながら、克之丞は無意識のうちに刀の柄を握り、鯉口を切った。
「そう身構えるな。ご覧の通り丸腰だ。」
努めて穏やかに話す辰之輔であったが、克之丞は刀を構えたまま、その姿勢を崩さなかった。そんな克之丞を見つめながら、辰之輔は低く静かな声で言った。
「やめておけ。屋敷の外には仲間がいる。越後や会津の戦いを生き抜いてきた一騎当千の猛者たちだ。お前一人では無理だ」
無理に戦っても、那美が危険にさらされる。克之丞の脳裏に冷静な判断がよぎり、ついに刀を床に置いた。
「二人だけで話がしたい」
辰之輔の言葉に克之丞は無言で頷き、視線を那美と彦助に向ける。その合図を受け、二人は屋敷の奥へと退いていった。中庭に面した部屋で対峙する二人。しばしの静寂を辰之輔が破った。
「明日、俺たちは箒川沿いを東に向かい那珂川を越えて水戸に向かう」
「水戸?」
辰之輔の予期せぬ言葉だった。




