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第十八話 帰るべき場所

 目の前には農民が無惨に吊るされたいた。後ろ手に縛られたまま木に吊るされたその姿は、まるで生け贄のようだ。血にまみれた農民の肩骨は外れ、腕は不自然な角度を向いている。周りの者たちはその恐ろしい光景に目を覆い、言葉を失っていた。

「会津に脅されて荷駄を運んだだけなのに……」

 地元の者たちが震える声で呟くのを聞いた克之丞は、脳裏に二本松での光景を思い浮かべた。

(狂気……)

 三左衛門が言った言葉が蘇る。克之丞は心の中で確信した。目の前の光景を作り出した者たちと、今の自分が変わらないことに。昨日の戦いで、恐怖を押し殺し、前へ進み、人を斬ることに何の迷いもなかった自分と。そんな自分が、同じように狂気に取り込まれているのだと。

 その時、突如として、吊るされた農民の体が鈍い音を立てて地面に落ちた。何者かが木の幹に結びつけられた縄を解いたのだ。

「殿を殺めた奴らの仲間になると、みんなこういうことをする」

 克之丞の耳元で、聞き覚えのある声がした。

(辰……)

 振り向くことができなかった。聞きなれた辰之輔の声。しかし、その声には、今まで感じたことのない冷たさと殺気がこもっていた。しばらくすると、その殺気は消えた。克之丞は意を決して振り向いた。だが、辰之輔の姿はそこにはなかった。克之丞は再び農民が吊るされた木に目を向けた。そこには、木の幹の陰に隠れるような人影が見えた。

「辰之輔……」

 克之丞は駆け出した。人だかりをかき分けて木の根元にたどり着くが、すでにその場には人影はなかった。周囲に目をやったが、霧が濃くなり、視界がますます奪われていった。

(何を考えている……)

 濃い霧の水滴が頬を伝い、克之丞は呆然と立ち尽くした。


「どうした?」

 三左衛門が問いかけると、克之丞は一瞬目を逸らし、すぐに平静を装って答えた。

「その間者は、どのような者でしたか?」

 三左衛門の問いに、克之丞は少しだけためらいながらも、自分の疑念を言葉にした。

「会津は老人や子供まで戦場に送り込んでいると聞きます。その間者が年端もいかない子供であったら、と思った次第です」

 三左衛門は静かに頷きながら、答える。

「初老の者であったとのことだ。お主の言う通り、そのような者の手まで借りねばならぬほど、会津は窮しているということであろう。」

 克之丞はそれを聞いて胸をなでおろしたが、同時に自分が感じていた不安が薄れないことを実感していた。

 三左衛門は、話を元に戻すように言葉を続けた。

「これまでの誼をもって若松城を包囲する官軍の背後を衝いてほしい、とのことだ。往生際が悪いと言えばそれまでだが、藩内にはいまだに会津に思いを寄せる者もおろう。万一会津になびくようなことがあれば、会津の次は我らの番ということにもなる。」

 克之丞は無言のまま三左衛門の言葉に耳を傾けていた。三左衛門は続けた。

「急ぎ戻り、間もなく会津攻めが終わることを伝え、藩内の動揺を抑えよ。そして留守部隊を再編して国境を固め、要所要所に見張りを置け。怪しい者を見つけたら、その場で斬れ。」

 翌二十五日、克之丞は心にわだかまりを抱えたまま、ひとり帰国の途に就いた。夕刻、黒羽に戻ったときには、辺りはすでに薄暗く、街道には湿った風が吹いていた。心の中の迷いに、答えはまだ見つからない。けれど、その答えの手がかりは、きっとこの町に、自分が帰るべき場所にある——。

 そう信じて、克之丞は足を速めた。


 夜の冷え込みが、庵の壁をすり抜けて肌を刺す。囲炉裏の火も、今夜はなぜか心許ない。その心許なさが、屋敷の広さをより寂しく映した。

 那美は一人、繕い物の針を置き、膝を抱えて外を見つめていた。

 かつて、この場所は笑い声であふれていた。三人で炊いた飯が焦げて、大慌てで鍋を振った夜。

 克之丞が真剣な顔で和歌を詠み、辰之輔が苦笑していた光景。

 あの頃、世界はまだ小さくて、私たち三人だけで充分だった。

 けれど今、克っちゃんも辰っちゃんも、何かに取りつかれた様にここを去った。

 “今の私は、今しかいないの”

 あの言葉が空しく心に響く。私は……私だけ、何も変われていない。

 あの人——お殿様が私を庵に連れてきた夜、こう言った。

「この国がどんな形になろうとも、お前だけは、ここに居てくれればいい」

 私は黙ってうなずくしかなかった。嬉しくて、言葉にならなかった。

 ——でも、あの人はあの朝、夕方には戻ると言って鉄砲を持ったまま私の前を去っていった。永遠に。

 みんないなくなっていく。家族もあの人も、そして二人も……。

 私はただ、幸せになりたかっただけ。

 あの人がいなくなった理由も、日ノ本も藩もどうでもいい。

 幼い時のあの頃のように、克っちゃん、辰っちゃん、そしてあの人と、川に向かって石を投げ、釣った魚を食べる。

 そんな日々を送りたかっただけ。

 涙が、静かにこぼれ落ちた。ちょうどそのとき、玄関の向こうから、聞きなれた声がした。

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