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第十六話 狂気の山

 明けて慶応四年(一八六八年)二十三日。雨は降り続いていた。明六ツ(午前六時)、北温泉で一夜を明かした本隊は予定通り部隊を二つに分けて進軍を開始した。黒羽本営隊を含む本隊が北温泉を南下して那須湯本を経由した後に北西に転進、茶臼岳(那須岳。標高一九一五m)の南側を回って三斗小屋を目指し、もう一隊が北温泉の西の大丸温泉を越えて朝日岳(茶臼岳の北約一二町(一.三㎞)。標高一八九六m)を経由し三斗小屋の背後を衝くという進軍計画だった。

 こうして、日本戦史においても類を見ない、高地での山岳戦が繰り広げられることになったのである。

 本隊と大丸隊の装備は非常に限られていた。一人当たり弾薬は六〇発、二回分の食糧と履き替え用のわらじだけ。これまで以上に険しい山道が続き、兵站の確保が不十分だったため、決死の出撃となった。

 北温泉を出発した本隊は、五ツ(午前八時)頃に那須湯本で会津軍の前哨部隊と遭遇し、これを駆逐。その後北西へ進路を取り、茶臼岳の南西約五町(約五〇〇m)の牛ヶ首(標高一七三〇m)を越え、三斗小屋宿に迫った。本隊が那須湯本に到着した時、会津兵は朝風呂を楽しんでおり、一部の兵士は素っ裸で逃げ出したという。

 本隊の進軍路は狭く急峻な山道で、所々には鉄の鎖が設置された難路であった。進軍は困難を極め、隊列は縦長に伸びる一方だった。克之丞をはじめ、腕に覚えのある二〇名ほどの黒羽藩士が先頭に立って進んだ。しばらくして、平らな場所に到達した。周囲は雨と霧に覆われ、ほとんど視界が利かない。遅れている部隊を待つために一息つこうとした瞬間、突如として銃声が響いた。

「敵襲!」

 藩士の一人が叫び、克之丞たちは素早くぬかるんだ地面に伏せ、銃を構えた。銃声に混じって銅鑼やラッパの音が響き渡る。那須湯本で取り逃がした会津兵が、本隊の接近を知らせて待ち構えていたのだ。

 克之丞はうつ伏せのまま周囲を見渡し、銃声の数に比べて味方の周囲に着弾する音がほとんどないことに気付く。克之丞は冷静に状況を分析し、敵の狙いを理解した。

「当てずっぽうで攻撃しているだけだ。今のうちに砲を組み立てろ」

 克之丞は低い声で周囲に指示を出した。本隊は北温泉を出発する際、臼砲(モルチール砲)三門を解体し、数人でそのパーツを担いで山道を進んできた。霧が濃く視界が悪い中で、砲の準備が整った時、克之丞は再び声を張った。

「賊の銃声のする方に向かって撃て! 撃った後は即座に移動だ。賊も銃声に向かって反撃してくる!」

 霧の中で響く砲撃と銃撃。お互いの攻撃が交差し、戦場はまさに地獄絵図だった。克之丞たちの周囲に会津軍の銃弾が次第に着弾する数を増してきた。陣を築いて待ち構える相手に数少ない弾薬で挑む克之丞たち黒羽隊。状況は悪化するばかりだ。黒羽隊は、木々や倒木、岩を盾にして敵の攻撃をかわしながら反撃していた。

 その時、後ろから聞こえてきたのは、息を切らした兵士の声だった。

「すまない! 遅れた!」

 振り返った克之丞の目に飛び込んできたのは、第二陣が到着した知らせだった。だが、それと同時に銃声が響き、第二陣の一人がうめき声を上げながら倒れ込んだ。兵士たちが次々にその場に伏せ、身を隠す。克之丞は背筋に冷たいものを感じ、わずかに手が震えだす。寒さのせいではない。手にした銃がわずかに震えていた。

「撃ったら動け! 賊は銃声に向けて発砲している!」

 克之丞が叫ぶと、第二陣の兵士たちは、素早く身を隠しながら動き出す。だが、その間にも銃声が続き、彼らを狙って次々と弾丸が飛び交う。

「これでは進むも退くもできない。まもなく本隊が到着する。どうする?」

 第二陣の隊長が克之丞に声を掛ける。克之丞は深呼吸をし、冷静に答えた。

「急ぎ本隊に状況を伝えましょう。やみくもに前進しては危険です。斥候を放って賊の状況を確認し、少しずつ後退します」

 隊長は頷き、指示を伝えに離れていった。その直後、突如として会津軍の攻撃が止まった。黒羽隊の士たちは一瞬、戦闘の停止に戸惑いながらも周囲に目を凝らした。その時、左右から叫び声が上がった。

「賊の斬り込みだ!」

 会津軍はあらかじめ周囲の地理を調べ、黒羽隊の位置を把握していたのだ。斬り込み部隊は二手に分かれ、左右から一気に黒羽隊に迫っていた。

(まさか、あいつが!?)

 克之丞の脳裏に焦燥と不安が駆け巡る。

「今なら銃撃はない! ひとまず退け!」

 黒羽隊隊長の声が響いた。黒羽藩領とはいえ、城からは遠く離れた地。会津軍は数ヶ月前から部隊を展開しており、地の利がない戦場での不利を克之丞は肌で感じていた。第一陣、第二陣の藩士たちは、会津軍の斬り込み部隊と応戦しながら、来た道を戻った。しばらくすると、会津軍は引いていく。そして戻る先の霧の中に現れたのは、三左衛門率いる本隊だった。

「ご苦労であった」

 三左衛門が泥だらけの藩士たちを労った。

「申し訳ございません。何もできませんでした。」

 克之丞は深く頭を下げた。

「強行軍の直後に、この雨と霧。そう卑屈になることはない。しかし、どうしたものかのう…」

 一同がしばらく黙り込んでいると、後続が到着し、事前に放たれた斥候が無事に戻ってきた。霧が功を奏し、会津軍に気づかれることなく情報を持ち帰ってきたのだ。斥候の報せでは、会津軍一〇〇人ほどで、賊は三斗小屋に拠点を構え、周辺の街道、間道に自然の地形を利用した強固な陣地を築いているとのことだった。

 これを聞いた三左衛門を補佐する軍監が口を開いた。

「遅れている大丸越えの部隊が合流すれば、賊に対して我々の兵力は二五〇。今は少しずつ賊を削り、合流後に一気にこれをせん滅できましょう」

 軍監の提案に三左衛門は頷いた。そこで本隊で腕の立つ選りすぐりの兵を集め、これらが会津軍の左右から斬り込みを行い、大丸越えの別動隊が到着を待って一気に三斗小屋に攻め込むことに決した。戦場の緊張感の中で、克之丞に向けられた三左衛門の言葉が響く。

「お主が斬り込みを指揮しろ。」

 克之丞は一瞬戸惑った。迷いを抱える自分になぜ……。

「黒羽一といわれるお前が行かねば士気に関わる」

 三左衛門の目は鋭く、冷徹に続けた。

「思うところはあるだろうが、迷いがあるのはお主の都合だ。敵は待ってはくれん。ひたすら前を目指せ。何も考えるな。」

 三左衛門の言葉に克之丞は無言で頷くと、仲間たちとともに霧の中に消えていった。

(那美も、四郎も、あれっきりだったな…)

 克之丞は心の中でつぶやきながらも、意識を戦場へと集中させた。頭の中で繰り返されるのは、先日の三左衛門のあの言葉だった。――『この先は狂気がない者は進めない』

 しばらくして、精兵による会津軍陣地への斬り込みが始まった。

(迷ったら死ぬ。何も考えるな。前へ。狂気)

 克之丞はその言葉を心の中で繰り返し、ただひたすらに進んだ。無我夢中で進み、迷いを捨て、恐怖を感じさせないように心を固めた。

 斬り込み隊は成功し、川を越えて会津軍の胸壁の後ろに回り込むことができた。会津軍は驚き、慌てた。自分たちが斬り込んだ後に、逆に斬り込みを受けてしまったのだ。混乱した会津軍は一時的に後退した。

 斥候からの報せを受けて、三左衛門は本隊を進撃させ、会津軍の勢力を一気に削るための行動に移った。

 戦闘はわずかに数で勝る黒羽隊優位で進んだ。しかし、弾薬の数は限られている。加えて会津軍の必死の応戦。まさに弾薬が尽きようとした時であった。本隊の右側、会津軍の左側から突然、鬨の声が響いた。遅れていた大丸越えの部隊がついに到着したのだ。大丸隊は、朝日岳と茶臼岳の合間を抜け、険しい山道を駆け下りながら、遠くで鳴り響く銃声や砲声を聞いていた。標高差六〇〇メートルを一気に駆け下り、敵軍に加勢したことで、ついに勝敗は決した。

(これで終わる!)

 克之丞は思った瞬間、身体の中で緊張が解けるのを感じた。そこに一瞬の隙ができた。霧の中から突如現れた会津兵の振るった刃が走る。

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