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最後の川  作者: 氷乃士朗
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第一話 藩主、死す!

 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

                          崇徳院




 真冬の野州黒羽、八ツ半(午後三時)。西に傾いた日が、冷たい風を吹き込む。日差しはやわらかいが、その温もりはすぐに底冷えに変わり、空気の中にひんやりとした予兆を感じさせる。

「旦那様!」

 門前に立つ初老の男の声が響く。声に気づいた克之丞は、足を速めた。

「今までどちらに?」

「調練の後、河原で剣術の稽古をしていた。遅くなってすまなかった。辰之輔は戻ったか?」

「まだでございます」

 克之丞は手を伸ばして、彦助から手ぬぐいを受け取ると、冷たい汗が滴る顔から首筋にかけて、無心に拭い始めた。

「出迎えとは、珍しいな?」

「ご家老様から、急ぎ登城するようにとのお達しがございましたので……」

「伯父上から? どうせ調練の状況を報告しろ、だろう。五日後の御前で大隊調練、伯父上も気が気ではないのだろう」

 意に介さず、汗を拭きながら屋敷の門をくぐろうとしたその時、突如、慌ただしく地面を蹴る音が耳に飛び込んできた。

「克之丞さん!」

 振り返ると、若者が息を切らせて駆け寄ってきた。その足音が、どこか焦りを含んでいるように、拭き残した汗の冷たさが、克之丞心に冷や汗を誘った。

「四郎、どうした? 血相変えて」

 目の前で膝に手をつき、荒い呼吸をする四郎に、克之丞は努めて冷静に続けた。

「まあいい。お前も風呂に入っていけ。風邪で調練に出られないのでは洒落にならないぞ」

「そんな悠長なことを言っている場合ではございません! 殿が……、殿が身罷られたとのこと!」

 四郎の声は震え、必死に空気を裂くように響いた。

「滅多なことを口にするものじゃないぞ!」

 克之丞は、思わず声を荒げた。

「先ほど内密の話として父から伺いました」

 四郎の言葉が、克之丞の胸を凍りつかせた。目の前の四郎の真剣そのものの顔を見て、彼はただならぬ事態が起きたことを確信した。

(辰之輔、何があった……。お前がついていながら……)

 冷たく湿った汗が背中を流れ落ち、凍りついたような静けさが二人の間に漂う中、克之丞は思わず息を呑んだ。

 そのまま、冷え切った衣服を身に纏いながら、二人は足早に城へ向かって駆け上がった。克之丞の脳裏には、増裕を囲み、酒を酌み交わしたあの夜の、ふと見せたあどけない笑みが、いつまでも焼きついていた。


 黒羽城は、天守を持たない居館形式の陣屋で、野州(現・栃木県)の北東部を流れる清流・那珂川の東側にそびえる丘陵の上に位置している。東には松葉川も流れ、川面からの高さ約七〇m。二つの川が天然の堀になっていることに加え、陣屋の周辺にはさらに深い堀がめぐらされている。野州屈指の堅固な城郭である。

 克之丞と四郎が城に到着した時、黒羽城の大広間にはすでに多くの藩士たちが集まっていた。部屋の空気はひんやりと冷たく、何とも言えない緊張感が漂っている。藩士たちの顔には、皆が何かを待っているような、焦りと不安を秘めた表情が浮かんでいた。

 家老が口を開く。語られる内容は、藩主・大関増裕の死に関する報告であった。その内容に、部屋中の息が止まるような静けさが広がった。黒羽城の西南西に鎮座する金丸八幡宮(那須神社)裏の雑木林で遊猟をしていた藩主が、暴発した猟銃の弾丸を受けて急死したという。

(事故……)

 その言葉に、克之丞の心は乱れた。銃の扱いに慣れた増裕である。暴発なんてことがあり得るのか。それとも、何か他に理由があるのか。お供についていた辰之輔はどうした。あいつなら何か知っているのでは。頭の中で無数の思考が渦巻く。

 その間にも、周囲では集まった皆々が家老たちに必死に詳細を求めて質問を投げかけていたが、克之丞の耳にはほとんど届かなかった。大広間の混乱は限界に達していた。居並ぶ家老たちですら事態を完全に把握できていない様子が見て取れた。結局、何も解決されぬまま、場は解散となり、克之丞はその場を後にした。

「辰之輔は!?」

 屋敷に着くや否や、克之丞は慌てて彦助に尋ねた。あまりの形相に、彦助は気後れしながらも答える。

「まだでございます……。城で何かございましたか?」

 返答もせず、克之丞は顔をしかめる。

「まずはお着替えを……」

 彦助の言葉はむなしく消え、克之丞は屋敷を飛び出した。この状況の答えがある場所。克之丞の心はそこへ向かっていた。

 黒羽城下を駆ける克之丞。どこからか「藩主死亡」の言葉が漏れ聞こえてくる。その言葉を耳にした瞬間、彼は再び動悸を覚えた。悼む者もいれば、さも当然だと嘲る者もいる。中には歓喜の声さえ。今の克之丞にそれらに耳を傾ける余裕はなかった。

 町を抜け、橋を渡り、さらに森の中へと駆け続ける。冷たい風が彼の頬を叩き、無情に身体を冷やしていく。ひたすら走り続けるその間も足音が響く。そのリズムが克之丞の鼓動とシンクロし、さらに気持ちを高ぶらせた。

「那美! 那美はいるか!?」

 町から遠く離れた森の中、静寂を破るように克之丞は叫んだ。しばらくして庵の戸口が開き、一人の女が姿を現した。彼女の顔には深い悲しみが刻まれ、克之丞に気づくと悲鳴のような声を発した。

「あの人が!」

 那美はそのまま克之丞の胸に飛び込んできた。克之丞はそのまま、彼女を無言で抱きしめる。涙を流す彼女の肩を抱えながら、克之丞は心の中で無力感を抱きつつ、ただその身体を受け入れた。

 しばらくして、那美が落ち着きを取り戻すと、克之丞は彼女を庵の一室に寝かせた。一人、縁側に出て腰を下ろし、寒さを感じながら静寂の中に身を置いた。季節は冬、周囲はすでに暗くなり、静寂が辺りを包み込んでいた。

 その時、ふと克之丞は背後の気配を感じ、無意識に体を引き締めた。腰から刀を外して左手に持ち、感じた気配の方へと意識を集中させる。ほんの少しの間、静寂が続き、その後、安堵の言葉が克之丞の口から漏れた。

「辰之輔……」

 克之丞の声に気づいた人影が小走りで近づいてきた。

「ここに来れば、と思ってきてみたが、今までどこに?」

 克之丞は穏やかな声で辰之輔に語りかけた。

「城で御目付役の検分を受けていた。すごい騒ぎだったな。聞こえていた。心配かけてすまなかった」

「何があった? お前がお側にいながら、どうして殿が!?」

 辰之輔が口を開こうとしたそのとき、庵の障子戸が静かに開いた。声を聞きつけた那美が、そこに立っていた。数歩踏み出してその場で足を止める。そして——動かないまま、ただじっと辰之輔を見つめていた。

 その目が、赤くにじむ。唇がわずかに震えたかと思うと、にわかに涙があふれ出す。次の瞬間、那美は裸足のまま、辰之輔に向かって駆け出した。森の中に、甲高い音が響いた。涙に濡れた目で、辰之輔を睨みつける。

「どうして……守ってくれなかったの。あんたのせいよ……!」

 泣き声とも叫びともつかぬ声が森にこだまする。

「今日は、あの人の誕生日だったのに……!」

 那美は、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。

 克之丞は、静かに彼女のそばに膝をつき、肩に手を添える。

「……やっと、あの時みたいに、四人で楽しく過ごせると思ったのに」

 涙をぬぐうでもなく、那美はぽつりとそう言った。その声は、誰に向けたものでもなかった。

 克之丞は無言のまま、那美の肩にそっと手を回し、庵の中へと導いた。


 慶応三年(一八六七年)十二月九日。

 野州黒羽藩一八〇〇〇石藩主・大関増裕、享年三一。

 歴史は人々によって紡がれていく。今も昔も変わらない。歴史の大事件の裏で、今この時に生きる人々にも大小問わず事件は起きている。

 この日、京都で日本の歴史の転換点となる事件が起きていた。

『王政復古のクーデター』

 徳川幕府は完全に消滅し、これまでの朝廷の組織は解体され、日本の政治は、天皇を頂点とする新たな政府によって行われることになった。

 京都から遠く離れた黒羽藩。時代の変革の風が吹くのはもう少し先のことだろう。しかし、この時だったのかもしれない。克之丞と辰之輔。二人の進む道にずれが生じたのは……。


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