1-2 魂屋にて・前
「来てしまったわ……」
千鶴は立ち尽くしていた。
つつがなく申請を終え、逸る胸もそのままに人力車に住所を伝えてたどり着いたのは二階建ての商家に挟まれた路地庭だった。既に千鶴の背丈以上ある内開きの格子の門扉は開けられている。少し奥にひっそりと看板が立っていた。『魂屋』と屋号が見える。
ここで間違いなさそうだと思いつつ、何度も紙に書かれた住所と見比べる。路地庭は昼にもかかわらず薄暗く、奥に佇む軒先はやけに明るい。
固まった足を決意だけで動かし、門をくぐる。左右には丁寧に砂利が引かれ、真ん中に敷かれた平たい石畳は歩きやすい。二十歩もしないうちに軒先へとたどり着いた。
商家や民家としては一般的な玄関を前に、思い切って戸を引く。湿った土の匂いが鼻先をくすぐった。広い土間はがらんとして、冷ややかに千鶴を出迎えた。
「もし、ごめんください。帝都女学院から参りました、日登千鶴と申します」
中は静かだったが、直ぐに足音が響き始めた。オイルランプの火が揺らめき、土間の奥の硝子戸が開いた。
「やあ、やあ。よくぞお越しくださっ、た……」
現れた男の出で立ちは陰気だった。ポマードはつけている風だが髪を下ろしており、毛先が所々不自然に跳ねている。そのせいで目元を伺うことは難しい。そのくせ、妙に豪奢な片眼鏡などはめているのが不釣り合いだった。
草臥れた洋シャツの第一釦は外され、雑にくしゃくしゃにされた腕まくり姿はとても客人を迎えるに相応しくない。ズボンに折り皺を見つけることもできず、男の風体に千鶴は怯んだ。
「あ、あの、こちらは『魂屋』でお間違いありませんでしょうか」
「……」
出てきてすぐ動きを止めた男に、流石に良い展開を想像することはできなかった。
そして
「あー、そうだな。確かに人手を募った。一人」
男が後頭部を手で掻きながら、歯切れ悪く返事をする。千鶴はまた縁がなかったのかと内心肩を落としたが、気を持ち直すと、ひたと男を見つめた。
「詳しいことは口頭でとありました。せめて少しお話をお願いできませんか」
「ふむ……」
渋る仕草を見せる男に、千鶴は言葉を重ねそうになるのをこらえた。そして
「まあ、折角足を運んでいただいたのだ。他に誰も来るまい……。
お上がりなさい。流石に女人を土間に立たせたままでは据わりが悪い」
「は、はい。ありがとうございます」
ほっと安堵の息を吐き、玄関戸を閉めて言われるがまま上がり框へ腰を下ろす。ブーツの紐を解き、揃えると、待っていた男が玄関近くの硝子戸を引いた。
美しく磨かれた板の間には毛足の長い絨毯が敷かれ、革張りの立派な洋椅子が向かい合っていた。壁面には天井までびっちりと据え付けられた本棚があり、千鶴を見下ろしてくる。大きく部屋を占領する焦げ茶色は昼間でも部屋を暗く感じさせたものの、収められた本たちは適度に余裕を持たされ、一部は寛ぐように傾いていた。それら背表紙には外国語がずらりと並んでいる。
部屋の真ん中には手編みのレースを被った洋卓があり、見慣れない外国の品に千鶴は戸惑った。
先ほどは緊張で気づかなかったが、外の喧噪が妙に遠い。神社にでもいるかのようだった。
「どうぞお掛けください。……ああ、必要ならばこれをどうぞ」
言いながら、男はふかふかの座布団を洋椅子の上に置いた。
「鞄は洋椅子の足下に置くとよろしい」
おっかなびっくりといった様子で洋椅子に近づいた千鶴にそう言うと、男は彼女の正面の洋椅子に身体を預けた。
千鶴もそれに倣う。
「折角尋ねてもらったのだが、君は少し向かないな」
「そのことですが、理由をお聞かせ願えませんか。他の場所でもなかなかご縁がなくて困っておりまして」
「ふむ? ここは少々特殊ゆえ、他に通ずる瑕疵でもって不採用としたいわけではないが」
男は自分の頤を指先で撫でながら、言葉に迷った。
千鶴は逡巡のため唇を硬く引き結んだが、振り切るように口を開いた。
「ですが、一目見てお断りされることに納得がいきませんの」
「納得、か。僕の言葉で君が納得するとは思えないが」
「どうぞ遠慮なく仰ってくださいまし。女学生で噂話を申し上げる以上の条件がおありだったのでございましょう? でなければどうしてわざわざ帝都女学院に求人用紙を提出なさったのです」
当てこするような言い方になり、千鶴は一旦口を噤んだ。心の動きのまま、気まずさから男から目を逸らす。
一連の所作を見て、男は微かに首肯を繰り返した。
「女学生のアルバイトを募集している理由か。それは……」
千鶴の脳裏に友人たちの会話がリフレインする。
――若くてきれいな女目当てに決まってるわ。
つまるところ、この男は嫁を探して――
「彼女らが噂話の最先端を走っているからだ」
「……へ?」
思いがけない言葉に、それまで千鶴の胸を占めていた鬱屈とした気持ちは霧散した。
「女人は井戸端会議に始まり、噂話で社交をこなすだろう。流石にご婦人方のそれは地に足がついているものだが……君たち女学生は違う。奇談の類いも直ぐに広まるだろう」
「無責任だと仰りたいの?」
「その言い方は本質から逸れているな」
千鶴はじっと待った。男に戻した視線の先で、彼もまた千鶴を観察していた。片眼鏡越しの目は妙に威圧的に思われたが、よくよく見ると目が合わない。
「ひとつに、君自身に原因があるわけではない」
「……はあ、」
「君の後ろにあるものが遠因というべきか。そうだなあ……君、そう言うものと縁遠いだろう」
「そういうもの、と言いますと……」
「物の怪、妖怪、あやかし。あとは……幽霊とか。そういう『気』のものと」
納得がいかない顔をしているのを見てか、男は一旦中座を申し出た。
「わたくし、まだ諦められませんわ」
「そうじゃない。いつまでも何も出さぬわけにいかないだろう。茶を喫しながらでも話はできる」
焦る気持ちのまま食らいつくように声を上げると、宥めるような声色で男が言いつける。
千鶴は思わずピンと伸ばした背から力を抜いた。
「立つも座るも好きになされよ。この部屋と縁側ならば歩くもよしだ。厠は縁側伝いに角を曲がった最奥にある」
「あの、わたくしがお茶を淹れることもできますが」
「客人にそれはいけない。紅茶か緑茶、どちらがよろしいか」
「……で、では紅茶を」
「承った」
「お気遣い、ありがとうございます」
「なに、お手伝いさんの来る時間は決まっていてな。丁稚も所用で使いにやってしまったのだ。不便を掛ける」
「とんでもないことです」
奥へ引っ込んだ男を見送り、一人残される。それでも男の動く気配はするので、千鶴はほうと息をついた。
外からはさあさあと雨音が響いてくる。
はて、ここに来るまで雨の気配はなかったが。
首を傾げたものの、流石にこうなっては男も千鶴をたたき出すような真似はできぬだろう。一方で、自分自身も安易に逃げ出せなくなったことに一抹の不安がよぎる。日が遮られると室内はぐっと暗くなる。
目尻から闇に飲み込まれるようだ。
庭路地の暗さを思い出し、千鶴は小さく身震いした。