契約結婚のすゝめ
侯爵家から、婚約の打診が来た。
リリアンは父親を不思議そうに見上げて言った。
「…………え、お腹すいたんですか?夢でも見ました?妄想と現実がごっちゃになってもお金は降ってきませんよ」
「何て言い草だ。お腹はすいている」
口をへの字に曲げた父が、食卓につく。
ああ、やっぱりお腹がすいていて妄言を吐いたのだなと、ひどいことを思いながら、リリアンは父と弟と自分の分のスープを注ぎ分ける。
「わあ!今日はソーセージが入ってる!」
「そ、そうね。おいしそうでしょう?」
七歳になる弟の喜びの内容に、リリアンはちょっと遠い目をしたくなった。
食卓には、パンとスープと魚のムニエルが並ぶ。
別に普通の食卓だと思う。
思うが、貴族の食卓としては、貧しい。
そう、こんなにお腹を空かせているような家族に、スープを注ぎ分けているが、リリアンは男爵令嬢である。
弟、エイベル・セクスビー 七歳。父、ブレット・セクスビー男爵家当主。母は貧乏に耐えられず実家に帰ってしまったらしい。
耐えられないというほど貧乏でないとリリアンは思うが、生粋の貴族だった母には、耐えがたい生活だったのだろう。
元々、曾祖父の代に商売で成り上がった一代限りの男爵家だった。しかし、次の祖父の代にも引き継げるほどの資産があり、セクスビー男爵という貴族が続いてしまった。
しかし、祖父は、商売の才能は皆無だった。財産を食いつぶすだけ食いつぶした。それで諦めて平民になればいいものを、自分が潰したという実績が嫌だったようで、残った財産をすべてつぎ込んで、男爵位を購入。父に譲った。
その時には、平民になるつもりで勉強をしていたリリアンは、貴族になって、滅茶苦茶貧乏になった。
迷惑極まりない。
父は、それなりに商才があったのか、ぼちぼち商運営しているが、元手が0。信用も0からのスタートだったため、貧乏からはかなか抜け出せない。
いや、誓って言うが、平民だったなら、貧乏ではないのだ。
「いただきます!」
エイベルが嬉しそうに食べ始めるのを待って、父がもう一度同じことを繰り返す。
「侯爵家から婚約の打診が来たんだ」
「妄想じゃなくて?」
「とりあえず、結婚適齢期の令嬢がいる家、全部にあたっているらしい」
どんだけ乱れ打ちしているのか。
婚約者がおらず、健康な、侯爵家に来られる距離に住んでいる、結婚適齢期の令嬢に、声をかけまくっているいるという。
「嫡男は……そんなに……えっと……無理そうな感じ?」
下手な鉄砲も数うちゃ当たる戦法も、それはすごい。
侯爵家という高位貴族でも、そうしなければいけないほどなのか。
「いやあ?商売で会ったことあるが、なかなか美男子だったよ」
そんなわけあるか。
選ぶ立場だったら、そんな乱れ打ちするわけがない。
まして、うちに婚約の打診が来るのがおかしい。
「ただなあ。溺愛する平民の恋人がいるらしい」
――ああ、それね。
◇
と、いうわけで。お見合いに臨んでみた。
父の商会から持ってきたレンタルなドレスなので、既製品よりもさらにサイズが微妙にあっていないが、まあ、許容範囲だ。
恋人がいようがなんだろうが、結婚してお金を出してくれるならそれでいい。
貴族学校じゃなくてもいいから、エイベルを学校に通わせたいのだ。
初めて見た侯爵令息様は、サラサラの黒髪をきれいになでつけ、凛々しい顔つきの麗しい男性だった。
背が高く、鍛えているのか、見た感じで体がぶ厚い。
濃い眉の下の切れ長の瞳と大きな体は、威圧されれば恐ろしいかもしれないが、今は瞳を柔和に細め、丁寧に庭園までエスコートしてもらった。
一つ一つの所作、全てが美しい。
そして、段差や椅子に座るだけの動作にも、こちらを気遣ってくれる優しさを見る。
この方だったら、リリアンと同じことを考える令嬢がいてもおかしくない。
平民の恋人がいたっていい、と。
この美男子の妻になれるのならば、愛人の存在は目をつむろうとする貴族令嬢の方が多そうだ。
「打診をしておいて申し訳ないのだが、私は結婚する気はないのだ」
だが、彼はそんな願望を抱かせる前に、目の前には座らずに頭を下げた。
「聞いていると思うが、私には想う人がいる。その人と一緒になりたい」
(多分)勝手に婚約者候補を募られて、無理やりこの場に送り出されているだろうに、彼はリリアンに対してどこまでも丁寧に接してくれる。
打診した令嬢、全てにこの対応ならば、非常に時間を取られただろう。それでも、彼は、一人一人に謝罪しているのだろう。
「その人は平民だから、次代侯爵家当主の座を従兄弟に譲り、私は平民として生きていくつもりでいる」
「あら、まあ」
思わず、とぼけた相槌が出た。
そこまで覚悟を決めている相手の婚約者になれるなど夢見る人間はいないだろう。
リリアンの口調に苦笑して、もう一度「申し訳ない」と謝罪した。
「では、婚約者候補の方、全員に今の話を?」
「ああ。一応口止めをしていたが」
まあ、無理だろう。
断られたことを伝えるのに、理由は家族にどうしても話す。
その話は噂となって、社交界を駆け巡るだろう。社交界に縁のなかった我が男爵家は知らなかったわけだが!
「お見合いは今回で最後です?」
「ああ。……そう願う」
もっとも格下の家が順番的に最後なのは分かる。だが、諦めきれずに再度申し込んでくる家はあるだろう。家を出ようとしている息子を引き留めようと、その申し込みを家族が受け入れるだろうことも予想できる。
「では、私を雇いません?」
「え?」
リリアンは、非常にいい商売を思いついた。
「私を、婚約者にしましょう!一か月契約でどうです!?」
婚約期間ひと月ごとに定額を支払ってもらえれば、婚約者としてふるまうことを約束する。
彼には、平民の女性に似たリリアンにほだされたとでも言ってもらって、その間に家を出る準備をする。
家を出れば、貴族間の婚約など無いも同じ。
「いや、しかし、それでは、君に傷がつく」
それはいい!と乗ってきてくれると思ったのに、気遣われてしまった。
本当に優しい人だなと思う。
「大丈夫です。セクスビー男爵は父の代で終わる予定ですし、どちらにしろ、平民になる予定なので」
一度や二度婚約破棄されても、別に貴族の中でのこと。平民は貴族相手に商売する者でなければそんなに気にしていない。
彼の視線が揺らいで迷っていることが分かった。
迷う余地があるならば、是非にと押し通した。
金額も図々しく提示させていただいた。この契約だけでエイベルは学校に行けそうな金額だ。
「そのくらいの金額ならば、もちろん大丈夫なのだが」
そのくらいときた。なるほど。さすが高位貴族。資産が違う。
「では、どうですか?別に短期間でも婚約者として敬えとか言う気ないですよ?きちんと契約満了後はつきまとったりしませんし!」
リリアンがにこにこと勧めると、彼はとても迷っている様子だったが、小さく頷いた。
「大変、心苦しいが……もしも、その条件であなたが飲んでくれるなら」
「もちろんです!」
条件をのむと彼は表現したが、その条件を提示したのはリリアンだ。
彼が戸惑っているのをいいことに、結構な額を提示させてもらった。
こうして、リリアンは、侯爵令息の期間限定婚約者となった。
彼の結婚が成るまで。
ここで、お互いのことを知るために話し合いは必要だ。
「じゃ、とりあえず……名前教えてもらっていいですか?」
そういえば知らなかった。
彼は、目を瞬かせた後、くしゃっと顔を崩して「くくっ」と声を出して笑った。
貴族は声を出して笑うことはしない。
だけど、思わず声を出して笑うほど面白かったらしい。
「自己紹介もせずに失礼した。ローランド・オールドリッチだ」
その日、思った以上に茶会が楽しかったことは、内緒にしておこうと思う。
◇
「いらっしゃいませぇ」
ドアにつけた鐘の音に振り向くと、見覚えのある男性が緊張した面持ちで立っていた。
つい先日婚約したばかりのローランド・オールドリッチ侯爵令息様だ。
リリアンが働く食堂は、体力労働者が多く集まる場所で、彼の雰囲気は似合わないけれど、
よくここが分かったなと思って近づいていくと、硬い表情で彼は口を開く。
「仕事が終わったら話がしたい。いいだろうか」
「はーい。わかりましたあ」
軽く返事をしたが、ここまでわざわざやって来て話す内容とは。
嫌な予感しかしなくて、ため息をついた。
食堂の仕事は、夕方で終わりだ。
リリアンは帰ってから家族の夕食の支度をする必要がある。
店を出ると、ローランドが緊張した面持ちで立っていた。
そして、手には花束。
婚約者には花束持参でないといけない決まりでもあるのだろうか。そんな決まりがあるのだとしたら、エイベルのために花畑を作っておかなければいけない。花は食べられないくせに高いのだ。
彼の前に立つと、照れたように微笑んで、花束を差し出された。
「君に似合うと思って」
「まあ。ありがとうございます」
花が似合うと言われて別に嫌な気がするわけではない。ただ、大きさを考えて欲しかった。リリアンが受け取った花束は、なかなかずっしりと重たい。
このサイズを会うたびに持ってこられると正直困る。
……帰り際に、持ってくるなら食べ物にして欲しいと率直に伝えよう。遠回しに伝えられる自信がない。
「あの、話というのは」
花束を持ったまま、さらに店先に立ったまま話始められるのは困る。
彼の要求に対して、リリアンは対抗する必要があるはずなので。
「お話、長くなりませんか?馬車に乗せていただけますか?」
少し離れた位置に停められている馬車があるのは確認済みだ。
というか、侯爵家所有の立派な馬車は、この界隈で非常に目立っている。
リリアンが馬車を示したことで、目を丸くして驚くほどのことではないと思うのだ。
できれば、一日中働いて疲れたので、話のついでに家まで送ってくださるとありがたい。
「あ、ああ。では、馬車にいいだろうか」
そして、たどたどしく手を差し出された。
何故にこんなにも挙動不審なのだろう。不思議に思いつつも、疲れているので、座れるのなら座りたい。花束も置きたい。
「でっ、では、こちらに!」
馬車の扉を開けて誘導された。
所作は美しいが、ぎこちない。随分緊張しているみたいだけど、大丈夫だろうか。
手を借りて乗った馬車は、素晴らしかった。
広い車内とふかふかのクッション。目の前には小さなテーブルがあって、飲み物が出てきそうな感じだ。座席の上に大きな花束も置かせていただく。
馬車の中で向かい合わせに座り、リリアンは声をかける。
「はい。では、お話をどうぞ」
「あ、ああ。そう促されると言いにくいのだが」
ローランドは視線を自分の手元に向けたまま、なかなか話し出さない。
しかし、リリアンには大体の見当はついている。
わざわざ職場まで調べて、リリアンの働いている時間に来たのだ。
侯爵家の婚約者とあろうものが。という話だろう。
だが、契約婚約者だし、そんなことを言ってもいいものかどうかと考えてくれているのだろう。
リリアンは困ったなあとため息をつく。
「食堂で働いていることについてですよね」
やはり、対外的に侯爵家嫡男の婚約者が外で働いているなど、醜聞でしかないだろう。
ばれないと思っていたのだが、意外と早くばれてしまった。
「すみません。突然やめることもできなくて。一度やめてしまうと、契約後にもう一度同じ条件で働くというのが無理かもしれないんですよね」
リリアンだって少しは考えたのだ。
婚約者としてふるまうと約束したのだから、普段もそうすべきではないかと。
でも、婚約解消後の生活に不安をきたしてしまう。
新しい仕事が見つからなかったらどうするのか。結局、エイベルを学校にやることが出来なくなるではないか。
「は?」
ぽかりと、ローランドが間の抜けた声を発した。
「どうしてもやめた方がいいっていうのであれば、契約期間だけ働いてくれる別の人を紹介していただいて、契約後は、私が元に戻るとかどうでしょう?」
「契約って……」
「そんな都合のいい方いないですよねえ?」
この話、受けるのは無茶があったか。うーんと首をかしげるリリアンと一緒に、目の前のローランドも首をかしげる。
「何を言って……?」
話が分かっていないようなローランドを見て、リリアンは目を瞬かせる。
「あら。契約の話ではなかったのですか?婚約をしている期間だけでも仕事を休んで欲しいと言うような」
そうではなく、ただ会いに来ただけならば、大歓迎だ。馬車での送迎はラクチンで助かる。
「婚約……」
ローランドが初めて聞くように呟く。
「はい。ローランド様が恋人と結婚するまでの間の契約婚約です」
「り……リリ、アン?」
「はい?」
目も口も丸く開けたまま、ローランドが固まった。
どういう反応だ、これ?
なんだろうと思いつつ、彼が動き始めるまでのんびり待つことにする。別に急いで帰らなくても夕飯には十分間に合う。
と、思っていたら、突然、彼がひざを折って頭を下げた。
「結婚してください!」
「――はあ?」
◇
ローランドは、侯爵家という高位貴族の一員として、その地位を継ぐものとして、厳しく育てられてきた。
権力に溺れるな。財は領民のためのもの。ローランドのすべては、貴族の義務を果たすためにある。
幸いなことに、ローランドは頭がよく、運動神経もよかった。
剣術で体を鍛え、領を運営するために力を身につけた。
大変ではあったが、それはこの家に産まれ、恵まれた環境を享受できる者の義務だと、幼いころから植え付けられていた。
必要なことは家庭教師から学び、交友関係を広げるために、一年だけ学院に通うことになった。
同じ年頃の友人との交流は楽しかった。
そして、それが、ローランド自身が世間知らずだと気が付いた要因でもある。
「ローランド、市に行ったことないの?」
「話には聞くが、自分では見たことがない」
王都では、月に一度、市が開かれる。
国中から、隣国周辺諸国から集まった商人たちが露店を立てるのだ。
余りものを大安売りしたり、まだ広まっていない品物が買えたりと、毎月大勢の人でにぎわうのだとか。
しかし、ローランドが参加することは許可されてなかった。
侯爵家嫡子。厳しく育てられてはいるが、両親はそういうところは過保護だった。
ローランドが居なくなれば、侯爵家を継ぐ人間がいなくなる。
だからこそ、護衛はいつも近くにいたし、危険だとわれるところに行くこともできなかったのだ。
「一緒に行こうぜ!案内してやるよ」
友人から誘われたときは、戸惑いが大きかった。
学院に在籍している間は寮に入り、監視の目は少ない。だが、そんなことを利用して、いけないと言われていることをするなんて。
「ああ。市は珍しいものもあって楽しいが、何より庶民の暮らしをじっくりと見られることがいいよ」
「そうだな。彼らの暮らしを見ることは勉強にもなる」
大人が聞けば、市など華やかな場所に行って、そこで庶民の暮らしの何が分かるのかと、呆れることだろう。ただ楽しみたいだけの詭弁だ。
しかし、ローランドはその理由に頷いた。
領民の暮らしとはどういったものなのか、実際にこの目で見てみたいと思っていたのだ。
初めて訪れた市は、端が見えないほどの賑わいで、知らず高揚する。
「お前……。なんて格好で来るんだよ」
「え、何かおかしいか?」
いつも通りの格好だ。侯爵家嫡男としての。
「こういうところに来るときは、平民の服を着て来いよ!悪目立ちするだろ!?」
友人たちは、いつもの美しく刺繍が入った上着を脱いで、簡素なシャツ一枚に暗い色のズボンをはいている。
「そうなのか。すまなかった」
素直に謝るローランドに、ため息をついて上着だけでも脱ぐように伝えられる。
「金持ちの物見遊山と、その従者って設定だ。いいな?これから俺たちは、お前を若様って呼ぶ」
「若……」
友人に呼ばれるのは非常に違和感のある響きだが、仕方がない。
言われて気が付いたが、本当に目立っている。
ローランドは、その地位と見た目の良さのせいで、視線を集めるのに慣れすぎていた。
「まあ、仕方がないですね。若は箱入りなんで」
「そうですな。初めての散策ですから。箱入りだから」
からかわれながらも、ローランドは市を楽しんだ。
――のだが。
明らかに上等な服を着た一人と、年若い……というか、学生の二人。
スリの格好の餌食になるのは当然だった。
そして、それに気が付かないまま、食堂に入って食事をしてしまった。
とてもおいしくて、いろいろと注文して食べ終わった後のことだ。
「はあ?金がないぃ?」
「次に来るとき、必ず持ってくるから……」
「次って?今から一人戻って取ってくればいいだろう」
寮に戻ったころには、門限になる。そこから出るとすれば、理由が必要だ。
金を持ってきてもらうにも、家人に理由を伝えることが出来ないから、無理だ。
「ら、来週には……」
「ぼっちゃんがた、ふざけてんのか?金も持たねえで遊びに出て、食うだけ食って踏み倒そうっていうのか?」
あり得ない疑いをかけられている。
ローランドはもちろん、一緒にいた二人も呆然としていた。
少し町歩きをしたことがあるだけで、一緒にいる二人だって、ただの貴族の令息なのだ。
こんなとき、どうしたらいいのかなんて分からない。
「そんなことはない。絶対に返しに来る」
そう言うものの、その保証なんて立てられない。
「はあん?だったら、そのお高そうな服でも置いて行けよ。金を払いに来たら返してやる」
ローランドの着ていた服であれば、ここの支払いなんて微々たるものだ。
支払いをそれでしろと言わない店主は、良心的だった。
「そ、それはできない。すまない……」
しかし、彼は侯爵家嫡男としての服を着てきていたのだ。
侯爵家の紋章が刺繍で入っている。
貴族を相手にしたことがない人には気が付かれないだろうが、その紋章が付いた服であれば、様々なことができてしまうのだ。
侯爵家の紋章は、着ているだけで、王城にも入れてしまう。
そんな代物を置いていくなんてできない。
せっかくの譲歩も断られて、店主の眉間のしわがさらに濃くなる。
「おまえらなあ~~!」
大きな声を出されたところに、のんびりと声がかかる。
「店長~。多分、その人たち、スられたんだよお」
自分よりも2~3個下であろう少女が、厨房から顔を出していた。
頭に三角巾をかぶって、こんな少女がさっきのおいしい料理を作ってくれていたのかと、ローランドは状況を一瞬忘れて彼女に見とれた。
「いいとこの坊ちゃんじゃなくて、貴族様だと思うよ。その服、盗まれたら大変だから、預からないほうがいいと思う」
しかも、博識なようだ。
貴族の紋章に特別な権限があることを、使わない人にはあまり知られていない。
「そうなのか?ってか、スリに遭ったのか?」
さっきまで眉間のしわが濃くなるばかりだった店主の眉間のしわが緩む。
「あ、はい……。おはずかしながら。財布がないことに、さっき気が付いたばかりです」
「そうなのか」
店主が困ったなと言わんばかりに首を曲げて、頭をかく。
何もなしに解放できないのだろう。
こちらも、預けられる何かを……と必死で探している間に、ひょいと女の子がカウンターに割り込んでくる。
「私が貸してあげる!」
「リリー!」
「うふふ。来週でしょ?一週間で一割利子もらうわ。それでいいなら、貸してあげる!」
一週間で一割。
高利貸しも真っ青な利率だ。
「返しに来ないかもしれない危険手当も入れてるんだもの!」
胸を張っているが、返しに来なかったら、その危険手当も受け取れない。
そうなると、交渉の仕方が間違っている。
どうしようかと思っていると、女の子はちらりとローランドを見てにんまりと笑った。
「まさか、かわいい女の子が一生懸命働いたお金を貸すんですよ?紳士たるもの、踏み倒したりしませんよね?」
彼女の表情で、全て計算なのだと分かった。
一割増の金額を受け取れる気満々だ。
「もちろんだ。必ず返しに来る」
ローランドは力強く約束した。
「やった!臨時収入!」
彼らが返しに来ることをひとかけらも疑っていない彼女の表情に、ようやく店主も表情を緩めた。
もちろん、ローランド達もだ。
これが、彼女とローランドの初めての出会いだ。
この後、たくさん学んで、どうやったら街に溶け込むのか、試行錯誤の毎日。
お金を返すときは認識してくれた。しかし、その後にしっかりと平民の服を着こなして訪れた時には、笑顔だけを向けられた。その時は嬉しかったのだが、その後、何度食堂に行ってもリリーの反応は同じ。
あれ、実は認識してもらえてない?なんていう嫌な予感が頭をかすめるけれど、あんな印象的な出会いをしたのだ。そんなわけないと思う。
きっと、ローランドの溶け込み方に感心してくれているに違いない。
だけど、もっと特別勘が欲しくて、自分を覚えているかと、わざと声をかけたりしてみた。
「はいはい。覚えていますとも。今日のおすすめを頼んだ方ですねっと」
――扱いがひどく雑だった。
仕事中は注文以外のことは受け付けてくれない。
待ち伏せてみたこともあるが、どこから帰るのか、会えたことがない。
店以外の場所でも見かけない。
彼女のことが分からなかった。
だけど、在学中から卒業してからも、3年間通い倒して、ようやく決意した。
正面から告白する。
ローランドは侯爵家嫡男だったが、本当に他に継ぐ人間がいないわけではない。
父の弟の息子であれば、ローランドの代わりに侯爵家を守ってくれる。
もう、結婚相手は彼女以外考えられなかった。
この3年間で、庶民の暮らしは覚えた。侯爵家から出ても収入が途絶えないように、会社も興した。家も準備した。家族も説得中だ。
後は、リリーがこの腕の中に来てくれるだけ。
そんな中だった。
母が、勝手に適齢期の令嬢に婚約の打診を行ったのだ。
婚約者候補だという令嬢たちが、連日我が家に訪問を始めた。
そんなもの関係ないと無視しようとしたけれど、呼び出された令嬢はどうなる?
婚約者にと打診したのは我が家だ。
そうして訪れてくれたのに、嫡男が逃走したなんてことになれば、ローランドではなく、令嬢の方に傷がつく。
侯爵家は高位貴族なのだ。
そちらを嘲るよりも、『嫌がられて』『逃げられた』令嬢を貶める方を社交界は選ぶだろう。
何の罪もない令嬢に瑕疵をつけるわけにはいかない。
だけど、彼女たちに期待を持たせることもできない。
ローランドは一人一人にしっかりと説明した。
自分は平民になる気だと。
そして、平民の恋人がいると。
……少々先走っているが、まあ、誤差の範囲だ。もうすぐ恋人になる予定だし。
令嬢は、みんな驚いて、泣いて、怒って帰っていった。
最後だと聞いてやってきたのが、男爵令嬢、リリアンだった。
少しだけサイズの合わないドレスを着た彼女は、どこかリリーに似ていた。
堂々と歩きながら、庭園に見まわして楽しそうにする様子は、リリーもここを訪れたらそんな表情をするだろうなと思った。
リリアンを見ていると、リリーを思い出す。それどころか、リリアンとリリーを重ねて見そうになって、それは絶対にしてはいけないことだと自分を厳しく戒める。
どちらにも失礼なことだ。
だから、楽しそうな彼女には悪いが、お茶を楽しむ前に断りの文句を口にした。
「私は平民として生きていくつもりでいる」
ここまで告げた時、泣かれるだろうと思っていた。
「あら、まあ」
のんきな相槌が返ってきた。
リリアンは、貧乏な男爵家で、そもそも侯爵家に嫁ぐ気はなかったようで、ふわふわと笑ってくれた。
その上、ローランドを気遣った提案までしてくれたのだ。
「では、私を雇いません?」
リリアンから提案された内容は、とてもありがたいものだ。
周囲の目をごまかしながら、リリーへのアプローチの時間と、結婚にむけての動きができる。
しかし、簡単に受け入れてしまうには、貴族令嬢にとって失うものが大きい。
「では、どうですか?別に短期間でも婚約者として敬えとか言う気ないですよ?きちんと契約満了後はつきまとったりしませんし!」
そんな心配をしていないと首を振ると、リリアンははにかんだように微笑んだ。
こんな突拍子もない提案など、本当にリリーを思い出す。
もう少し話をしてみたいと思った。
リリーを愛しているのは変わらない。
だけど、リリーがいなかったら、きっと、ローランドはリリアンに恋をしただろうと思ったのだ。
リリアンと婚約に向けて動いている。
両親が……特に母が歓喜している。
そんな家族を裏切る行為をしていることに罪悪感を抱いているが、もう引き返せない。
ローランドは、リリーが働いている食堂へ、貴族としての装いのまま訪れた。
「いらっしゃいませぇ」
のんびりしたリリーの声がかかる。
リリーがローランドを見て、ぱちぱちと瞬いてから首を傾げた。
いつもと違う格好だから驚かれただろうか。
ローランドは、周囲からの視線を無視して、リリーに近づいた。
「仕事が終わったら話がしたい。いいだろうか」
貴族の姿だ。平民はまず断れないことを分かっていて、お願いしている。
ずるいことだが、まず、彼女と二人で話して、お互いのことをよく知っていきたい。
などと、緊張で全身に力が入るローランドに、リリーは不思議そうに首を傾げた後、のんびりと返事をする。
「はーい。わかりましたあ」
え、それだけ?
困ったような表情も、怯えたような表情もないし、嬉しそうな様子も見せない。普通のことを言われたような態度だ。
あれ?
夕方、店の前で待っていると、リリーが普通に出てきた。
いつもは裏から店長の自宅を通って帰っているので、店から直接出ることはないのだという。
そして、当たり前のようにローランドのエスコートを受ける。
慣れてる?
まさか、貴族からエスコートされることに慣れているなんて。
――落胤――愛人――使用人――
あらゆる可能性が頭の中を駆け巡るけれど、全てを否定する。
いや、そんなわけがない。
だったらなぜ。
「すみません。突然やめることもできなくて。一度やめてしまうと、契約後にもう一度同じ条件で働くというのが無理かもしれないんですよね」
「は?」
突然、意味の分からない人生相談?の話になった。
というか、リリーがこの店をやめる?やめたらどこで会えるかわからなくなる!
「どうしてもやめた方がいいっていうのであれば、契約期間だけ働いてくれる別の人を紹介していただいて、契約後は、私が元に戻るとかどうでしょう?」
止めようとするが、彼女が言っていることの意味が分からない。
何を言っているかわからないと言えば、今度はリリーが意味が分からないという表情になった。
「あら。契約の話ではなかったのですか?婚約をしている期間だけでも仕事を休んで欲しいと言うような」
「婚約……」
だれと、だれが。
リリーと、ローランド?いや、ローランドは、今リリアンと婚約を・・・・・・。
「はい。ローランド様が恋人と結婚するまでの間の契約婚約です」
「り……リリ、アン?」
「はい?」
先日あったばかりの婚約予定の女性の名前を呼べば、普通に返事をされた。
リリーはリリアンだった。
さっきの解答。
リリーも貴族だから、エスコートに慣れている。だったのか。
「結婚してください!」
「――はあ?」
考える前に、叫んでいた。
◇
場所を移したいと言われ、侯爵家までやってきて、のんびりお茶をいただくことになった。
なんと、父と弟には、きちんと夕食を届けてくれるらしい。
「え、平民の想い人って・・・・・・」
「君だ・・・・・・」
ローランドはソファーに深く座り、両手で顔を覆ってうなだれている。
――平民の恋人が、私?え?
「恋人って聞いていましたが」
「なる予定だ」
間髪入れずに返事がきた。
なる予定って。リリアンにはその予定は聞かされていないのだが。
「断られる選択肢がないって」
普通に引く。
「口説き落とそうと」
はあん?
「この財力と顔があれば、平民の女など簡単になびくだろうと思っていたってことですか?」
ローランドの頭が膝より下がって手が頭を抱えた。
「そ……んなこと、考えてないと思っているが、無意識にそういう行動に出ているってことだよな……。そうだな……」
ずぶずぶとどんどん頭が下がっていく。
身体柔らかいな。
「じゃあ、契約金、なしですか?」
意外とあてにしていたのに。「もしかしたらエイベル、学校いけるよ!」と昨日、話してしまったというのに。
残念がる弟の顔を思い浮かべていると、目の前の男がぱっと顔を上げた。
「――そうか」
しっかりと顔を見て、その顔が喜びに輝く。
「そうだ……君と結婚するまでは、契約は終わらない」
「はい?」
「契約は、『私が想い人と結婚するまで』だ」
「恋人と、でしょう!?」
「恋人などいない!想い人だ。リリアンと結婚するまで、私たちはずっと婚約者だ」
それって、普通の婚約者!
「契約が切れるときは、君は私の妻!」
「ちょっと!?」
「リリー!愛している!結婚してください!!」
「えええええぇ!?」
◇
そんなおかしな過程を経て、リリアンは侯爵家へ嫁に来た。
ローランドは、リリーに会いたくて、3年間食堂に通い詰めたらしい。
へえ……。
あの食堂は、客が回るのが早い。夜はそうでもないが、お昼時は客の顔なんて見てられない。ものすごく迷惑な客は覚えるが、基本、常連だとしても覚えていない。
いや、店員によっては覚えている人もいるが、私は覚える気がなかったもので。
初耳だと返事をしたら、涙ぐまれた。
アピールをされていたらしい。
食堂に来るときの格好をしてもらったが、なるほど。分からない。
まあ、相手の格好が変われば分からなくなるってことで、お互い様だと思う。
侯爵夫人なんか絶対無理だと説得して、ローランドの予定通り、従兄弟に侯爵家を継いでもらい、彼は侯爵家が保有する爵位の一つ、子爵となった。
従兄弟からは、自分が子爵の方がよかったと会うたびに嘆かれている。貴族令嬢と結婚したなら、継げよ。と。
それはちょっと無理かもしれない。
リリアンはそっと目を逸らして、のんびりとお茶を口に運んだ。