8 元婚約者の主張
「……悪い。無断で触れた」
「い、いえ。お気になさらず」
「男に触れられるのは嫌いだっただろう」
腕にじんわり残った、シルヴァ様の指の感触と体温。
あなただけは違うんです、と言いたいけれど、その言葉はグッと飲み込んだ。
「ところで決闘の日時は」
「え? あの、来週の土曜の正午です」
急に話題が戻った。
「そうか。見に行く」
「! ほんとですか!」
「近くには寄れないが、離れて応援する分には問題ないだろう」
「ありがとうございます。嬉しいです……! がんばります!」
思わず笑みがこぼれる。
すごく嬉しくて、たぶん満面の笑みになっただろう。
シルヴァ様が応援してくださると思ったら、めちゃくちゃやる気が出てくる。
だけど笑ったら、唐突にシルヴァ様は顔をそむけてしまった。
「? どうかしました?」
あちらを向いたまま、手で顔の下半分を隠すように覆っているシルヴァ様に尋ねる。
「……あ、いや、不意打ちを食らっ……」
「不意打ち?」
「何でもない。本当に」
「?」
しばらくあちらを向いたままでいたシルヴァ様は、少しずつゆっくり、目線をこちらに戻した。
「……みんな、一体どこをどう見たら、君が悪女に見えるんだろうな」
「? 見えないなら良いのですが」
……リーン、ゴーン……。
それ以上訊くなとでもいうように、図書館の外から時計の鐘の音が響いた。
「悪い。そろそろ時間だ」立ち上がるシルヴァ様。
「はい。話を聞いてくださってありがとうございました」
私はお見送りについていく。
出ていくときシルヴァ様は、軽く振り向いた。
「がんばれ。でもあまり無茶をするな」
「ふふっ。よろしくお願いします」
こちらに小さく手を振って図書館を出ていく長身の背が、見えなくなるまで見送った。
やっぱり、シルヴァ様と一緒に居るのは楽しい。
楽しいと思うことだけは許してほしい。
(さて。私も資料を借りて帰ろう)
と思ったところで……。
背後から、背筋が冷たくなるような視線を感じて振り向いた。
予想通り、美しい顔でこちらをにらみつけていたのはアナスタシア様だった。
珍しく、取り巻きを誰も連れていない。
ゆるいウェーブで優雅にきらめく金髪を揺らし、こちらに近づいてくる。
「……なんですか?」
「警告したはずよ。シルヴァ様まで誘惑したら、ただではおかないと」
「お話ししただけですよ。これだけ人のいる場所で。何も起こるはずないでしょう」
「あなたのような女性が毒牙にかけていい人ではないのよ、あの方は」
柳眉を逆立ててアナスタシア様は決めつける。
「他の人にはともかく、あの方に魅了魔法はきかないはずよ。それを……一体どうやったというの」
つい、はぁ、と溜息をついてしまった。
「……だからそんな危ない魔法、軽々しく使えるわけないでしょうが」
「は?」
「というか、あなた方は、どうしてそういう色恋の方向ばかりお考えなんですか。
シルヴァ様のお人柄を信じていらっしゃらないのですか?
理不尽な決闘を仕掛けられた後輩を、ただ慰めてくださったとはお思いにならないのですか?」
言葉を重ねながら、心が、白々と冷えていく。
昔シルヴァ様から聞かされていたアナスタシア様像は、聡明で公平で真っすぐで優しい女の子で、話を聞いているだけで憧れてしまいそうになるレディで……。
決して、噂で人を悪と決めつけるような人でも、よってたかっての嫌がらせを見て見ぬふりするような人でもなかった。
シルヴァ様が好きだった人を……もしかしたら今でも好きかもしれない人を、軽蔑したくないのに。
ピリピリした空気を感じたのか、すでに周囲の人が私たちを遠巻きにしている。
前宰相の娘で、次期国王候補の婚約者。
アナスタシア様の不興を買いたい人はいないだろう。
そして私とて、重要政治家の養女である。
「……忘れたわけではないのかしら。
シルヴァ様にはあなたでは駄目だということを」
「ご心配はご無用ですよ、王族令嬢様。分はわきまえております」
冷めきった口調で返すと、アナスタシア様の眉間の皺が、さっきよりも深くなった。
「そうよ。たとえ侯爵家の養女だとしても、あなたはただの貴族の娘。
王族ではない。臣下だわ。
そして王と臣下の結婚は、この国では貴賤結婚になるのよ」
このジェレマイア王国では『王族』と『貴族』(=臣下)は明確に分けられている。
オーリウィック家は名家といえど、臣下である。
そして我が国の法律はこのように定めている。
王位継承権保持者が貴賤結婚をした場合、王位継承権を剥奪すると。
前宰相ドラウン公爵、現宰相ウィール公爵はともに現国王陛下の従兄弟。さらにドラウン前宰相の妻は国王陛下の妹君だ。
アナスタシア様もマクシーナ様も法が定める王族にあたり、姫の称号も持っている。
ゆえに他国の王女に準じる存在として、王子の婚約者になったのだ。
この国では宗教上の理由で、いとこ婚・はとこ婚を禁じているけれど、王族に関しては貴賤結婚を避けるために近親婚が認められていた。
王室籍を剥奪されたとはいえ、シルヴァ様はまだ王位継承権を保持している。
この先、何か国の情勢が変われば……シルヴァ様はまた王室に復帰できるかもしれない。
うまくいけば王太子にだって戻れるかもしれない。
そうなれば結婚相手は国外の王族も視野にいれることが出来る。
だけど貴賤結婚してしまえば、その可能性もなくなってしまう。
シルヴァ様が王太子としてどれだけ努力していたか、今の私は知っている。
廃嫡と婚約破棄がどれだけシルヴァ様の心を傷つけたかも。
「わかっていると言っているでしょう。今日はずいぶん絡みますね」
「わかっているなら、なぜ昨日もシルヴァ様に送らせていたの?」
「見てたんですか。未練たらたらじゃないですか」
「なんですって」
眉をつり上げるアナスタシア様に、つい言ってしまった。
「そんなに気になるなら、どうして婚約破棄したんですか?」
……アナスタシア様は目を見開く。
シルヴァ様よりもわずかに濃い、ロイヤルブルーの瞳。最上級のサファイアの色。
従妹だけあって、瞳の色が似ているのが羨ましかった。
このとても綺麗な瞳を、かつてシルヴァ様は当たり前のように見つめていたんだろうか。
「……なぜ、あなたにそんなことを言われなければならないの?」
返ってきた声は震えていた。
王族や貴族の家では普通、当主が決めたことは絶対。
うちのように多少自由にさせてくれる家は少ない。
婚約破棄やセオドア殿下への乗り換えも、どんなに嫌でも父親が決めたことだから反抗しようもなかったんだろう。
わかってる。わかってるんだけど。
「…………失礼します」
これ以上会話をしていると、さらにアナスタシア様を傷つける言葉を吐いてしまいそうだ。
背を向けて、私はカウンターに資料を持っていく。
ずっとこちらを見ている視線を感じ続けながら。
***