5 【過去】父が死んだ日
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父一人子一人ではあったけど、優しい父に守られてぬくぬく育った私に、その日は突然訪れた。
私が十歳の誕生日を迎えて間もない初冬。
雪がちらつく日。
父は、毎年冬が近づくと貧民街にでかけていた。
家のない人たちや街頭売春婦や居場所のない少年少女たちに食べ物や毛布や日用品を配り、病気があれば診察し、治療していた。
それは単なる施しというわけではなく、感染症にやられやすい立場の彼らを診て、情報を得ることで、冬に流行する病気を予測して備えていたのだ。
病気や避妊などの注意喚起をしたり、子どもたちを教会の支援に繋げたり、将来や仕事探しの相談に乗ったりもしていたらしい。
その帰り道、父は見知らぬ男に刺された。
夜、いつもの時間を過ぎても父が帰ってこない。
不安がつのった私は、我慢できなくなって家を出た。
凍えそうな寒さの中、父が帰ってくるはずの道をうろうろ往復し、少しでもそれらしい人影がないかと目をこらしていた私のところに、父の仕事仲間の医師たちが血相を変えて走ってきたのだ。
(嘘……そんなの、嘘っ)
何かの間違い、人違いであってほしい。
祈りながら大人たちに連れられて向かう。
だけど、小さな教会に場所を借りて安置されていたのは……氷のように冷たくなった父だった。
いつも優しく微笑んでいた顔は、穏やかに眠っているかのようで。
でも、まったく血の通わない肌は、二度と目覚めないことを残酷なまでに物語っていた。
「……〈治癒〉」
もう死んでいるとわかっているのに。
脱け殻のようになりながら、父の身体にかけた治癒魔法。
反応は、ない。
「……〈深層治癒〉。……〈心臓再生〉……〈血の増幅〉……えっと、えっと、それから……」
父から教わった治癒魔法を片端からかける。
子どもなのに妙に魔力が強かった私は、時々魔法治療をお手伝いしては、筋が良いと褒められた。
なのに、いまはどれひとつ、父の鼓動を蘇らせてくれない。
「……〈脳の晴天〉……〈脳再生〉……う……」
父から教わった医療魔法すべてが徒労に終わった時、私の中で何かが切れた。
「……う……ぁぁぁぁあああああああっ! ……おとうさんっ……!」
止まらなかった。
「……おとうさん……! 起きてよ! おとうさん! なんで! やだよ、なんで……」
どうしてこんなに優しい人が死ななければならないのか、意味がわからない。
なんで。なんで。なんで。
もう会えないぐらいなら、父と同じところに行ってしまいたい。
泣き続けて、叫び続けて、どれだけ時間がたっただろうか。
あわただしい馬の蹄の音。
馬のいななき。人の声。それから教会の扉が開けられる音。
振り向けば、雪明りの中に浮かび上がるシルヴァ様がいた。
玉の汗。喘ぐような白い息が、靄のように漂う。
「……っ、先生はっ……」
うわずった声。
ひきつった表情で、ついてきた従者を置き去りにしそうな急いた足取りで、私と父のもとにやってくる。
「シルヴァ、殿下……」
涙を袖で拭うのが精いっぱいだった。
私のそばまで来たシルヴァ様は、もう永遠に物言わぬ父を痛ましげに見つめる。
「先生……どうして、こんな……」
唇を震わせ、うなだれる横顔。
下りた瞼、雫がほほを伝い落ちる。
シルヴァ様の涙を見た途端、またこらえられなくなって私は再び泣き出した。
亡くなったからといって、王太子殿下が一家庭教師のもとに駆けつけるなんて、ありえないことだ。
しかもこんな夜遅く王宮を出るなんて。
お悔やみの言葉を受け取り、ありがとうございますと言ってシルヴァ様をすぐにお帰しするべきだと、私も頭ではわかっていた。
だけど悲しくてたまらなくて、どうしようもなかった。
シルヴァ様は私が泣き止むまで待ってくれていた。
ただただ、床に崩れ落ちて泣き続ける私の隣にいてくれた。
ようやく嗚咽が収まり、息が落ち着いてきた私に、シルヴァ様はおっしゃった。
「謹んでお悔やみ申し上げる。
本当に残念でならない。
オーリウィック先生は、俺にとってとても大切な先生だった。
こんなことで、命を奪われるなんて……」
「も……もったいないお言葉、ありがとうございます」
「犯人はもう拘束されているそうだ。きちんと法で裁かれて、厳罰に処されるはずだ」
すでに犯人のことは聞かされていた。
仕事帰りに酔って魔が差して、強盗するつもりが誤って刺してしまったのだとか。
普段の父ならそれでも治癒魔法を自分にかけられたはずだ。
そうできなかったなら、魔力切れだったのだろう。たくさんの人に、一生懸命医療魔法をかけていたのではないか。
そのせいで自分が命を落としてしまうなんて。
「……ありがとう、ございます……」
父は私のところにもう帰ってこない。
憎い犯人が縛り首になったって、気が晴れたりなんかしない。
けれど、それでも伝えてくださったのはシルヴァ様の優しさだろう。
もうこれ以上この人をここに縛り付けてはいけないと、なけなしの理性が私にささやいた。
「もう、大丈夫です。シルヴァ殿下」
「え?」
「王宮の皆様も……きっとアナスタシア様もご心配されるでしょう。早くお戻りになって、皆様を安心させてあげてください」
婚約者様の名前を、あえて口にした。
自分自身に言い聞かせ、線引きするためだ。
この人は私が頼っていい相手ではないと。
シルヴァ様は将来国王になるお方だ。
その隣には、国母になる女性が立つ。
王族でもある公爵令嬢アナスタシア様とは政略結婚でありながら相思相愛。
これ以上ないハッピーエンド。それでいい。
私の不幸は、私一人で背負うべきものだ。
「いや」
シルヴァ様は首を横に振った。
「あと少しで、オーリウィック侯爵家から人が来るはずだ。それまではここにいる」
「……? 父は祖父に絶縁されていたのでは?」
「今は代替わりしている。君の力になってくれるよう、俺からも口添えする」
「いや、でも……」
「先生は俺に言った。もしものことがあればメリディアナのことをお願いします、と」
「……お父さんが……?」
「俺にとっても君は大事な友達だ。できることには限りがあるかもしれないが、それでも、君を一人にはしない」
侯爵家の人々には会ったこともない。
不安を感じながらも、私を案じてくださるシルヴァ様の優しさがじわりと胸に落ちてきて、気づけばまた涙がボロボロと止まらなくなってしまったのだった。
***
伯父オーリウィック侯爵の取り仕切りで何とか父の葬儀を終えることができた私は、まもなく侯爵家に引き取られ、十歳にしてまったく新しい世界で生きることになった。
右も左もわからない、平民とは全く違う道理で動く、貴族の世界。
幸い、義父も義母も惜しみなく本や教育を与えてくれたので、とにかく勉強して勉強して勉強して勉強した。
それまで魔法といえば父が教えてくれた医療魔法しか知らなかったけど、大人が通う魔法訓練場に行って必死で練習した。
元々、魔力量が多い、とか、私の魔力は特殊だというのは父から聞いていた。
魔法の腕を磨けば、魔法が使えないシルヴァ様の助けになることもあるはず。自覚した恋心は死ぬまで隠し通すつもりで、鍛練し続けた。
二年後。私が学園の中等部に入学した年。
王宮の権力闘争の結果、宰相が交代した。
自分の娘を王妃にしようと企んだウィール公爵が、政策的に対立するシルヴァ様を目障りに思う重臣たちと結託し、さらに魔法省や宗教勢力まで取り込んで、宰相の地位を奪い取ったのだ。
同時に、第三王子ルーク殿下と娘のマクシーナ様との婚約成立に向けて動き出す。
アナスタシア様の父であるドラウン公爵(前宰相)の派閥の力がグッと弱まり、王宮の勢力図がガラリと書き換わる。
そして『魔法が使えない』という産まれた時からわかっていたハンデを理由に、シルヴァ様は集中砲火を浴び、成人となる十六歳の誕生日を迎える前に廃嫡に追い込まれた。
それでも前宰相ドラウン公爵は、娘のアナスタシア様を王妃にすることをあきらめなかった。
さっさとシルヴァ様に見切りをつけたドラウン公爵は、廃嫡決定のその場で、シルヴァ様とアナスタシア様の婚約の破棄および第二王子セオドア殿下との婚約を国王陛下に要求。
シルヴァ様はこの日、次期国王としての将来と、王子の身分と、婚約者を一度に失ったのだった。
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