閉店間際のお客様
焼きたてクロワッサンが食べられる『三日月亭』は、午後七時に閉店する。
夕方から夜にかけてはテイクアウトしていくお客様が多いので、高校生になる店主の娘が学校帰りに店へ立ち寄り、接客の手伝いをしている。
大体、六時を過ぎる頃には客足もまばらになる。
そうすると、マスターは娘を一足先に自宅へ帰らせて、閉店の準備を始める。
この日も娘のヤヨイを先に帰らせたマスターは、売れ残ったクロワッサンを数個ずつ袋に入れて、翌日のサービス品として提供するために、レジの横にあるワゴンに並べていた。
すると、カランカランと入り口の扉に取り付けてある鐘が鳴り、疲れ切った顔をしたスーツ姿の青年が店に入ってきた。
「まだ、開いてますか?」
弱々しい声でマスターに尋ねる青年の顔は、ちょっと心配になるくらい青ざめていて、お人好しのマスターは放って置けない気持ちになった。
「大丈夫ですよ。テイクアウトも出来ますし、お時間があれば、こちらで召し上がっていただくことも出来ます。もしよろしければ、明日の日替わりランチに出そうと思っている『ローストポークのクロワッサン・サンド』を召し上がっていきませんか? 今なら閉店間際の特別サービスで、ドリンク付きの五百円でご提供できますが」
マスターの営業トークに圧倒された青年は
「じゃあ、それで……」
と消え入りそうな声で答えると、マスターに促されるまま、窓際のテーブル席へと座った。
しばらくしてから、ぼんやりと窓の外を眺めている青年のところへ、マスターが食事を運んできた。
「ドリンクは何にしますか? コーヒー、カフェオレ、カプチーノ、それからアイスピーチティーもご用意出来ますよ」
青年は少し迷った後
「それじゃあ、ブラックコーヒーをいただけますか?」
と注文した。
「アイスとホット、どちらになさいますか?」
「えっと……どっちでも大丈夫です」
青年の答えに、マスターは少し困った顔になる。
「いや、あの……手間がかからない方にしてもらえればいいなって思ったんですけど、どっちでもいいなんて言われたら困っちゃいますよね。すみませんでした。ホットでお願いします」
しどろもどろな説明をする青年に、マスターは穏やかな声で話しかけた。
「お客様は、優しいんですね」
そう言われた青年は、驚いたような顔でマスターの方を見る。
「優しい……ですか? そんなこと、言われたことないです。俺……気が弱いとか、優柔不断だとか、本音を言わないから何を考えてるのか分からないとか、そういうことしか言われたことがなかったんで」
そう言って、青年は乾いた笑い声を上げた。
「優しいですよ。こちらの負担にならないように気を遣ってくれているのが、言葉の端々から伝わってきますから。ただ、そんなふうに相手の気持ちに寄り添ってばかりいると、辛い思いをすることも多いんじゃないですか?」
マスターの言葉に、青年はボロボロと涙をこぼして泣き始めた。
「すみません。なんで俺、人前で泣いたりしてるんだろう。本当にすみません」
彼はずっと謝罪の言葉を口にしながら、涙を流し続けた。
「泣くのって、デトックス効果があるらしいですよ。たくさん泣いて、スッキリしちゃって下さい」
そう言って、マスターは彼が泣き止むまでそっとしておいてくれた。
しばらくして青年が落ち着くと、マスターはブラックコーヒーとプレーンのクロワッサン、それから小さな器に入ったフレーバー・バターをテーブルの上に並べた。
「もし良かったら、お食事を召し上がった後にこちらのレモンシュガーバターを味見してもらえませんか? 今、色々な味のフレーバー・バターを試作しているんですけど、事前にお客様から感想を伺えたら嬉しいな、と思いまして」
「いや、そんな……本当に、そこまでサービスしてもらうのは、さすがに申し訳なさすぎて……」
固辞する青年に、マスターが微笑みかける。
「試作品ですから、味見をしてもらえると私も助かるんですよ。ただし、嘘だけはつかないで下さいね。もしあなたが『美味しい』と言えば、私はそれを真に受けて、新メニューに加えてしまいますから」
「そんな! 俺には荷が重過ぎますよ!」
青年が心底困ったような表情で訴えると、マスターは笑いながら
「冗談ですよ。他の常連さんや従業員にも味見してもらうので、ご心配なく。でも、気を遣わずに正直な感想を聞かせてくださいね。では、ごゆっくりどうぞ」
と言って、カウンターの後ろに下がった。
青年は「ふぅ」と安堵の息を吐くと、目の前にあるクロワッサン・サンドに手を伸ばし、ゆっくりとした動作で食べ始めた。
ハニーマスタードソースのかかったローストポークサンドを堪能した青年は、ブラックコーヒーを飲んで一息ついた。
それから、プレーンのクロワッサンにレモンシュガーバターをたっぷりと塗り、大きな口を開けてかぶりつく。
「うまっ」
青年の呟きを、マスターは聞き逃さなかった。
「美味しいですか?」
「はい! 何かこう『スポーツで良い汗かいたぞ!』みたいな、すがすがしい気分になる味ですね」
青年の独特な言い回しに、マスターは一瞬きょとんとした顔をした後、大きな声で笑い出した。
大笑いされてしまった青年は、顔を真っ赤にしてうつむいている。
「いや、笑ったりしてすみません。意外と面白い人なんだなって思ったら、つい……。失礼な態度を取ってしまって、申し訳ありませんでした」
そう言いながらも、マスターの目はまだ笑っている。
「まだ笑ってるじゃないですか」
青年がいじけたような声を出すと、マスターは反省した様子で眉尻を下げた。
「いや、本当に申し訳ない。どうも私は笑いのツボが他の人と違っているみたいで、よく怒られるんですよ」
マスターがしょんぼりしてしまうと、青年は居たたまれない気持ちになったようで
「別に怒ってるわけじゃないんで、大丈夫ですよ」
と言って残りのクロワッサンを一気に頬張り、ブラックコーヒーをグイっと飲み干して席を立った。
「本当に五百円でいいんですか?」
何度も確認する青年に
「大丈夫ですよ。その代わり、ぜひまた食べに来て下さいね。うちはモーニングもやってますから、出勤前にお時間のある時は、ぜひ立ち寄ってみて下さい」
と言って、マスターは白い歯を見せた。
会計を済ませた青年が、扉を開けて店を出て行く。
その表情は、店に入って来たときとは比べ物にならないくらい、明るく溌剌としていた。