最初のお客様
カランコロンと入り口の扉に取り付けられた小さな鐘が鳴り、若い女性が店の中へと入ってきた。
ここは、街の裏通りにある小さなカフェ。
いつでも焼きたてクロワッサンが食べられる『三日月亭』の店主は、読んでいた新聞から顔を上げて
「いらっしゃいませ」
と本日最初のお客様に声をかけた。
「聞いてよマスター、朝起きたらまぶたがこんなに腫れちゃってて、コンタクトは上手く入らないし、肌の調子も最悪だし、今朝の私って、すっごいブスじゃない?」
マスターは彼女の顔をしげしげと見つめてから、こう言った。
「それで今日はメガネをしているんですね。メガネ姿もよくお似合いですし、いつもと同じくらい素敵ですよ。それより、まぶたが腫れるほど泣くなんて、何か悲しいことでもあったんですか?」
彼女はカウンター席の隅っこに座ると、ちょっと顔を伏せながら話し始めた。
「何だろう……自分でもよく分かんないんだけど、ただもう色んなことが重なっちゃって、限界がきちゃって、今まで何とかやり過ごしてきたことまで対処しきれなくなっちゃって、もう全部が……何もかもが嫌になっちゃった感じ」
「……そうですか」
一言そう呟くと、マスターは注文も聞かずに奥の調理場に引っ込んだ。
そして戻ってきた時には、ツヤツヤに輝く三日月型の焼きたてクロワッサンと、シナモンの香り漂うカプチーノをトレイに載せて、穏やかな笑顔と共にそれらをカウンターテーブルの上へと置いた。
「いい香りね」
彼女はカプチーノの入ったカップを手に取り、そっと目を閉じると、甘くてスパイシーな香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
それからカップのふちに口をつけ、ゆっくりと味わう。
一息ついて、重いまぶたを開けた彼女の目の前に、マスターが器に入ったホイップクリームのようなものを差し出した。
「何これ……生クリーム?」
瞳に当惑の色を浮かべる彼女に、マスターは柔らかく微笑んだ。
「これは、シナモンシュガーバターです。無塩バターにブラウンシュガーとシナモンを混ぜてホイップすると、ホイップクリームみたいにフワフワのフレーバーバターが出来るんです。お好みで、クロワッサンと一緒に食べてみて下さい」
「……私、プレーンのクロワッサンをそのまま食べるのが一番好きなんだけど……」
彼女は少し微妙な表情になったものの、マスターの厚意を無にするのも良くないと思い直したのか、クロワッサンの端っこの方に、ほんのちょっとだけシナモンシュガーバターをのせた。
そして、気の進まない様子で口へと運ぶ。
サクリと小気味良い音がして、三日月の先端が彼女の唇の奥と消える。
「あっ、美味しい」
思わず口から言葉がこぼれてしまったというような顔をして、彼女はマスターの方を見た。
「たまには、いつもと違う食べ方をしてみるのも、悪くないでしょう?」
マスターに言われて、彼女は素直にうなずく。
それから、残りのクロワッサンにもシナモンシュガーバターをたっぷりとつけ、サクサクとリズミカルな音を立てて綺麗に平らげた。
「ごちそうさま」
彼女は口元を紙ナプキンで拭うと、席を立って代金を支払い、颯爽と扉を開けて外の世界へと足を踏み出した。
「いってらっしゃい」
マスターの声を背に受けた彼女は、少しだけ軽くなった足取りで裏通りから表通りへと向かい、高らかに靴音を響かせながら、雑踏の中へと溶け込んでいった。