幸せの物語(仮) 結
それからのことは、さして語る必要はない。
僕は魔王になった。
たったそれだけのつまらない話をしても仕方がないだろう。
重要なのはただ一つ。
これまでの無為な数年を過ごしたのは、全てこの為だった。
今、彼女が僕の目の前に立っている。その輝かしい瞳で、僕を貫きながら。
「魔王。もう好きにはさせない。あなたはここで滅ぼす」
凜とした声はまさしく『彼女』のものだった。
ずっと、ずっと覚えていた、一瞬として耳から離れたことはなかった彼女の音に、体が震えるのが分かる。脳からつま先まで、全てが歓声を上げているようだ。
全神経が焼き切れんばかりに彼女を捉えて離さない。
「待っていたぞ、勇者。今日は良き日だ。貴様をこの手で殺すことが出来る」
僕は震える声を歓喜に変えて大仰に宣ってみせた。そうでもしなければ、愛に押し潰されてしまいそうだった。
正しく心を表すならば「君に殺されるから」
けれど、そんなことは口が裂けても言えない。僕は魔王だ。傲岸不遜で、人を塵芥の如く扱う魔族の王。何十年と続く理の一部。そのように扱われるし、そのように生きてきた。
勇者に仇なすのが本来の運命であり、世界の常識だ。表向きにそれを欠いてはいけない。
仰々しい口調も、多くを見下す眼差しも、その全てで勇者を陥れなければならない。
それ以上交わす言葉は無かった。彼女と僕は言わば正義と悪。当然のことだ。
彼女に疎まれていることを安堵する自分もいるし、それを寂しく思う自分もいる。もっと強い人間ならば、安堵だけを覚えたのだろう。弱い僕は隠すしかない。
彼女の剣が翻る。
一対一の戦闘において、大袈裟なビームは必要ない。鮮やかさも、美しさも、目を引く派手さも要らない。
必要なのは、より早く敵を穿つ技術だけ。確実に心臓を抉る覚悟だけ。
小手調べと言わんばかりに、互いの魔法が交差する。魔法は激しくぶつかり合い、四散した。同時に理解する。
魔王は負ける。僕が彼女を傷つけられないからではなく、仮に全力を出したとして、実力によって魔王は敗北する。
剣豪は、互いの所作だけで実力を把握するという。
それに近い理解だ。
これはとても喜ばしいことである。
悪よりも正義が強い。これ以上に正しい理はない。
この理が満たされているということは、世の中は美しく廻っているということなのだから。
同様の理解をしたのか、勇者が駆け出した。
空間を撹乱する魔法も、悪を切り裂く剣技も、そのどれもが最上の輝きを放ち、魔王を襲う。文字通り「決死」の覚悟で迎え撃つが、当然のごとく届かない。
煌々と照らす炎も凍える氷塊もなく、無骨な光が瞬いては消えた。光を捻じ曲げた幻影も視界を奪う霧も、勇者の輝きに覆い尽くされた。
それは一分か一時間か。
時間の感覚も置き去りにした戦闘は、気づけば終わりを迎えていた。魔法が四肢を焼き、剣が胸に突き立っていた。唯一魔王を死に至らしめる英雄の剣が、誉高く、心の臓に墓標を作り上げる。
その十字架の奥では、彼女が目を細めている。悪を断つという、至上命題を果たしたとは思えぬ、悲しげな瞳で。
きっと、哀れんでいるのだろう。このような結末を迎えることしか出来ない魔王という存在を。
彼女は、勇者になるには優しすぎる。英雄とは、最後に笑うものだ。立つ鳥跡を濁さず、と言うが、立つ勇者は跡に笑顔を残す。そんな存在であるべきではないのか。
ひとつ仕事が残っていた。彼女のこれからのために、出来ることがあるならば、それをしなければならない。
「き、貴様ごときに負けるなど...この私がこんな所で死んでいいはずがない!茶番は終わりだ、勇者。私を救え!欲しいものはなんだってやる。世界の半分でもいい。だから、この忌々しい剣を抜いて、私を救うのだ!まだ足りない。人を焼き足りない!絶望に歪む顔に満たされていない!」
叫ぶ。叫ぶ。
魔王は消えるべき存在だと、彼女がなしたことが正しいのだと、知ってもらわなければいけない。
彼女のためならなんだってしよう。心にもない嘘も湯水の如く吐き出そう。
悔いなく、絶望の顔で死んでいこう。
体が崩れていく。
生きとし生けるものに意味があるのなら、僕がこの世界に生まれたのは、彼女に心臓を刺し貫かれた時だったのだろう。そして、同時に終わりを迎えた。
意識が沈んでいく。
一度経験したからこそ分かった。今度こそ死に向かっていることが。深く深く落ちた先には、きっと地獄があるのだろう。魔王が天国に行くなんて、あまりにも馬鹿な話だ。
最期、君の顔を思い浮かべる必要はない。思いを馳せなかった瞬間など、無かったのだから。
僕はこのまま死ぬ。
これは、完璧な勝ち逃げ。僕が期待した結末。君は笑顔で人生を生き、僕は人知れず糧となる。これ以上に輝かしい結末はない。
君はどんな人生を送るのだろうか。想像もつかないけれど、きっと、笑顔でこれからを生きていくのだろう。
ようやく望み通りの最期を迎えることが出来た。
ご利益がありそうだし、死人の願いに効果があるのか分からないが、最期に願っておく。
どうかこれからの君に、幸せの物語を。