自走するベビーカー
やあ店長。ご無沙汰しています。なに、また「喫茶・恋南」のコーヒーが飲みたくなったんですよ。そう、ブラックで。良い季節ですねえ。アイスコーヒーが旨い。特に、運動後の一杯は格別です。
『また「一人で」来たのか』なんて言われましても。僕もね、誘ったんですよ? でも断られちゃった。
ここだけの話、最近、ちょっと夫婦仲がね……もういたたまれませんよ。世間様の苦労話を聞いても、うちだけは大丈夫、なんて思っていましたが、今度ばかりは自信がなくなってきましたね。もしかして僕もうっとうしく思われてるんじゃないかと思うと、昼も寝られなくなりそうですよ。
女性誌に載ってたんですけど、旦那から『ママ』って呼ばれるのを嫌う奥方もいるそうですねえ。『あたしゃ昇のママやってはいるがてめえのママじゃねえ!』ってなもんでしょうか。うちはママ派なんだけど、もしかしたら心の中ではそう思ってたりするんですかね。怖いから考えないようにしないと。
でね、今日も『ママ、良い天気だし、菖を連れてカフェに行こうよ』ってな感じで誘ったんですよ。そしたら、『じゃあ一人で行ってきたら』ときたもんですよ。悲しかったですよお。ここが家から近いのは差し引いても、菖ができてからはあんまり構ってもらえない気がしてねえ。仕方ないと思うところもありますけども。
菖にしても、今でこそベビーベッドの中から、そりゃあもう天使のように笑いかけてくれますが、そのうち口も利いてくれなくなるんでしょうねえ。『不潔!』とか言って。あっという間と言いますからね、子供の成長は。物心ついたと思ったらもうランドセルデビュー、ってな感じで。泣きたくなりますね。嫌われたくないなあ。
おっといけない、そんなことより。面白い話があったんですよ! 店長、ミステリお好きでしょう? 店名の「恋南」も、かのコナン・ドイルにあやかったって言うじゃありませんか。ここは一つわがままを聞くつもりで付き合ってくださいよ。
僕の家からこの店までの道は、緩やかな坂道になっていますよね。そこで、親子連れとすれ違ったんですね。このとおり、良いお天気でしょう? 近くの公園からもはしゃぎ声が、穏やかな風に乗って流れてきたりしてね。五月晴れって言うのかな。五月って読んじゃうと6月のことになるから、日本語は面白いんだけど……と、そんな話じゃなかった。
道の向こうに見えたのは、若いパパさんママさんと、ベビーカーに乗った赤ん坊の一組でした。実は丹後さんご家族だったんですけどね。あら店長、ご存じ? そうそう、皐月ちゃんって娘さんのいる。なるほど、何度かご夫婦でこの店にもいらっしゃってるんですね。それなら話は早いや。
うちの場合は、PTAの会合がきっかけで、僕の知らない間にママさん同士で仲良くなっていたみたいで。名前は聞いていたんですけどね。恥ずかしながら、さっきも前から歩いてくる夫婦がその丹後さんだなんて思いもしなかったですよ。いやあ、そういうのはママに任せっきりでして、はい……ありがたい話です。頭が上がりません。
ですからね、僕もその時はただ若い夫婦がいるなと思っただけだったんです。お二人と、ベビーカーに乗った赤ん坊が見えましてね。可愛かったですよお。ぽかぽか陽気の中、ぐっすり眠っちゃって! まあ、菖にはかないませんけどね。
それはさておき、驚いたのはここからです。なんと、夫婦はベビーカーを押していなかったんです。少し後ろを歩いていたんですよ。それなのに、赤ん坊を乗せたベビーカーはゆっくり進んでいました。まるで、自動的に動いているみたいに。
さあ店長、ここからがミステリマニアの出番ですよ。ずばり、この謎を解いて欲しいというわけです。
おっと、さっそく鋭いご指摘ですね。『坂道だったからだろう』と。ふふ、まあそんなうっかりさんもいるかもしれませんねえ。ベビーカーを離すだなんて。だけど違うんです。実は僕は坂道を下っていたんですよ。つまり夫婦にとっては上り坂になります。いくら緩やかとは言え、自然に登る道理はありません。
そのベビーカーの様子ですか? ははあ、今キャタピラの付いた、戦車みたいなごついのを想像しましたね? もしかしたらそんな代物もあるかもしれませんが、それはごく普通のベビーカーでしたよ。車輪が4つついて、天蓋が付いているやつです。大きさもごく普通の。高さは、天蓋まで含めるとママさんの胸の所にくるくらいでしょうか。
まあその時は遠目に見ただけですから、実は普通の姿をしたハイテクベビーカーなのかもしれませんけどね。そういうタイプのベビーカーもあるみたいですけど、結局、そうではなかったんです。そう、僕はもう答えを知っていますよ。すれ違う時に気付いたんです。
どうです、面白いでしょう? ミステリ好きの店長、当ててごらんなさいよ。もうネタ切れですか。そんなこと言わないで、さ、もう少し考えてみてください。良い頭の体操になりますよ。なになに? ほう、『実は目の錯覚で、やはり夫婦が押していた』と。まあ一番あり得そうな説ですがね、それは違うんですねえ。
さっきも言ったとおり、二人は少し後ろを歩いていましたし、何より真後ろじゃなかったんですよ。ご存じのとおりそこの道は広いから、その家族は広がって歩いていたんです。だから、はっきりとその奥さんも旦那さんも手が空いているところが見えましたよ。まあ二人は片方は繋いでいたんですけどね。おアツいことで! うらやましくなっちゃうね。まあそれはいいとして、二人とも、もう片方の手も空いていました。ベビーカーに触れている様子はなかったんです。
さあ、改めてお聞きしましょう。この謎が解けますか? 実はもうヒントは今の話に全て出ているはずです。
ええ、さらにヒントですか? 仕方ないなあ。では、今日は何の日でしょう? 5月5日です。そう、こどもの日ですね。
あ、分かりました? そうですね。うんうん、悔しいけど正解です。まあ皐月ちゃんのことを知っている店長なら、さすがに簡単だったかもしれませんね。
僕はさっき、うちと丹後さんとはママ同士PTAで打ち解けていたって話をしました。PTAということは、小学校以上です。ベビーカーの坊やは違う。もう一人、お子さんがいたんですね。小学校に上がったばかりの。
そう。その場には皐月ちゃんがいたんです。ベビーカーの陰に隠れて見えなかっただけだったんですね。
自走していたのではなく、皐月ちゃんが押していたんです。自分の背丈よりも高いベビーカーを、一生懸命に、後ろから。
緩やかな坂道とはいえ、力強いことですね。もちろん、丹後さん夫妻は後ろでちゃんと見守っていまいした。二人の気持ちは、分かるような気がしますよ。嬉しかったでしょうねえ。
この前までベビーカーに乗っていた子が、今度はベビーカーを押しているっていうんですから。感慨深いとはこのことですね。まったく。
まあ、そうとは露知らず、僕はすれ違うまで不可解極まりないといった感じでしてね。面妖な、とベビーカーが近付いてくるのを固まって見ていたんですが、旦那さんが声をかけてくださってね。『やあ、お散歩かい?』それで身体の緊張が解けました。同時に、『おや、このお二方は僕のことをご存じなのか』と不思議に思いました。
それで皐月ちゃんも僕に気付いたらしくて。ひょっこりベビーカーの陰から顔を覗かせて、『あ、昇君!』なんて黄色い声を上げてくれちゃってね、それで僕もようやく事の次第に気付いたという訳なんですが、えへへ。ええ、これでもクラスでは色男で通ってましてね。皐月ちゃんとも親しくさせて貰ってるんですけれども、はい。そこで初めて若夫婦が皐月ちゃんのご両親だったと知ったんですね。
と、こんなに長く店長を捕まえてちゃ悪いですね、またお客さんも来たみたいだし……って、おやや? ママ、迎えに来てくれたの? おおよちよち、菖もお日さまあびて気持ちよかったでちゅねえ。
もう、ママったら、口ではあんなこと言って、やっぱり僕のことが心配だったんだ? 嬉しいですねえ。
ああ、はい、今日くらい「こども」らしくできないのかって? いやはや、まったく。返す言葉もございません。
『自走するベビーカー』 完